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「教育ポピュリズム宣言」新堀通也 明治図書 2002年 ③ /「歴史の風景」木村尚三郎 山川出版社 2003年 ③【再掲載 2014.10】 [読書記録 教育]

今日は10月14日月曜日です。


今回は、10月11日に続き、新堀通也さんの
「脱 教育ポピュリズム宣言」の紹介 3回目です。


出版社の案内には、

「子どもにおもねる大人、叱れない教育の結果、どんな子どもが生まれ
 たか。自己中心主義で甘えが目立ち、耐性喪失。ここから脱出する道
 を示す。」

とあります。


臨教審が教育、社会に与えた影響は大きいものだったと感じます。


今回紹介分から強く印象に残った言葉は…

・「臨教審基本原則は、生涯学習体系への移行、個性の重視、変化への
対応」


・「臨教審は『個性』の概念をはっきりさせないまま改革を闇雲に推し
進めた」


・「個性はすべて望ましく、すべての子どもに望ましい個性があり、社
会にはそれぞれの個性の持ち主すべてを受け入れるマーケットがあ
るとする楽天主義が今なお生き続けている」


・「臨教審はプライバタイゼーション、右肩上がりの時代の思想で進め
られた。プライバタイゼーションの行き着く先は自分で守ろうとす
る余り、いっさいの他者、いっさい社会との関わり合いを煩わしい
と拒否することである」




もう一つ、再掲載になりますが、木村尚三郎さんの
「歴史の風景」③を載せます。




☆「教育ポピュリズム宣言」新堀通也 明治図書 2002年 ③


<教育ポピュリズムの成長>(1)
◇プライバタイゼーションへの迎合
成熟化と社会 
  - ポピュリズム自体プライバタイゼーション(私事化)への迎合

    臨教審答申 ← 四六答申(中教審)-不調の結果
  46年 戦後教育の制度疲労への処方箋

    臨教審の特徴
      1 各界のオピニオンリーダー
2 お役所的でない文章(文部省に由らない)
3 精力的広報
4 広い文明論的視野
5 その後の改革の基本

    成熟化 
      臨教審基本原則 
        1 生涯学習体系への移行
        2 個性の重視
        3 変化への対応  
国際化、科学技術の親展、成熟化
   
    教育におけるバブルの後遺症
臨教審の時代 
       46答申 6つのキーワード
         ①国際化 ②高齢化 ③都市化 ④情報化
⑤高学歴化 ⑥核家族化 

    臨教審の楽天論

    臨教審の見通し   現実
日本バッシング ←→ 日本バッシング
(楽天主義)


    楽天主義に基づく改革
      個性重視 
       - しかし「個性」の概念をはっきりさせないまま改革
        を闇雲に推し進めた  
 バブル後遺症
         個性はすべて望ましく、すべての子どもに望ましい
        個性があり、社会にはそれぞれの個性の持ち主すべて
        を受け入れるマーケットがあるとする楽天主義が今
        なお生き続けている。

  プライバタイゼーションへの横行
  プライバタイゼーション
        臨教審 右肩上がりの時代の思想  成熟化   
プライバタイゼーション  
        「私事化」「私生活化」
- 家庭、余力、趣味に価値や生き甲斐
    支えるのは「豊かな社会」
 ◎ プライバタイゼーションの行き着く先は自分で守ろうと
      する余り、いっさいの他者、いっさい社会との関わり合い
      を煩わしいと拒否すること

    プライバタイゼーションとポピュリズム
おかしな成人を生んだのは教育

   成人を守る「文化人」「識者の声」こそポピュリズム
高知、高松 → 「断固たる措置」「毅然たる処置」

    私事化への傾向を警告したのが平成12年「教育改革国民会議」
17提案 
        ①「学校は道徳を教えることをためらわない」
        ②「問題を起こす子どもへの教育を曖昧にしない」







☆「歴史の風景」木村尚三郎 山川出版社 2003年 ③【再掲載 2014.10】

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◇心眼

 如来像であれ、また如来(仏陀)の候補者・代行者とされる観世音・
文殊その他の菩薩像であれ、悟りをひらいた仏たちの眼は、ほとんど開
かれていない。


 決して眠ってはいないが、半眼のそのまなこは、何も見ていないかの
如くである。


 その代り耳は大きく、鼻筋通り、手も、指を丸めたり伸ばしたり、あ
るい掌を外に向けて立てたりしている。


 すなわち、「理性の窓」とされる眼、視覚は使わないが、感性の器官
である聴覚・嗅覚・触覚などは鋭く働かせ、耳でよく聞き、鼻でよく嗅
ぎ、手でよく感じているのが、仏の姿である。


 心眼をひらき、事物の本質をつかみ取るとは、まさにこのことであろ
う。
 

 そこでは、理性という荒々しく大ざっぱな、美意識も情感も伴わぬ、
事物の真実・本質を見誤りがちな能力は重きを置かれていない。


 眼を除いた全身の感度を最大に高め、鋭くし、耳や鼻や手の感性によ
って、全身をそれこそ眼のようにして事物を見抜く力、心眼を備えた存
在が仏陀である。



 仏たちと同じ姿勢をとるのが、前近代と近代の交に生きたジャン・ジ
ャック・ルソーである。


 彼は『エミール』(1762年)にいう、もっとも遠くまで届く視覚は、
すべての感覚のなかでもっとも誤りやすい。


 視覚を触覚に従属させ、視覚の奔放さを触覚の正確さで抑え込まねば
ならない、と(第2篇)。


 たしかに松の木も、実際に手で写生してみなければ、枝ぶりなど本当
のことは分らない(本田宗一郎『私の手が語る』)。


 近代人は、眼を使いすぎた。視覚を他の器官に優先させ、産業技術に
おいても学問においても、合理主義の荒々しくて大ざっぱな発想をよし
とした。


 現代人もパソコン・インターネットを多用し、眼を酷使しているが、
そこから未来が見えることはない。


 電子的手段をフル活用しているマスコミが、そのことを何よりもよく
証明している。


 近代の後に生き、先行き不透明感に不安を覚える今日の私たちは、仏
に学んで心眼を働かせる必要がある。


「知恵は、ちまたに呼ばわり、声をあげ、叫んでいる」
               (旧約聖書「蔵言」1-20,21)。





◇少則得,多則惑

 沢山の色(五色)は人の目をまどわせ、沢山の音(五音)は人の耳を
駄目にし、沢山の味(五味)は人の味覚を損ない、原野を自由に駆けま
わっての狩猟は、人の心を狂わせる、と『老子』はいう(第12章)。


 たしかに、豊穣にすぎる今日の色とか音、そして味の下では、そして
また、求めさえすれば手に入りうるという「自由」の状況下では、感動
もなければ五感が磨かれることもなく、人間の感性も心も駄目になる。


 今日のように出版物とか電子情報が多すぎると、人間の頭、思考能力
も、やはり駄目になるかも知れない。             


 昭和31(1956)年3月、わが国ではじめて完成した真空管式コンピ
ューターは、富士写真フィルムの「フジック」であった。


 エンジニアの岡崎文次氏がたった一人で、7年かけて開発したもので
あり、その成功の秘密を、本人はつぎのように述べる。
 
                                                                                (1)文献が少なかったこと。したがって、読んだり迷ったり、やり直
   したりする時間を節約できた。
 

(2)会議がなかったこと。フジックは一人で考え、一人で決めて作り上
   げたものである。会議の類いは一度も開かれず、会議で違う考えに
   振り回され、煩わされることはなかった。
 

(3)困難が予想される方法をさけたこと。ことさら難しい技術に挑むよ
   うなことをせず、目標の達成にしぼって方法を選んだ。
         (立石泰則『覇者の誤算』日本経済新聞社 1993年)



 ここには、情報化社会といわれる現代に対する、痛烈な批判がある。


 『老子』のいう、「少なければ則ち得、多ければ則ち惑う」(第22
章)は、情報についても学問についても正しい。


 照明デザイナー、石井幹子さんの頭にいつもあるのは、ローソクの光
とホタルの光であるという。


 工業デザイン界の大御所、栄久庵憲司氏にとっての原風景は、戦後の
焼け跡の、モノクロ世界を走る一台の赤い自転車であった。


 自らの「原点」が単純であるほど、豊かな世界が開かれていく。
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