「日本人の暮らし 昭和37~39年 」周防大島文化センター みずのわ出版 2009年 /「宮本常一著作集43 自然と日本人」 未来社 2003年 ② 【再掲載 2013.9】 [読書記録 民俗]
今回は、周防大島文化センターによる
「日本人の暮らし 昭和37~39年」を紹介します。
民俗学者、宮本常一さんの写真図録集です。
昭和37年~39年の日本各地の様子を知ることができます。
宮本さんが撮られた日常の記録で当時の生活が分かります。
写真図録の要約、しかもわたしが興味をもったことだけノートに残しました。
非常に短く、分かりづらいものになってしまいました。
周防大島は宮本さんの故郷です。
目次は、
「1 宮本常一が歩いた日本―昭和37~39年
2 大隅半島昭和37年
3 見島昭和37年
4 天竜川昭和38年
5 下北半島昭和38~39年
6 礼文島昭和39年
7 周防大島昭和39年」
となっています。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は‥
・「西浦のまつり」
- 現在は浜松市に入った水窪の西浦。
古くから続くといわれるの重要無形民俗文化財です。
西浦(にしうれ)の田楽として、今でも多くの観光客を集めています。
・「語り部・伝書鳩の時代」
- 語り部、伝書鳩の言葉もそう聞かないようになりました。
・「宮本氏が残した9万5千枚のモノクロ写真は、記憶のための写真であ
り、スルメのように味わうことができるものである」
もう一つ、再掲載となりますが、
「宮本常一著作集43 自然と日本人」②を載せます。
自然との付き合い方について考えさせられます。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「日本人の暮らし 昭和37~39年 」周防大島文化センター みずのわ出版 2009年
◇大隅半島S37
芳賀日出男
日本最後の海士・岩本五郎
宇久島 郷宿 満山鉤
オリンパスペンという好伴侶
9万5千枚のモノクロ写真
◇見島S37
萩再発見
- 宮本常一のまなざしを追う活動から
見島総合学術調査
◇天竜川S38
天竜川流域の村を訪ねる
216㎞の大河
『私の日本地図1 天竜川に沿って』同友館S42
須藤功『西浦のまつり』未来社
大阪府嘱託時代の元同僚・中村藤雄
大河原~遠山谷
田村善治郎
飯田-平谷-大河原-遠山谷-下伊那
語り部・伝書鳩の時代
◇下北半島S38~39
下北の旅
◇礼文島S39
礼文島での見聞
宮本常一の写真に触れて
9万5千枚
- 記憶のための写真,スルメのよう
◇周防大島S39
周防大島
☆「宮本常一著作集43 自然と日本人」 未来社 2003年 ② 【再掲載 2013.9】
◇伐る木・伐らぬ木
環境保全をやかましく言うようになって、山林などへの関心が大分深
くなってきた。
それまでは山林行政といえば雑木を伐ってスギ・マツ・ヒノキを植える
のがおきまりであったと言っていい。
それはそれで大切なことであるが、里に近い山はもっと色彩のゆたかな
ものにしてよいのではないかと思う。
いわゆる里山公園というようなものがあってよいのだと思う。
まず里山の雑木のあり方を見る。
そこにある木で仮にホオの木が多いと、ホオを残して、他の木はできる
だけ伐ってホオの林を作っていく。
すると樹間が広くなる。
そうしたところがキャンプ場や林間学枚などに利用されたらどうであろ
う。
さきほど佐渡の小木岬をあるいてみて思ったことだが、岬の雑木を見る
と、いろいろの木が群落をなしている。
ヤマザクラの多いところもあり、イタヤカエデの多いところもある。
ヤマザクラの多いところはヤマザクラを残してヤマザクラの林にする。
イタヤの多いところはイタヤの林にする。
それほど手をかけなくても、それだけですばらしい風景が作り出せるの
ではないだろうか。
私はソメイヨシノなどよりもヤマザクラの方がよいように思う。
それが一つの山を掩うて花をつけたときは遠眼に見て何より美しい。
広島県の宮島は今は松に掩われているが、明治の中頃まではヤマザクラ
が多く春になると見事であったと昔の人はいう。
そのサクラを伐って土産物の杓子や盆を作ったのだそうである。
やがてその材がなくなって、材料は他から取り寄せ、山はマツに掩われ
ることになった。
愛知県佐久島へいったとき、島の山はマツが掩っていたが、松林へはい
ってみるとヤマモモが多い。
しかし大きい木はない。
きいてみると、ヤマモモは大きくなると薪として伐るのだとのことであ
ったが、むしろマツを伐ってヤマモモを残し、ヤマモモの島にしたらどう
であろうと思った。
きっとたのしい島になるだろう。
植える労力をかけなくても自然はかえられるものである。
そのように考えてみると、風景のかえられるところは実に多い。
山口県大島に大崎という岬があって、その崖になったところにヤブツバ
キが多く、春になると花をつけた。
雑木を伐ってツバキを残すと、美しいツバキの林ができるのだがと、そ
の町の人々は話していたのだが、あるときそこを通ってみると、ほとんど
伐ってしまっていた。
崖の下をバス道路が通っており、見通しをよくするための作業であった
ようである。
何とも残念な限りであるが後の祭りで、もう一度仕立てるとなると、20
年がかりの仕事になる。
伐るのはやすいが、育つのはむずかしい。
それだけに育っているものは大事にしなければならない。
と同時に、伐るにしても、何の木を残すかが大変大事な問題になってく
る。
もう一度佐渡の話をする。
佐渡という島には、もとカヤの木が多かった。
成長のおそいかわりに材は固くて艶があり、細工物に使い、将棋盤には
もっともよいとされて、ほとんど伐ってしまって今はほんのわずかしかな
い。
さて伐ったあとには雑木が茂って雑木山になったのだが、雑木山をある
いてみると下木にカヤが茂っているのである。
雑木を伐ってもう一度カヤ山にしてみないかとすすめてみたが、その町
ではとりあげてくれなかった。
カヤが成長してカヤの実がなるようになるまでには長い年月を要するだ
ろうが、夢を将来に托するのも面白いことと思う。
木を伐るのではなくて、瀬戸内海地方の島々ではマツクイムシのために
おびただしいマツが枯れた。
禿山になるかと思っていたが、あとから照葉樹が生えて青くなってきた。
「ああ、これがマツのまえに生えていた木だったのか」
と感心したのだが、所によると女竹の茂ったところがある。
海に近いところである。
この女竹は矢に利用されたものではないかと思う。
矢をつくるには矢竹を多く用いるが、矢はもともと消耗品で数の多い方
がよい。
そこで海賊たちは女竹の矢を作って使ったのではないかと思う。
女竹の茂った島や岬の近くに海賊浦だったところが少なくない。
マツが枯れてそのあとが女竹の薮になったので、そんなことに気がつい
たのである。
海賊がいなくなってかれこれ400年になる。そして矢が必要なくなり、
かわってマツが茂ってきたのだが、その下草になった女竹は根絶しないで、
マツの木の下でひっそりと小さく生きつづけてきていたのである。
そこに茂っている木は遠い長い歴史を秘めているものでもある。
「日本人の暮らし 昭和37~39年」を紹介します。
民俗学者、宮本常一さんの写真図録集です。
昭和37年~39年の日本各地の様子を知ることができます。
宮本さんが撮られた日常の記録で当時の生活が分かります。
写真図録の要約、しかもわたしが興味をもったことだけノートに残しました。
非常に短く、分かりづらいものになってしまいました。
周防大島は宮本さんの故郷です。
目次は、
「1 宮本常一が歩いた日本―昭和37~39年
2 大隅半島昭和37年
3 見島昭和37年
4 天竜川昭和38年
5 下北半島昭和38~39年
6 礼文島昭和39年
7 周防大島昭和39年」
となっています。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は‥
・「西浦のまつり」
- 現在は浜松市に入った水窪の西浦。
古くから続くといわれるの重要無形民俗文化財です。
西浦(にしうれ)の田楽として、今でも多くの観光客を集めています。
・「語り部・伝書鳩の時代」
- 語り部、伝書鳩の言葉もそう聞かないようになりました。
・「宮本氏が残した9万5千枚のモノクロ写真は、記憶のための写真であ
り、スルメのように味わうことができるものである」
もう一つ、再掲載となりますが、
「宮本常一著作集43 自然と日本人」②を載せます。
自然との付き合い方について考えさせられます。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「日本人の暮らし 昭和37~39年 」周防大島文化センター みずのわ出版 2009年
◇大隅半島S37
芳賀日出男
日本最後の海士・岩本五郎
宇久島 郷宿 満山鉤
オリンパスペンという好伴侶
9万5千枚のモノクロ写真
◇見島S37
萩再発見
- 宮本常一のまなざしを追う活動から
見島総合学術調査
◇天竜川S38
天竜川流域の村を訪ねる
216㎞の大河
『私の日本地図1 天竜川に沿って』同友館S42
須藤功『西浦のまつり』未来社
大阪府嘱託時代の元同僚・中村藤雄
大河原~遠山谷
田村善治郎
飯田-平谷-大河原-遠山谷-下伊那
語り部・伝書鳩の時代
◇下北半島S38~39
下北の旅
◇礼文島S39
礼文島での見聞
宮本常一の写真に触れて
9万5千枚
- 記憶のための写真,スルメのよう
◇周防大島S39
周防大島
☆「宮本常一著作集43 自然と日本人」 未来社 2003年 ② 【再掲載 2013.9】
◇伐る木・伐らぬ木
環境保全をやかましく言うようになって、山林などへの関心が大分深
くなってきた。
それまでは山林行政といえば雑木を伐ってスギ・マツ・ヒノキを植える
のがおきまりであったと言っていい。
それはそれで大切なことであるが、里に近い山はもっと色彩のゆたかな
ものにしてよいのではないかと思う。
いわゆる里山公園というようなものがあってよいのだと思う。
まず里山の雑木のあり方を見る。
そこにある木で仮にホオの木が多いと、ホオを残して、他の木はできる
だけ伐ってホオの林を作っていく。
すると樹間が広くなる。
そうしたところがキャンプ場や林間学枚などに利用されたらどうであろ
う。
さきほど佐渡の小木岬をあるいてみて思ったことだが、岬の雑木を見る
と、いろいろの木が群落をなしている。
ヤマザクラの多いところもあり、イタヤカエデの多いところもある。
ヤマザクラの多いところはヤマザクラを残してヤマザクラの林にする。
イタヤの多いところはイタヤの林にする。
それほど手をかけなくても、それだけですばらしい風景が作り出せるの
ではないだろうか。
私はソメイヨシノなどよりもヤマザクラの方がよいように思う。
それが一つの山を掩うて花をつけたときは遠眼に見て何より美しい。
広島県の宮島は今は松に掩われているが、明治の中頃まではヤマザクラ
が多く春になると見事であったと昔の人はいう。
そのサクラを伐って土産物の杓子や盆を作ったのだそうである。
やがてその材がなくなって、材料は他から取り寄せ、山はマツに掩われ
ることになった。
愛知県佐久島へいったとき、島の山はマツが掩っていたが、松林へはい
ってみるとヤマモモが多い。
しかし大きい木はない。
きいてみると、ヤマモモは大きくなると薪として伐るのだとのことであ
ったが、むしろマツを伐ってヤマモモを残し、ヤマモモの島にしたらどう
であろうと思った。
きっとたのしい島になるだろう。
植える労力をかけなくても自然はかえられるものである。
そのように考えてみると、風景のかえられるところは実に多い。
山口県大島に大崎という岬があって、その崖になったところにヤブツバ
キが多く、春になると花をつけた。
雑木を伐ってツバキを残すと、美しいツバキの林ができるのだがと、そ
の町の人々は話していたのだが、あるときそこを通ってみると、ほとんど
伐ってしまっていた。
崖の下をバス道路が通っており、見通しをよくするための作業であった
ようである。
何とも残念な限りであるが後の祭りで、もう一度仕立てるとなると、20
年がかりの仕事になる。
伐るのはやすいが、育つのはむずかしい。
それだけに育っているものは大事にしなければならない。
と同時に、伐るにしても、何の木を残すかが大変大事な問題になってく
る。
もう一度佐渡の話をする。
佐渡という島には、もとカヤの木が多かった。
成長のおそいかわりに材は固くて艶があり、細工物に使い、将棋盤には
もっともよいとされて、ほとんど伐ってしまって今はほんのわずかしかな
い。
さて伐ったあとには雑木が茂って雑木山になったのだが、雑木山をある
いてみると下木にカヤが茂っているのである。
雑木を伐ってもう一度カヤ山にしてみないかとすすめてみたが、その町
ではとりあげてくれなかった。
カヤが成長してカヤの実がなるようになるまでには長い年月を要するだ
ろうが、夢を将来に托するのも面白いことと思う。
木を伐るのではなくて、瀬戸内海地方の島々ではマツクイムシのために
おびただしいマツが枯れた。
禿山になるかと思っていたが、あとから照葉樹が生えて青くなってきた。
「ああ、これがマツのまえに生えていた木だったのか」
と感心したのだが、所によると女竹の茂ったところがある。
海に近いところである。
この女竹は矢に利用されたものではないかと思う。
矢をつくるには矢竹を多く用いるが、矢はもともと消耗品で数の多い方
がよい。
そこで海賊たちは女竹の矢を作って使ったのではないかと思う。
女竹の茂った島や岬の近くに海賊浦だったところが少なくない。
マツが枯れてそのあとが女竹の薮になったので、そんなことに気がつい
たのである。
海賊がいなくなってかれこれ400年になる。そして矢が必要なくなり、
かわってマツが茂ってきたのだが、その下草になった女竹は根絶しないで、
マツの木の下でひっそりと小さく生きつづけてきていたのである。
そこに茂っている木は遠い長い歴史を秘めているものでもある。