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「宮本常一著作集 42 父母の記/自伝抄」 宮本常一 未来社 2002年 ③ /「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版 ③ 【再掲載 2013.6】 [読書記録 民俗]

今回は、12月26日に続いて、宮本常一さんの著作集から
「42 父母の記/自叙伝」の紹介 3回目です。






出版社の著者紹介には

「宮本常一に強大な影響を与えた父、母、祖父、祖母に関する文章および自伝
 的エッセイを収録する。また本巻には、母の葬儀の際に出席者へ配った、
 『母の記』、妻へ向けた文章を含む『我が半生の記録』(『妻たる人に』)、
 郵便局の勤務時代の回想である『私の郵便局時代』、祖母の死去と葬儀の行
 程を記した『祖母の死と葬儀』、父の死のドキュメントである日記など、
 今回初公開となるきわめてプライヴェートで貴重な文章を多数収録。」
 
とあります。



今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「『私が郵便配達人になったのは大衆の人生を知りたいためですよ』
        高麗橋郵便局(のち大阪東郵便局)の配達員の言葉」


・「『文明とはいったい何なのだろう。人間として一番大切なものが失われてゆ
く姿ではないだろうかと思ってみたりする。』昭和38年10月渋沢没後、
渋沢邸が大蔵省へおさめられアチック・ミューゼアムも壊されることになった時の宮
  本常一の言葉 」


・「『どのような僻地にも自分たちの住む世界を理想郷にしようと懸命になって
  努力し工夫している人が必ずいたもので,そういう人がまた優れた伝承者
  だった』昭和14年11月16日に島根県田所村の田中梅治翁を訪ねた時に」


・「渋沢持論『焦ってはいけない。浮き足だってはいけない。自分たちの行き先
 をじっと見つめていなければいけない』」




もう一つ、再掲載になりますが、今年亡くなられた佐野眞一さんの
「宮本常一が見た日本」③を載せます。
佐野さんがNHK教育テレビで懸命に伝えた宮本民俗学、
今でも頭に残っています。





<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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☆「宮本常一著作集 42 父母の記/自伝抄」 宮本常一 未来社 2002年 ③

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◇私の郵便局時代
  懐かしい人々 
    担任の先生 - 司法官に

路地奥の人生 
    高麗橋郵便局
     → のち大阪東郵便局

配達員
  「私が郵便配達人になったのは大衆の人生を知りたいためですよ」



◇師範学校時代
大正15年4月 天王寺師範二部入学

  檜垣月見(広島県海田市) 
    クロポトキン「相互扶助論」「自叙伝」



◇自伝抄
二ノ橋付近
  昭和14年秋から三田綱町渋沢邸
      アチック・ミューゼアム2階で生活
戦後大蔵省に物納した第一公邸 
      毎晩宴会
昭和38年10月渋沢没後、家が大蔵省へ 
      アチック・ミューゼアムも壊されることになった

うずくまって泣いた
    「文明とはいったい何なのだろう。人間として一番大切なものが失わ
     れてゆく姿ではないだろうかと思ってみたりする。」 


  古川が流れる小さな橋 
澁谷の谷 ~ 古川
第一公邸
      織田出羽守 - 島津淡路守 - 有馬中務大輔
→ 明治 仁礼海軍大将 → 渋沢家(篤二→敬三)
    昭和14年10月25日から住む 
昭和10年大阪民俗談話会で知り合う

  渋沢先生のお宅を訪問  
大阪民俗談話会 
桜田勝徳
岩倉市郎 のちに伊波普猷の指導を受ける

渋沢家の屋根裏博物館
「チームワークとしての玩具研究」
     → 民具研究

  軸
   ~ 柳田国男,折口信夫
渋沢敬三はリーダーではなく後衛の役
集う 早川孝太郎 
          - 三河山中の人 柳田に見いだされた
花祭りの研究

  いつも7,8人の書生
    渋沢栄 - 若くして徳川昭武についてフランスに行き学ぶ
   ↓
 明治社会に生かし日本近代化に貢献
   
  アチックミューゼアム 
    民俗研究室 
水産史研究室

いろいろな人が出入り 
     アイヌ学者・知里真志保 
     ヤミ族研究・鹿野忠雄
   
  ふるさとを語る話の広場 
    アチック2階三畳間 
    客があると声が掛かり相手
   
  多士多才な学者が集まる
    水産史研究室  32歳 遅い出発
必ず確かめることが求められた

中国地方の旅に感銘 
    昭和14年11月16日 田中翁 島根県田所村田中梅治翁
◎ どのような僻地にも自分たちの住む世界を理想郷にしようと懸命
     になって努力し工夫している人が必ずいたもので,そういう人がま
     た優れた伝承者だった
    命の躍動する古老の話 昭和15年1月 九州へ
南郷村・大平虎吉翁 臼太鼓の話

  雑談楽しみに銭湯通い 
    旅の目的 
      ◎ 民俗事象の採集
      ◎ 人々の生活を見ること
         田舎とは何か 
なぜこのような形で存在しているのか      

研究に戦争の色濃く 
伊豆の習俗を訪ね歩く
- 桜田勝徳と共に

月の夜の奄美大島
     - 桜田勝徳と共に 宝島調査

  御薗先生の話から
    山口の県史編纂室で郷土関係のものを筆者  
◎ 民間学者はまず自分の郷里を詳しく知ることから

善福寺裏の岩倉さん
    渋沢先生の文化論 
      岩倉さん 
        「いつまでも田舎者でなければなりませんね」
      渋沢   
         実に多くの共通性が常民生活の中にある  
渋沢持論
     「焦ってはいけない。浮き足だってはいけない。自分たちの行き先
      をじっと見つめていなければいけない」

  人心荒む戦中の研究
昭和15年11月15日 
      紀元2600年式典
昭和17年
      どこを歩いても子どもたちが「スパイスパイ」
2月~ 渋沢が日本銀行の副総裁に 盗み(作物)も横行

  東京の細い一本の道 
昭和19年1月 
      大阪府泉北郡鳳町に帰った 
      教員生活に戻る
昭和21年1月 
      上京 
      戦焼 → 江戸以前の古い姿
◎ 古いものは全て消え去る者ではなくて,どこかに何らかの形
       で残っていく

  変わりゆく町の風情 
渋沢が 民族学協会会長,九学会連合会長

  深く厳しい農村の課題
山間の村々には戦死者が多い
     - ダムの建設






☆「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版 ③ 【再掲載 2013.6】

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◇海から見た日本

  梶田富五郎の人生
    昭和20年代 
      郵便局長が地域のナビゲーターだった
メシモライ = 相互扶助
浅藻に住み着く 
~ 港ができるまで30年間かかった


 取材ノートの山 
宮本の対馬調査に掛ける執念
中世社会の残存 
     村落共同体の寄り合い(伊奈) - 古文書
= アメリカ式民主主義への痛烈な批判(千尋藻)
400年前から続く寄り合い

  
 「満山鈎」
   - 厳原の満山善雄氏

   
 宮本学問の基礎は「芋」と「海人」
「そりゃあ物知りだった」



◇庶民へのアプローチ

  三州名倉
    愛知県設楽郡設楽町奥三河郷土館 = 宮本学の標本
旧名倉村調査(昭和30~41)
昭和31.9.11 昭和35.5
  「名倉談義」「名倉村・部落について」林業金融調査会

  宮本
   「樹を見ろ、いかに大きな幹であっても枝葉がそれを支えている。その
    枝葉を忘れて幹を論じてはいけない。その枝葉の中に大切なものがあ
    る。学問や研究はあくまで庶民や民衆の土台に築き上げるものだ」
= 民俗誌 から 生活誌 への転換 
    = 宮本学の確立

  沢田久夫氏『三州名倉-史的変遷篇』(昭和26年)


 「人文科学」と「訊問科学」
○ 常に固有名詞を使うこと  
    ○ 調査には必ずお返しを


 五平餅と赤みそ  
   三河田口 - 奥三河郷土館  
   「万歳峠」


 名倉談義 臨済宗大蔵寺で
夜這い
     - 夜ぼはみ
     - 私生児「堀田子」
相手の話が本当かどうかの判断基準
     ① 堕胎間引きの話が出るかどうか 
     ② どぶろくが出るかどうか


 宮本民俗学
  「変わらない事への関心」



◇食糧確保の使命
  敗戦の頃   
    戦前と変わらず - 棒のように貫いている


 集団帰農列車
   北海道開拓 
     昭和22.10.20大阪発-10.23札幌着
天塩地方へ300人を引率 幌延-初山別に


 十津川と新十津川
明治22(1889)年8月の大豪雨により移住


 ※ 宮本にとってたった一度の「官」の旅が宮本に慚愧の涙を流させた


 「棄民」の旅
   → 済民の旅行脚へ

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