「宮本常一 写真・日記集成」上巻 昭和30-39 毎日新聞社 2005年 /「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版 2001年 ④ 【再掲載 2011.10】 [読書記録 民俗]
今回は、宮本常一さんの
「宮本常一 写真・日記集成」上巻を紹介します。
出版社の紹介には
「子どもたちの眼が輝いていた、忘れられた日本がここにある。
民俗学者・宮本常一が遺した写真の全貌が、ここに明らかに。
約3千点の写真と、1万3千余日の日記で綴る、戦後昭和の日本の記録。
・多数の未公開写真を含む約3000カットを掲載
・オリジナルフィルムから新たにプリントした精彩な画像
・別巻には、宮本常一自身が整理した写真帳(戦前・戦中の写真400点)の
全体を原寸大で再現
・未公開の日記(昭和20年1月から昭和56年1月まで)を収録
・写真と日記を対照させた編年体で構成」
とあります。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「昭和30年から昭和55年の26年間に1700本近くのフィルムを使って写真
を撮った。1700本の2/3が35㎜のハーフサイズでとられており、10万カッ
ト分となる。被写体は庶民の日常的な生活とその生活空間である」
・「執筆は生活費・研究費を得るためであり、宮本氏が研究できたのは平凡社
のおかげ、NHKのおかげであるともいえる - 赤坂憲雄」
・「宮本氏の写真には『人が呼ぶ』引きつけられる魅力があり、無意識に出
合った一瞬に拠り、あったかいところばかり撮っている。情があり、温か
い気持ちがこもった写真である - 荒木経惟」
・「『地方とは何か、生活とは何か、民俗とは何か』
『はっと思ったら撮れ、おやっと思ったら撮れ』」
もう一つ、再掲載になりますが、佐野眞一さんの
「宮本常一が見た日本」④を載せます。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「宮本常一 写真・日記集成」上巻 昭和30-39 毎日新聞社 2005年
◇刊行に当たって
宮本常一
カメラ → 『私の日本地図』シリーズ
写真 昭和30年~昭和55年 26年間 1700本近く
2/3が35㎜のハーフサイズ 10万カット
被写体 - 庶民の日常的な生活とその生活空間
記憶のための覚え書き
日付のある写真
- ジャーナリストの眼
日記 忘備・メモのため
◇昭和34(1959)年
7/27~8/1 水窪
1/11(日) 浜松写真
『日本残酷物語』原稿
◇昭和35(1960)年
7/26 『忘れられた日本人』刊行
◇昭和36(1961)年
6/21 家を購入 府中に
◇昭和37(1962)年
3/19 母逝去
5/12 妻子が東京へ
8/8 柳田国男逝去
4/13 西郷武彦
◇昭和38(1963)年
6月 雑誌『デクノボウ』創刊
7月 雑誌『日本発見』創刊
1/2 河岡武春
9/16 浜松
10/25 渋沢敬三逝去
◇昭和39(1964)年
武蔵野美術大学講師
3/28 秋山ちえ子
◇生々しい肉声が聞こえてくる 赤坂憲雄(民俗学者)
執筆 ~ 生活費・研究費
平凡社、NHKのおかげ
藤田省三『保守主義的翼賛理論-長谷川如是閑・宮本常一』
◇風景と言うより情景だね 荒木経惟(写真家)
「人が呼ぶ」 引きつけられる魅力
無意識に出合った一瞬に拠っちゃって撮りたい
あったかいところばかり撮っている
情 温かい 気持ち
◇未踏の景観学のために 松山巌(小説家・評論家)
体系がないとされるのはスケールの大きさの違いのため?
|
景観全体と学問に
民俗学 → 実践的な生き方に
◇この人は伊能忠敬みたいだね 森山大道(写真家)
10万カット 普通じゃない
「見る」ことへのこだわり エネルギー・センサー
徹底してみる 徹底して歩く
通過者の視点
「突出していない日本の場所を全部埋めている印象」
◇なにものにもなりようがない者の眼 河瀨直美(映画監督)
天気・季節
古都 奈良の変貌
◇父の写真 宮本千春
須藤功を観文研に
姫田忠義、伊藤碩男 ← 彼ら自身を発見者にしたかった
「地方とは何か、生活とは何か、民俗とは何か」
「はっと思ったら撮れ、おやっと思ったら撮れ」
◇とう、はなす、書く13000日 中村○(鐵か?)太郎
13178日
物書きの手による字
合理主義・機能優先主義
◇はじまりの話 伊藤幸司
民俗学の視点を持ったジャーナリストによる庶民の戦後、昭和史
☆「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版 2001年 ④ 【再掲載 2011.10】
◇山河への憧憬
十津川
「兵力の貯蔵地」
統一側に兵力
→ 別天地を守った
免租地だった(明6まで)
秘境へ
維新後、長年の「天皇」忠誠の功により全員士族に列せられた
戦前の調査 「油屋旅館」(城戸)
<第一次世界大戦を堺に庶民文化にある断層があった>
峠を越えて
十津川崩れ 昭和29(1954)年
谷瀬の吊り橋
地元住民が38戸で800万円をつくった = 「公」精神
十津川 玉置神社
◇農業のプロとして
佐渡の道
初めては昭和33(1958)10月
以後S34,35,37.11,38.12,39.3・6・8,40.8
「宮本ワールド」の展示場
① 佐渡国小木民俗博物館
② 八珍柿
◎「人づくりができて道づくりができる。道づくりができて初めて産
地づくりができる」
宮本は我が国屈指の篤農家
◇離島振興にかける
「済民」のアジテーター
昭和31(1961)田耕(田尻耕三)と初見
→ 昭和33(1958)本間氏宅に居候
昭和44(1969)鬼太鼓座
→ 現在の「鼓童」 代表・大井良明
「宮本はそそのかしの天才、山師」
離島の慈父
『日本の離島』未来社
昭和28(1953)年7月離島振興法
「光と水」 = 電気と水道がスローガン
山階芳正氏が幹事役
田中角栄と宮本常一
昭和25(1950)年 国土総合開発法 田中角栄
田中角栄と宮本常一はコインの裏表
◎ 田中 まず都会と結べ = 中央と直結
◎ 宮本 離島自体からエネルギーを
昭和41(1966)年
『日本の離島』第2集
昭和28年7億円
→ 昭和40年90億円
◎「…無駄遣いが多すぎる。家だけは立派になっているが生産の方は大
して伸びていない。家を改築する前にもっと再生産のための設備投
資に本気になれないものか。これではいつまでたっても島が本質的
な力で本土に追いつく日はない。」
◎「…資本主義的な思想の恐ろしさというようなものを近頃しみじみ思
う。しかも、それが国民全体の一つの思想になりつつあるのではな
いか」
↓
昭和47(1972)年
『日本列島改造論』
◎ 辺境の村や島にひそむ土地の精霊たちを根絶する一種「革命的」
な振る舞いであった
∥
田中角栄
息が詰まる程のコンプレックスで自分を呪縛し、日本の村々を
支配してきた古い呪術的神々を見殺しにすることに生涯を掛けた
政治家だったとも言える
昭和40年代後半宮本の旅は祖霊を失った人々を癒して歩く求道者めいた
旅になる
◎ 「宮本先生は現代の一遍上人だった」
◎ 「宮本さんは弘法大師の生まれ変わりのような方だった」
「宮本常一 写真・日記集成」上巻を紹介します。
出版社の紹介には
「子どもたちの眼が輝いていた、忘れられた日本がここにある。
民俗学者・宮本常一が遺した写真の全貌が、ここに明らかに。
約3千点の写真と、1万3千余日の日記で綴る、戦後昭和の日本の記録。
・多数の未公開写真を含む約3000カットを掲載
・オリジナルフィルムから新たにプリントした精彩な画像
・別巻には、宮本常一自身が整理した写真帳(戦前・戦中の写真400点)の
全体を原寸大で再現
・未公開の日記(昭和20年1月から昭和56年1月まで)を収録
・写真と日記を対照させた編年体で構成」
とあります。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「昭和30年から昭和55年の26年間に1700本近くのフィルムを使って写真
を撮った。1700本の2/3が35㎜のハーフサイズでとられており、10万カッ
ト分となる。被写体は庶民の日常的な生活とその生活空間である」
・「執筆は生活費・研究費を得るためであり、宮本氏が研究できたのは平凡社
のおかげ、NHKのおかげであるともいえる - 赤坂憲雄」
・「宮本氏の写真には『人が呼ぶ』引きつけられる魅力があり、無意識に出
合った一瞬に拠り、あったかいところばかり撮っている。情があり、温か
い気持ちがこもった写真である - 荒木経惟」
・「『地方とは何か、生活とは何か、民俗とは何か』
『はっと思ったら撮れ、おやっと思ったら撮れ』」
もう一つ、再掲載になりますが、佐野眞一さんの
「宮本常一が見た日本」④を載せます。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「宮本常一 写真・日記集成」上巻 昭和30-39 毎日新聞社 2005年
◇刊行に当たって
宮本常一
カメラ → 『私の日本地図』シリーズ
写真 昭和30年~昭和55年 26年間 1700本近く
2/3が35㎜のハーフサイズ 10万カット
被写体 - 庶民の日常的な生活とその生活空間
記憶のための覚え書き
日付のある写真
- ジャーナリストの眼
日記 忘備・メモのため
◇昭和34(1959)年
7/27~8/1 水窪
1/11(日) 浜松写真
『日本残酷物語』原稿
◇昭和35(1960)年
7/26 『忘れられた日本人』刊行
◇昭和36(1961)年
6/21 家を購入 府中に
◇昭和37(1962)年
3/19 母逝去
5/12 妻子が東京へ
8/8 柳田国男逝去
4/13 西郷武彦
◇昭和38(1963)年
6月 雑誌『デクノボウ』創刊
7月 雑誌『日本発見』創刊
1/2 河岡武春
9/16 浜松
10/25 渋沢敬三逝去
◇昭和39(1964)年
武蔵野美術大学講師
3/28 秋山ちえ子
◇生々しい肉声が聞こえてくる 赤坂憲雄(民俗学者)
執筆 ~ 生活費・研究費
平凡社、NHKのおかげ
藤田省三『保守主義的翼賛理論-長谷川如是閑・宮本常一』
◇風景と言うより情景だね 荒木経惟(写真家)
「人が呼ぶ」 引きつけられる魅力
無意識に出合った一瞬に拠っちゃって撮りたい
あったかいところばかり撮っている
情 温かい 気持ち
◇未踏の景観学のために 松山巌(小説家・評論家)
体系がないとされるのはスケールの大きさの違いのため?
|
景観全体と学問に
民俗学 → 実践的な生き方に
◇この人は伊能忠敬みたいだね 森山大道(写真家)
10万カット 普通じゃない
「見る」ことへのこだわり エネルギー・センサー
徹底してみる 徹底して歩く
通過者の視点
「突出していない日本の場所を全部埋めている印象」
◇なにものにもなりようがない者の眼 河瀨直美(映画監督)
天気・季節
古都 奈良の変貌
◇父の写真 宮本千春
須藤功を観文研に
姫田忠義、伊藤碩男 ← 彼ら自身を発見者にしたかった
「地方とは何か、生活とは何か、民俗とは何か」
「はっと思ったら撮れ、おやっと思ったら撮れ」
◇とう、はなす、書く13000日 中村○(鐵か?)太郎
13178日
物書きの手による字
合理主義・機能優先主義
◇はじまりの話 伊藤幸司
民俗学の視点を持ったジャーナリストによる庶民の戦後、昭和史
☆「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版 2001年 ④ 【再掲載 2011.10】
◇山河への憧憬
十津川
「兵力の貯蔵地」
統一側に兵力
→ 別天地を守った
免租地だった(明6まで)
秘境へ
維新後、長年の「天皇」忠誠の功により全員士族に列せられた
戦前の調査 「油屋旅館」(城戸)
<第一次世界大戦を堺に庶民文化にある断層があった>
峠を越えて
十津川崩れ 昭和29(1954)年
谷瀬の吊り橋
地元住民が38戸で800万円をつくった = 「公」精神
十津川 玉置神社
◇農業のプロとして
佐渡の道
初めては昭和33(1958)10月
以後S34,35,37.11,38.12,39.3・6・8,40.8
「宮本ワールド」の展示場
① 佐渡国小木民俗博物館
② 八珍柿
◎「人づくりができて道づくりができる。道づくりができて初めて産
地づくりができる」
宮本は我が国屈指の篤農家
◇離島振興にかける
「済民」のアジテーター
昭和31(1961)田耕(田尻耕三)と初見
→ 昭和33(1958)本間氏宅に居候
昭和44(1969)鬼太鼓座
→ 現在の「鼓童」 代表・大井良明
「宮本はそそのかしの天才、山師」
離島の慈父
『日本の離島』未来社
昭和28(1953)年7月離島振興法
「光と水」 = 電気と水道がスローガン
山階芳正氏が幹事役
田中角栄と宮本常一
昭和25(1950)年 国土総合開発法 田中角栄
田中角栄と宮本常一はコインの裏表
◎ 田中 まず都会と結べ = 中央と直結
◎ 宮本 離島自体からエネルギーを
昭和41(1966)年
『日本の離島』第2集
昭和28年7億円
→ 昭和40年90億円
◎「…無駄遣いが多すぎる。家だけは立派になっているが生産の方は大
して伸びていない。家を改築する前にもっと再生産のための設備投
資に本気になれないものか。これではいつまでたっても島が本質的
な力で本土に追いつく日はない。」
◎「…資本主義的な思想の恐ろしさというようなものを近頃しみじみ思
う。しかも、それが国民全体の一つの思想になりつつあるのではな
いか」
↓
昭和47(1972)年
『日本列島改造論』
◎ 辺境の村や島にひそむ土地の精霊たちを根絶する一種「革命的」
な振る舞いであった
∥
田中角栄
息が詰まる程のコンプレックスで自分を呪縛し、日本の村々を
支配してきた古い呪術的神々を見殺しにすることに生涯を掛けた
政治家だったとも言える
昭和40年代後半宮本の旅は祖霊を失った人々を癒して歩く求道者めいた
旅になる
◎ 「宮本先生は現代の一遍上人だった」
◎ 「宮本さんは弘法大師の生まれ変わりのような方だった」