「無功徳」玄侑宗久 海竜社 2008年 ②(後) /「東海展望」1967年3月号より【再掲載 2012.5】 [読書記録 宗教]
今日は6月30日、日曜日です。
今回は、6月27日に続いて玄侑宗久さんの
「無功徳」の紹介2回目(後)です。
出版社の案内には、
「『無功徳』は、禅の教えを取り入れた玄侑宗久によるエッセイ集です。
この作品では、功徳を追求しないことの価値について、日々の生活や
精神的な実践を通じて探求しています。読者は著者の随筆を通じて、
心と命に新たな風を吹き込む禅の教えに触れることができます。功徳
を求めない生き方から生まれる自然な喜びが、どのようにして人々の
生活に好影響を与えるかを、実例と共に学ぶことができる一冊です。」
とあります。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「子どもは子どもとして完全であり別の世界の生き物である。大人に
欲があるように、子どもには子どもだけの欲があったはず」
・「霊現象ブームはワケの分からない自分を霊に求めた自然な現象であり、
『合理主義と迷信は相補的なものだ(ユング)』。おとなしい社会に必
要な相補的なあり方は『ややこしさ』」
・「心は『地獄』にもなるし『修羅』なもなる」
・「功徳を期待することが既に不浄」
もう一つ、再掲載になりますが、
「東海展望」1967年3月号を載せます。
昭和31年から昭和62年まで出版されていた、
郷土の総合雑誌です。
☆「無功徳」玄侑宗久 海竜社 2008年 ②(後)
◇生きにくい世の中の瀬戸際に思う
絶対的な物指しはない
客観的事実などどこにもない
どんなモノサシも絶対化してはならない
- 相補性
破綻しかけている教育現場
医療に求められる「一般化」と「個別に」という相補的態度
キュアとケア
薬師如来と阿弥陀如来
あくまで個別にしか実現しないのが福祉
子どもは子どもとして完全であり別の世界の生き物である
◎ 大人に欲があるように、子どもには子どもだけの欲が
あったはず
結果を期待せずにやる
「儲からないけどやる」
「何だか分からないけどやる」
霊現象ブームはワケの分からない自分を霊に求めた自然な現象
ユング
「合理主義と迷信は相補的なものだ」
おとなしい社会に必要な相補的なあり方は「ややこしさ」
輝くコンビニ様へのお願い
人間と人間が出会っているのに孤独
礼儀には関心を示さない,機能だけの空間
「書類様」を信じる国
増え続ける書類
通過するためだけのウソ
二分法で無意識に戦う人々へ
「敵か味方か」の二分法が強まっている
禅の「両忘」
両方ともでっち上げ,忘れた方がいい
◎ ヴァーチャルな世界が与える影響は、思いの外大きい
システムと渾沌
本来ワケの分からないものを含んでいるのがシステム
→ たまに出る例外のためにシステム全体を放棄するのは
どうか?
予想外のことが起こることを前提に,どんと構える
◇心という危険物を取り扱う
案楽の法門
修練によって人は苦痛さえも案楽に感じる
苦痛を忍ぶと思えば心は汚れる
自殺と向き合う
最悪の事態は好転するに決まっている
明日の続きが今日なのではない
白血球の寿命は24時間
- 毎日入れ替わっている
危険物としての心
心は本当に危険
◎心は「地獄」にもなるし「修羅」なもなる
呼吸が運ぶもの
生きているとは呼吸していること
行為や感情にはそれにふさわしい呼吸法がある
人間は呼吸によって宇宙とつながっている
梵(ブラフマン)と我(アートマン)
心の奥底は底抜けになっていて外に通じている
同じテンポで呼吸していることでしか開かない心がある
◇人生の豊かな時間をつくる
「金銭的満足」と「心の豊かさ」の方程式
お金は概念の最たるもの
- 概念の織りなす「妄想」の世界
今の時代を象徴する「投機」「自己責任」「保健」の意識
本当の投機は体一つに戻る勇気のこと
概念度が高くなりすぎると人の生命力は弱まる
お金で買えないもの
「時の経過と共に変化した自分」はお金では買えない
幸せとは無常なる経過を通して抱く感情
※ 人はいつ知れず変化した自分と周囲のありように幸せ
を感じる生き物ではなかっただろうか
多分,幸せとは,売ることも買うこともできず,予測
さえしなかった無常なる経過を通して抱く感情なのだろ
う
「今」といま
我々は言葉によって不在さえリアルに感じる生き物
「今」
= 刹那
いま
= 言葉で表現
○○マーク
「待つ」という豊かさ
生活を楽しみ農業を生ききった人の温かい笑顔
◇無功徳を生きる
風流の起源
「風流ならざる処もまた風流」
思っても見なかった自分と出会えるのが風流
裸に戻って出直す
「裸に生まれてきたに何不足」
「程。人間万事この一字」
坊さんの修行は「一旦裸になって下着を着けるだけ」
◎ 何かを得ようと思うのではなく,まず本気で捨てること
「丸暗記」という文化
「メモ」は私の都合で情報を歪める
「私」がいなくなる瞬間に晴れ渡った心が生まれる
有り難き無功徳
一見無駄と思える余白が大切
◎ 功徳を期待することが既に不浄
☆「東海展望」(遠州の郷土誌)1967年3月号より【再掲載 2012.5】
◇出揃った各社の商用車
※ 懐かしい車が写真と友に紹介されていましたが名前だけ…
・ニッサン・セドリックバン
・ニッサン・プリンス・スカイラインバン・DX
・コロナバンDX
・ハブリカバンST
・トヨペット・マスターライン
・ダットサンバン
・ブルーバードワゴン
・ダットサン・ライトバン
・三菱コルトバン
・マツダ・ファミリアバン
・ダイハツ・コンパーノバン
・いすゞ・ニューベレット・エクスプレス
・ホンダ・ライトバンL800
◇舞阪町・舞阪民俗風土記
<当時の町長・渡辺八平さん(郷土史家)の「きさじま」序文>
□明治大正期の子どもの遊び
・目白とり ・コマ回し ・歌カルタ ・凧揚げ
・竹馬 ・タガ回し ・トンボとり ・タニシとり
・ドジョウほり ・貝とり ・かいほり
・前の川のコウボウつり ・おにごっこ ・戦いごっこ
・竹鉄砲 ・小屋つくり(竹・むしろ・縄)
□その他
エビタキ漁り火の美しさ
鰹のへりぬき
庚申様・津島講
□観音まいり(大漁次の休業日)
6~7人の宿生活
= 若者宿
・仲のよい6~7人が兄弟分となり宿親のもとで共同生活
・身分制
= 頭上、頭、頭下、敷居頭
◇「あとがき」に載っていた宮本常一さん著書の紹介文
民俗学者・宮本常一さんの「私の日本地図」紀行集第1編「天竜川
に沿って」が出版された。
気多、水窪、佐久間などの時代の推移が詳しく描かれている。
宮本さんは、リュックを背負って日本じゅうの山河をコツコツと歩
いて自然と人間とのかかわり合いを克明に記録している。
水窪あたりにもすでに数次にわけて足を踏み入れている貴重な記録
である。机上の空論でないところに意味がある。
今回は、6月27日に続いて玄侑宗久さんの
「無功徳」の紹介2回目(後)です。
出版社の案内には、
「『無功徳』は、禅の教えを取り入れた玄侑宗久によるエッセイ集です。
この作品では、功徳を追求しないことの価値について、日々の生活や
精神的な実践を通じて探求しています。読者は著者の随筆を通じて、
心と命に新たな風を吹き込む禅の教えに触れることができます。功徳
を求めない生き方から生まれる自然な喜びが、どのようにして人々の
生活に好影響を与えるかを、実例と共に学ぶことができる一冊です。」
とあります。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「子どもは子どもとして完全であり別の世界の生き物である。大人に
欲があるように、子どもには子どもだけの欲があったはず」
・「霊現象ブームはワケの分からない自分を霊に求めた自然な現象であり、
『合理主義と迷信は相補的なものだ(ユング)』。おとなしい社会に必
要な相補的なあり方は『ややこしさ』」
・「心は『地獄』にもなるし『修羅』なもなる」
・「功徳を期待することが既に不浄」
もう一つ、再掲載になりますが、
「東海展望」1967年3月号を載せます。
昭和31年から昭和62年まで出版されていた、
郷土の総合雑誌です。
☆「無功徳」玄侑宗久 海竜社 2008年 ②(後)
◇生きにくい世の中の瀬戸際に思う
絶対的な物指しはない
客観的事実などどこにもない
どんなモノサシも絶対化してはならない
- 相補性
破綻しかけている教育現場
医療に求められる「一般化」と「個別に」という相補的態度
キュアとケア
薬師如来と阿弥陀如来
あくまで個別にしか実現しないのが福祉
子どもは子どもとして完全であり別の世界の生き物である
◎ 大人に欲があるように、子どもには子どもだけの欲が
あったはず
結果を期待せずにやる
「儲からないけどやる」
「何だか分からないけどやる」
霊現象ブームはワケの分からない自分を霊に求めた自然な現象
ユング
「合理主義と迷信は相補的なものだ」
おとなしい社会に必要な相補的なあり方は「ややこしさ」
輝くコンビニ様へのお願い
人間と人間が出会っているのに孤独
礼儀には関心を示さない,機能だけの空間
「書類様」を信じる国
増え続ける書類
通過するためだけのウソ
二分法で無意識に戦う人々へ
「敵か味方か」の二分法が強まっている
禅の「両忘」
両方ともでっち上げ,忘れた方がいい
◎ ヴァーチャルな世界が与える影響は、思いの外大きい
システムと渾沌
本来ワケの分からないものを含んでいるのがシステム
→ たまに出る例外のためにシステム全体を放棄するのは
どうか?
予想外のことが起こることを前提に,どんと構える
◇心という危険物を取り扱う
案楽の法門
修練によって人は苦痛さえも案楽に感じる
苦痛を忍ぶと思えば心は汚れる
自殺と向き合う
最悪の事態は好転するに決まっている
明日の続きが今日なのではない
白血球の寿命は24時間
- 毎日入れ替わっている
危険物としての心
心は本当に危険
◎心は「地獄」にもなるし「修羅」なもなる
呼吸が運ぶもの
生きているとは呼吸していること
行為や感情にはそれにふさわしい呼吸法がある
人間は呼吸によって宇宙とつながっている
梵(ブラフマン)と我(アートマン)
心の奥底は底抜けになっていて外に通じている
同じテンポで呼吸していることでしか開かない心がある
◇人生の豊かな時間をつくる
「金銭的満足」と「心の豊かさ」の方程式
お金は概念の最たるもの
- 概念の織りなす「妄想」の世界
今の時代を象徴する「投機」「自己責任」「保健」の意識
本当の投機は体一つに戻る勇気のこと
概念度が高くなりすぎると人の生命力は弱まる
お金で買えないもの
「時の経過と共に変化した自分」はお金では買えない
幸せとは無常なる経過を通して抱く感情
※ 人はいつ知れず変化した自分と周囲のありように幸せ
を感じる生き物ではなかっただろうか
多分,幸せとは,売ることも買うこともできず,予測
さえしなかった無常なる経過を通して抱く感情なのだろ
う
「今」といま
我々は言葉によって不在さえリアルに感じる生き物
「今」
= 刹那
いま
= 言葉で表現
○○マーク
「待つ」という豊かさ
生活を楽しみ農業を生ききった人の温かい笑顔
◇無功徳を生きる
風流の起源
「風流ならざる処もまた風流」
思っても見なかった自分と出会えるのが風流
裸に戻って出直す
「裸に生まれてきたに何不足」
「程。人間万事この一字」
坊さんの修行は「一旦裸になって下着を着けるだけ」
◎ 何かを得ようと思うのではなく,まず本気で捨てること
「丸暗記」という文化
「メモ」は私の都合で情報を歪める
「私」がいなくなる瞬間に晴れ渡った心が生まれる
有り難き無功徳
一見無駄と思える余白が大切
◎ 功徳を期待することが既に不浄
☆「東海展望」(遠州の郷土誌)1967年3月号より【再掲載 2012.5】
◇出揃った各社の商用車
※ 懐かしい車が写真と友に紹介されていましたが名前だけ…
・ニッサン・セドリックバン
・ニッサン・プリンス・スカイラインバン・DX
・コロナバンDX
・ハブリカバンST
・トヨペット・マスターライン
・ダットサンバン
・ブルーバードワゴン
・ダットサン・ライトバン
・三菱コルトバン
・マツダ・ファミリアバン
・ダイハツ・コンパーノバン
・いすゞ・ニューベレット・エクスプレス
・ホンダ・ライトバンL800
◇舞阪町・舞阪民俗風土記
<当時の町長・渡辺八平さん(郷土史家)の「きさじま」序文>
□明治大正期の子どもの遊び
・目白とり ・コマ回し ・歌カルタ ・凧揚げ
・竹馬 ・タガ回し ・トンボとり ・タニシとり
・ドジョウほり ・貝とり ・かいほり
・前の川のコウボウつり ・おにごっこ ・戦いごっこ
・竹鉄砲 ・小屋つくり(竹・むしろ・縄)
□その他
エビタキ漁り火の美しさ
鰹のへりぬき
庚申様・津島講
□観音まいり(大漁次の休業日)
6~7人の宿生活
= 若者宿
・仲のよい6~7人が兄弟分となり宿親のもとで共同生活
・身分制
= 頭上、頭、頭下、敷居頭
◇「あとがき」に載っていた宮本常一さん著書の紹介文
民俗学者・宮本常一さんの「私の日本地図」紀行集第1編「天竜川
に沿って」が出版された。
気多、水窪、佐久間などの時代の推移が詳しく描かれている。
宮本さんは、リュックを背負って日本じゅうの山河をコツコツと歩
いて自然と人間とのかかわり合いを克明に記録している。
水窪あたりにもすでに数次にわけて足を踏み入れている貴重な記録
である。机上の空論でないところに意味がある。