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鷲田小彌太さんはこんなことを 25-「日本人のための歴史を考える技術」PHP 1999年 (5) /「地域住民から福祉・教育関係者等への無理難題要求をどう読み解き対応するか」~イチャモン研究の到達点~  大阪大学教授 小野田正利 2008年 ⑧【再掲載 2015.11】 [読書記録 歴史]

今回は、12月15日に続いてわたしの読書ノートから、
「鷲田小彌太さんはこんなことを」25回目、
「日本人のための歴史を考える技術」の紹介 5回目です。

おもしろい説だと思いました。


出版社の案内には

「邪馬台国論争とは何か、『記紀』の正しい読み方はなど、歴史の『なぜ』を
 いかに問い、考えるかについて、全ての知識や学問の基礎が歴史にあると
 考える哲学教授が挑む日本人のための日本史講座・古代篇。」

とあります。



今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「歴代天皇の中で『神』を名に持つのは神武・崇神・応神のみ=建国者」


・「聖徳太子、用明天皇は,ともに天王・馬子の架空の分身」


・「『大化の改新』は継体系の中大兄皇子と中臣鎌足を中心としたクーデター」


・「カラ連合国の王がヤマト王朝初代の崇神」




もう一つ、再掲載になりますが、小野田正利さんの
「地域住民から福祉・教育関係者への無理難題要求をどう読み解き対応する
か」⑧をのせます。
「モンスターペアレント」という言葉をこのごろあまり聞きません。
無くなったのではなく、「無理難題要求」が当たり前のように感じられるよう
になったのでしょう。
わたしも鈍感になりました。
教え子が教職を志したとき、気持ちよく勧められる状況ではありません。
10年後の「学校」が心配です。




<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。






☆鷲田小彌太さんはこんなことを 25-「日本人のための歴史を考える技術」 1999年 PHP (5)

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◇大化の改新の謎

□聖徳太子の正体がわかれば古代史の謎が解ける?
神武・崇神・応神・継体・雄略
    ~ 漢風の諡(おくりな)
      8世紀後半につけられた
神武の実名はヒコホホデミ・ワケミケヌ・トヨミケヌ


  歴代天皇の中で「神」を持つのは神武・崇神・応神のみ = 建国者
崇神  4世紀中頃 
        ゆるやかな連合国家 
        倭(ヤマト)国の建国者

    応神  百済王弟の昆枝
         461年倭に渡来 崇神の入り婿に
           → 武 ヤマト王朝

    継体  応神 = 昆枝の弟 
        兄の後を受け天王位

    欽明  応神 = 昆枝の子
531年 クーデターで権力
蘇我氏は昆枝直系の天王家で稲目は欽明に当たる
応神系 - 蘇我馬子 勝利
継体系 - 物部守屋
聖徳太子、用明天皇は,ともに天王・馬子の架空の分身

 「大化の改新」は継体系の中大兄皇子と中臣鎌足を中心としたクーデター

「壬申の乱」 中大兄皇子 VS 古人大兄 継体系天王家・宗家・長子 (父が継体系 母が蘇我系) 馬子の孫

◎ 大和朝廷の本格的始動

 


◇倭国とは何か

□様々な「倭王」
倭国と呼ばれた地域は非連続の国
 「漢倭奴国王」金印の疑問
① 漢と名乗る必要があるか? 
        ~ 中華思想
② 倭の奴国か委奴(いと)国か?


□緩やかな連合国家の誕生
委国 - 邪馬台国の壱与の時代まで分立した諸国からなっていた

  弥生から古墳時代の1000年間に朝鮮から100万人以上の渡来人 
~3世紀半ば 
      加羅は12国に分かれた「弁韓」と呼ばれている
4世紀前半 南加羅を中心とする連合体
石渡説 南加羅の王(首露)が初代盟主
4世紀半ばに日本に渡来し新倭国の王に

◎ カラ連合国の王がヤマト王朝初代の崇神

 






☆「地域住民から福祉・教育関係者等への無理難題要求をどう読み解き対応するか」~イチャモン研究の到達点~  大阪大学教授 小野田正利 2008年 ⑧【再掲載 2015.11】

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(2)教師の辞め方と学校観・社会観

 こういった実態に注目したテレビ局の30教社が、私の所にやってきて、イン
タビューに答えてくれる関係者を紹介してくれと迫ることが多くあります。


 私の進めてきた研究に賛同して多くの情報をくれた教員や校長でも、画面に
顔を写すことはもちろんのこと、この要望に応じてくれる人を探すのは本当に
難しくなりました。


 NHKの「クローズアップ現代」のような番組でさえ、民放各局と同じよう
に抵抗感があります。


 退職校長でもそれは同じですが、その出演交渉を私がしていて、気が付いた
ことがあります。


 それは、校長(教員)を辞める時の「辞め方」や「背景」によって、その後
の人生観も世界観も変わってしまっているのではないかということです。




 在職中に、それはしんどい保護者との対応で苦労された校長がおられました。


 もう3年以上前に、私の存在に注目し、真っ先に校内研の講師を依頼してこ
られた方です。
  

 私は半年間に、その学校に二度も研修会講師として立ち会い、個別の対応の
アドバイスをしました。


 その校長は、定年退職が決まっている後の、次年度の計画も立てながら、積
極的に取り組んでおられました。


 しかし私が出演(もちろん首から下だけの映像)をお願いすると

「小野田さん、悪いけど、もう自分は学校や教育のことは考えたくもないんだ
 わ。そういう世界とは無縁のところで生きていきたいから、今後は連絡をと
 らないでくれ」


と言われました。


 元校長の声は沈んでいましたが、それを聞いた私は「フラッシュバックを起
こさせてしまったのか、申し訳ない」という思いと同時に、「思い出すのも嫌
だ」というほどの気持ちを持つことの悲しみを感じました。
  


「子どもとの関係だけやったら、なんぼでもする。でもな、保護者との関係は
 そうはいかん。苦しい思い出の方が募る」


と、執拗なクレームの嵐の中で「楽になりたい」といって辞めていった先生が
たくさんいます。


 子どもだちとの交流で楽しい経験もたくさんあったであろう教員・校長とし
ての30年が、無惨にも全否定せざるをえないような気持ちになることは、退職
後の生き方やモノの見方に本当に大きな影を落としていくように感じます。


 冒頭で述べた、退職後の立場の変化で、子どもに対する見方が変わったのと
は対照的な姿です。

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