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キーワード「道徳」③(最終) /「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公 町ぐるみが小楠姓の浜松市堤町(現 中央区)一帯」『東海展望』より①(上)【再々掲載 2017.3】 [読書記録 教育]

今日は6月19日、水曜日です。

今回は、6月16日に続いて、わたしの教育ノートより、
キーワード「道徳」の紹介3回目 最終です。


マザー・テレサについてです。
どうして「道徳」にくくったのだろうと考えました。



今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「You did it to me(5単語)を5本の指に当てはめて」


・「…皆,欲望を充たすことにばかり時間をとりすぎて,家族が共に犠
牲を捧げ,祈ることを忘れているからです。」


・「私たちの働きはローソクのようでなくてはなりません。ローソクは
絶えず自分を燃やし続けながら,周囲に明るさとあたたかさをもた
らすからです」



もう一つ、再掲載になりますが、『東海展望』誌(出版年号不明)より
「…おらが先祖は大楠公…」①を載せます。
『東海展望』誌は、
昭和30年3月号から昭和59年7月号まで発刊された総合雑誌です。
地域の歴史、文化、政治、産業等、総合的な情報を与えてくれます。




☆キーワード「道徳」③(最終)


◇マザー・テレサ
 
□五本の指
  「五本の指のたとえ話をします。良く覚えておいてください。今度
   お会いしたらテストをしますよ。」
   → ◎5単語
You did it to me
  (あなたがしてくれたのは私<神>にしてくれたことである)
= いと小さき者にしたことは神にしたことである
 

□キリスト
「私は一人対一人というやり方を信じますよ。どの人も私にとって
   キリストですよ。」 

「私たちが本当に神や人々を愛したいのなら,まず祈ることが大切
   です。祈りこそが人間を成熟に向かわせる原動力なのです。」

「現代の家庭が多く崩壊に向かっているのは日本だけではありませ
   ん。豊かな国ほど家庭が崩壊に向かっています。それは祈ること
   を忘れているからです。なぜ祈らないのかといえば,皆,欲望を
   充たすことにばかり時間をとりすぎて,家族が共に犠牲を捧げ,
   祈ることを忘れているからです。祈りを忘れた家庭は必ず崩壊が
   始まります。皆さんももっと祈りましょう。」

 → 祈り
   1 自分だけの力で生きているのではなく,生かされている存在
   2 欠けている自分に気付くこと
      ~ 誰一人欠点のない人間はいない
   3 可能性に気付くこと
= 感謝する心,反省する心,可能性を信じて勇気を持つこと
      - 求道の心
 
□マザーテレサ 
  1 後ろ姿が美しい 
     ~ 祈りのある背中
  2 手が美しい 
     ~ 愛を実践してきた逞しい手
3 聞く姿が美しい 
     ~ 謙虚さがあふれている
     
 「私たちの働きはローソクのようでなくてはなりません。ローソク
  は絶えず自分を燃やし続けながら,周囲に明るさとあたたかさを
  もたらすからです」





☆「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公 町ぐるみが小楠姓の浜松市堤町(現 中央区)一帯」『東海展望』より①(上)【再々掲載 2017.3】


 浜松市の南部新津海岸の近くに堤町という戸数70戸ほどの町がある。


 旧浜名郡新津村堤で、江戸時代には敷地郡堤村として、米津、小沢渡、
新橋、などと共に浜松の井上河内守の領下にあった。


 遠江風土記伝によると

「堤村高24石7斗4合、海に属る、波除堤高さ巾定まらず、舞阪宿に
 至る間、南間の波涛 を除く…」

とある。


 つまり堤の地名は海岸に構築された堤があったところからつけられた
ものであろう。


 浜松の市街地を西に東海道(国道1号緑)を進むと、浜名郡可美村と
の境界地点で道路が右にゆるやかなカーヴをみせているが、そのカーヴ
地点から東海道に分れ、南にのびている市道を米津海岸にむかって1㎞
ほど入った農村地帯が堤町である。


 今でこそ(おそらく半世紀前=ハマコウ註)70戸を数えるようになっ
たが、明治から大正、そして昭和も戦前までは50戸たらずの小部落で
あった。


 しかも、50戸のうちの80%が小楠姓を名乗っている特異な同姓部落
である。


 おもしろいことには、この小楠一統の人たちはすべて自分たちの先祖
は大楠公楠木正成の一族であり、後裔であると信じ、忠臣華やかなりし
戦前までは大変な鼻いきであったという。


 今では正成、正行の相場下落で、若者たちは口にせぬようになったが、
里の古老の頭の中には、いまだ楠公の権威が生きているのである。


 では、堤町の小楠一族と楠正成とは一体どういう関連をもっているの
であろうか…。


 この点については確たる史料も根拠もなく、将来においてもこれを裏
づける史料の発見もまず期待出来ないだろうからいきおい口碑伝説にた
よる以外にはなかろうが、本誌編集部がルポしたところによると次のよ
うな巷談が成立した。





◇南臣・楠木伊兵衛

「神主小楠の祖は楠正成公家の士族にして、君公より姓を賜ひこの地に
 来り、引馬海道堤新田を開発し、土民となり、正平3年君公正行卿四
 条畷合戦の時、明神へ皇軍勝利を御祈願ありしと。又寛文6丙午年、
 領主太田備中守資宗殿、御造営ありと云ひ伝う。今小楠家は分家一族
 45社頭と共に盛なり」


 この古文は郷土雑筆遠南のしぶきにみえているものであるが、小楠と
楠正成とを結びつけている資料としてはこれだけであって、これも良質
の史料ではない。


 古文のなかにみえている「明神へ皇軍勝利を御祈願云々」とある明神
とは現在堤街にある六所神社(戦前まで村社)のことで、土地っ子は六所
明神とも呼んでいる。


 東海道から分かれて米津海岸にゆく道路の西側にある森が六所神社で、
神社の道をへだてて東側にある堂宇が、馬頭観世音をまつる観音堂で、
昔は好徳寺(堤町)の境外仏堂であった。   


 ところで小楠一族の初代は小楠伊兵衛を名乗った南朝の武士であった
という。


 その伊兵衛が遠州のこの海岸にやってきたのは遠江において南朝方の
臣を募るためで、時に南北朝時代であった。


 楠正成の出身については不詳なところが多く、決めつけることは出来
ないが、河内の土豪であったことは間違いない。


 農村部における新興勢力を背景に台頭、やがて後醍醐天皇の討幕計画
にまっさきに参加、赤坂城や千早城にたてこもつて奮戦建武中興後は検
非違使左衛門尉兼○○○○の反乱にあったが、他の諸将と共に尊氏軍を
破り九州に走らせた。

 
 しかし軍勢をたてなおした尊氏は20万の大軍をもって東上してきた。


 これよりさき、正成はなんとしてでも自軍の拡大強化をしなくてはと
一族の一人伊兵衛を呼び、遠江において勤王の士を募り勢力の結集をは
かってもらいたい…と頼んだ。


 伊兵衛の遠江入りはこうした動機によるものだったという。


 伊兵衛は一族と共にはるばる遠江の土を踏み、小楠の姓を名乗って堤
に居を構えた。その頃伊兵衛は楠木を名乗っていたが、世をしのび、敵
の目をくらますために小楠としたものだという。
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