「禅定山大通院本堂落慶記念誌」大通院2019年 /「半僧坊由来-引佐郡引佐町奥山」<引佐郡引佐町奥山(現在は浜松市)の伝説(3)>【再々掲載 2013.12】 [読書記録 郷土]
今日は12月30日、月曜日です。
今回は、
「禅定山大通院本堂落慶記念誌」を紹介します。
臨済宗方広寺派の大本山、方広寺(奥山半僧坊)の寺院です。
以前は中本山として広大な寺領に塔頭4寺がありました。
もう一つ、再掲載になりますが、方広寺についての伝説、
「半僧坊由来-引佐郡引佐町奥山」を載せます。
<ラジオ放送のご案内>
新年1月1日午前1時台に、
NHKラジオ第1で新春寄席が放送されます。
第一日目の新作講談は[昭和を彩った偉人たち]として
浜松市雄踏町出身のフジヤマのトビウオ「古橋廣之進」、
出演は浜松市出身の田辺一邑さんです。
☆「禅定山大通院本堂落慶記念誌」大通院 2019年
□大通院の山門 … 黒門
◇山門
黒門(265年前再建)
「禁葷酒」の碑(204年前再建)
◇由緒ある禅定山 大通院
昔 32町歩の寺領
総ケヤキづくり6間四方の舎利殿・開山堂・山門
修行道場
中本山として4か寺の塔頭寺院
末寺59か寺(現在42か寺)
◇開山
的伝一着禅師
方広寺開山・無文元選禅師の孫弟子
1401(応永8)年に大通院開山
◇大通院の歴史
方広寺派の由緒寺院 中本山
大通派(方広寺派6派)
寺領 境内約八千坪 山林約八万六千坪
田約二千坪 9万6千坪32町歩
今川氏真により永禄10(1567)年寄進された・安堵状
住職は輪番 明応2(1493)年~ 毎年の交代制
現在389世
通称・宗徹和尚 老師として弘化2(1845)年44歳~ 9年間
「通応様」
明治初め廃仏毀釈
新津小への建物・土地譲り渡し
大正15(1926)年 大火災
山門以外の堂宇をすべて焼失
戦後 農地解放
中学校、清明寮への譲り渡し
※ 厳しい仏道禅の修行道場のあった土地で現代の子供たちが学習・
人格育成
386世 昭和61年 礒貝光山氏 安泉寺住職 9年間
371世 明治35年 中嶋宗普氏 高福寺住職 3年間
☆「半僧坊由来-引佐郡引佐町奥山」<引佐郡引佐町奥山(現在は浜松市)の伝説(3)>【再々掲載 2013.12】

<方広寺-日本政府観光局HPより>
浜松地方での、明治のころの旅行の楽しみといえば、周智郡春野町犬
居の秋葉山詣でと、引佐郡奥山の、半僧坊参詣位のものであった。
半僧坊とは、臨済宗方広寺派本山、深奥山方広寺の境内に祀られてい
る一堂である。
600年の昔のことである。
奥山城には、奥山六部次郎藤原朝藤が、部下数千を率いて、この地方
を統治していた。
延元元年(1336年)京都では、南北に分れて兵乱が起った。
この時、後醍醐天皇の第二皇子、宗良親王が遁れてこの城に入った。
つづいて興国4年には、後醍醐天皇の第十一皇子、無文禅師が遁れて
きた。
無文禅師はこのごろすでに、人間相剋の世に無情を惑じて、剃髪して
憎となっていた。
奥山次郎朝藤は、
「ようこそ」
と、わが身を頼られる嬉しさに、奥山城の奥に、一寺を建立して、禅師
を迎えて開基とした。
これが方広寺である。
禅師がかくして方広寺を開くときくと、この裏山に数百年来住んでい
る山神は、不愉快でならなかった。
「おれの住居に寺を建てるとは、怪しからぬことだ」
と悠っていた。
そして噂にきけば、無文禅師は非常な名僧智識であるというが、
「人間ども、なに程のことやある」
と、彼はある日、山を下りて、方広寺を訪れてきた。
「われはこの山に、年久しく往む山神である。和尚と問答を試みんぞ」
といいだした。
「よし、やろう」
禅師はこころよく迎えて、問答を始めた。
多年山神として山に往み、仙術を会得している山男と、新進の学問に、
頭脳を磨き上げた名僧との問答は、言々火をはぎ、句々焔を燃したが、
ついに禅師の勝利となってしまった。
「私は到底、禅師にはかないません」
山男は兜を脱いだ。
そして禅師の名僧なのに、心から敬服して、
「この上は是非とも、御僧の弟子として下さらんか」
と願いだした。
「いやいや、あなたは仙術を会得した方、私如き凡人の弟子とならなくても」
「いえ、貴僧のお教えこそ、深く頃きたいもの、是非ともに」
山神のたっての願いに、禅師は弟子となることを許してやった。
「では、憎となるなら、頭を丸めて」
「是非にも」
禅師は剃刀を持って、山神の頭をそり始めた。
しかし年久しく山に住んで、頭髪には嘗て一度も櫛を入れた事がない
こととて、剃るその痛さはたえられなし。
「痛い痛い」
「もう少しだ。がまんしなされ」
「痛い痛い、もうこれでいい」
流石の山神もがまんがてきなくて、頭を抱えて逃げだしてしまった。
「駄目だよ。それでは半僧だよ」
禅師は笑った。
「いい、いい、半僧でよろしい。おれは半憎でこの土地を守護しよう」
山神はそういって、方仏寺の傍に一堂を建てて、そこに静かに往んで、
方広寺の守護神となったのである。
それでこれ以来、これを半僧坊というのであると。
この半僧坊は非常に霊験ある神であるという。
いつのことであったか、浜松市○○地区の、ある寺の住職が、方広寺
で無言の行を修めてしる時、ふとして禁を破った。とその時どこともな
く、
「今ただちに、物見せん」
という声がした。
住職ははっとして、身の震うのを覚えた。
住職は禁を破ったこととて、今は本山にもいられず、下山して自分の
寺に帰った。
ところがその時すでに、寺は焼けて灰となっていた。
「おお、何日火事が」
「昨夜の8時に」
「えっ8時?」
それは彼が、本山で禁を破って、不思議な声をきいたのと、同じ時刻
であったということである。
今回は、
「禅定山大通院本堂落慶記念誌」を紹介します。
臨済宗方広寺派の大本山、方広寺(奥山半僧坊)の寺院です。
以前は中本山として広大な寺領に塔頭4寺がありました。
もう一つ、再掲載になりますが、方広寺についての伝説、
「半僧坊由来-引佐郡引佐町奥山」を載せます。
<ラジオ放送のご案内>
新年1月1日午前1時台に、
NHKラジオ第1で新春寄席が放送されます。
第一日目の新作講談は[昭和を彩った偉人たち]として
浜松市雄踏町出身のフジヤマのトビウオ「古橋廣之進」、
出演は浜松市出身の田辺一邑さんです。
☆「禅定山大通院本堂落慶記念誌」大通院 2019年
□大通院の山門 … 黒門

◇山門
黒門(265年前再建)
「禁葷酒」の碑(204年前再建)
◇由緒ある禅定山 大通院
昔 32町歩の寺領
総ケヤキづくり6間四方の舎利殿・開山堂・山門
修行道場
中本山として4か寺の塔頭寺院
末寺59か寺(現在42か寺)
◇開山
的伝一着禅師
方広寺開山・無文元選禅師の孫弟子
1401(応永8)年に大通院開山
◇大通院の歴史
方広寺派の由緒寺院 中本山
大通派(方広寺派6派)
寺領 境内約八千坪 山林約八万六千坪
田約二千坪 9万6千坪32町歩
今川氏真により永禄10(1567)年寄進された・安堵状
住職は輪番 明応2(1493)年~ 毎年の交代制
現在389世
通称・宗徹和尚 老師として弘化2(1845)年44歳~ 9年間
「通応様」
明治初め廃仏毀釈
新津小への建物・土地譲り渡し
大正15(1926)年 大火災
山門以外の堂宇をすべて焼失
戦後 農地解放
中学校、清明寮への譲り渡し
※ 厳しい仏道禅の修行道場のあった土地で現代の子供たちが学習・
人格育成
386世 昭和61年 礒貝光山氏 安泉寺住職 9年間
371世 明治35年 中嶋宗普氏 高福寺住職 3年間
☆「半僧坊由来-引佐郡引佐町奥山」<引佐郡引佐町奥山(現在は浜松市)の伝説(3)>【再々掲載 2013.12】

<方広寺-日本政府観光局HPより>
浜松地方での、明治のころの旅行の楽しみといえば、周智郡春野町犬
居の秋葉山詣でと、引佐郡奥山の、半僧坊参詣位のものであった。
半僧坊とは、臨済宗方広寺派本山、深奥山方広寺の境内に祀られてい
る一堂である。
600年の昔のことである。
奥山城には、奥山六部次郎藤原朝藤が、部下数千を率いて、この地方
を統治していた。
延元元年(1336年)京都では、南北に分れて兵乱が起った。
この時、後醍醐天皇の第二皇子、宗良親王が遁れてこの城に入った。
つづいて興国4年には、後醍醐天皇の第十一皇子、無文禅師が遁れて
きた。
無文禅師はこのごろすでに、人間相剋の世に無情を惑じて、剃髪して
憎となっていた。
奥山次郎朝藤は、
「ようこそ」
と、わが身を頼られる嬉しさに、奥山城の奥に、一寺を建立して、禅師
を迎えて開基とした。
これが方広寺である。
禅師がかくして方広寺を開くときくと、この裏山に数百年来住んでい
る山神は、不愉快でならなかった。
「おれの住居に寺を建てるとは、怪しからぬことだ」
と悠っていた。
そして噂にきけば、無文禅師は非常な名僧智識であるというが、
「人間ども、なに程のことやある」
と、彼はある日、山を下りて、方広寺を訪れてきた。
「われはこの山に、年久しく往む山神である。和尚と問答を試みんぞ」
といいだした。
「よし、やろう」
禅師はこころよく迎えて、問答を始めた。
多年山神として山に往み、仙術を会得している山男と、新進の学問に、
頭脳を磨き上げた名僧との問答は、言々火をはぎ、句々焔を燃したが、
ついに禅師の勝利となってしまった。
「私は到底、禅師にはかないません」
山男は兜を脱いだ。
そして禅師の名僧なのに、心から敬服して、
「この上は是非とも、御僧の弟子として下さらんか」
と願いだした。
「いやいや、あなたは仙術を会得した方、私如き凡人の弟子とならなくても」
「いえ、貴僧のお教えこそ、深く頃きたいもの、是非ともに」
山神のたっての願いに、禅師は弟子となることを許してやった。
「では、憎となるなら、頭を丸めて」
「是非にも」
禅師は剃刀を持って、山神の頭をそり始めた。
しかし年久しく山に住んで、頭髪には嘗て一度も櫛を入れた事がない
こととて、剃るその痛さはたえられなし。
「痛い痛い」
「もう少しだ。がまんしなされ」
「痛い痛い、もうこれでいい」
流石の山神もがまんがてきなくて、頭を抱えて逃げだしてしまった。
「駄目だよ。それでは半僧だよ」
禅師は笑った。
「いい、いい、半僧でよろしい。おれは半憎でこの土地を守護しよう」
山神はそういって、方仏寺の傍に一堂を建てて、そこに静かに往んで、
方広寺の守護神となったのである。
それでこれ以来、これを半僧坊というのであると。
この半僧坊は非常に霊験ある神であるという。
いつのことであったか、浜松市○○地区の、ある寺の住職が、方広寺
で無言の行を修めてしる時、ふとして禁を破った。とその時どこともな
く、
「今ただちに、物見せん」
という声がした。
住職ははっとして、身の震うのを覚えた。
住職は禁を破ったこととて、今は本山にもいられず、下山して自分の
寺に帰った。
ところがその時すでに、寺は焼けて灰となっていた。
「おお、何日火事が」
「昨夜の8時に」
「えっ8時?」
それは彼が、本山で禁を破って、不思議な声をきいたのと、同じ時刻
であったということである。