「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」浜松市博物館特別展 H27 ⑤(最終) /「思春期という節目」八ツ塚実 朱鷺書房 1989年 ⑥ 【再掲載 2013.12】 [読書記録 郷土]
今回は、8月3日に続いて、
H27.11.1(日)~12.6(日)に浜松市博物館で開催された、
徳川家康公顕彰四百年記念事業特別展
「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」の紹介5回目 最終です。
特別展の紹介には
「若き家康が今川氏から独立し、三河国を平定したのち、今川領であった遠江
国をいかに攻略し平定していったのか。そこには、遠江の国人たちの抵抗や
恭順があり、家康や家臣たちが苦労して遠江国を平定し、天下取りの足掛か
りとした歴史がありました。
徳川家康公顕彰四百年記念の本年は、家康と、井伊直虎や飯尾連龍など遠江
の国衆の資料を集めた特別展を開催いたします。」
とあります。
本日紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「松下氏 遠州国人松下加兵衛結之綱に秀吉が幼少の頃仕えたとされる」
・「徳川家康が遠江に侵入した際、最後まで家康に抵抗したのが大澤氏」
・「堀川一揆の際、家康方は2月25日宇津山城を攻め一揆勢は皆殺しにされた
大澤氏が開城したところ、家康は旧領すべてを安堵するが、新居の代わり
に呉松を与えたとの起請文。家康が新居湊を重視したからか」
「三河との通路を立たれたくないため、家康は遠江侵攻の際、大澤氏を厚遇
したのか」
- 一揆勢を皆殺しにするほど苦しめられたのに、なぜ安堵をとわたしは疑問
をもつのですが、それほど船運が大切だったということでしょうか。
・「関東移封後は本多忠勝について上総国小滝(千葉県長生郡胆沢町小滝)にい
て、関ヶ原合戦を迎えた 」
- わたしの町は旧大澤領。菩提寺の創建は、本多忠勝の伯父本多忠真の嫡男
菊丸とされています。何らかのつながりがあったのかと想像してしまいます。
・「大澤家は江戸時代、高家26家今川・吉良と同じ足利庶流に肩を並べた」
もう一つ、再掲載になりますが、八ツ塚実さんの
「思春期という節目」⑥を載せます。
保護者が節目を意識して、節目毎に子どもを見守ることの大切さを感じます。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」浜松市博物館特別展 H27 ⑤(最終)
◇家康の遠江侵攻浜松在城時の国衆の動向 森田香司(静岡県地域史研究会事務局) 2
2 松下氏
遠州国人松下加兵衛結之綱(秀吉が幼少の頃仕えた)
→ 久野城主に取り立てられた
諸国を流浪した後遠江国の松下一族の元に父長則と共に戻ったか
松下一族発祥の地は三河国碧海郡松下郷
松下氏遠江国での所見は寛正6(1465)年12月29日
松下氏は伊勢氏の被官の立場で遠江に住んでいた
松下一族は頭陀寺城に住み松下屋敷
いち早く徳川方についた
都築秀綱も松下一族か
3 大澤氏・中安氏・権太氏
大澤氏
出自は伝丹波国大澤郷(現丹波篠山市大澤)
大澤氏・中安氏・権太氏は親戚関係
戦国初期
「領家殿」
= 村櫛荘の領家代官
領家職を藤原北家支流特大寺家がもっており在地代官として
浜松まで派遣されたのだろう
至徳元(1384)年以前
最初は新津城(しづじょう)にいたと思われる
その後応永12(1405)年愛知全国より堀江氏が荘内半島に入り
堀江城築城
戦国期
今川氏により堀江城が落城し堀江氏が逃走
↓
大澤氏が堀江氏に替わって堀江城に入る
今川氏の被官
新居湊の支配も任される
宇布見の中村右衛門太郎も船の諸役免除(大澤氏の元で船運)
永禄11(1569)年
徳川家康が遠江に侵入
←→ 最後まで家康に抵抗したのが大澤氏
堀江城籠城 + 山村修理らに命じて堀川一揆をおこした
永禄11年12月~翌4月
永禄12(1570)年正月~3月27日鎮圧
2月25日宇津山城を攻め
一揆勢は皆殺しにされた
半分以上の船を奪う
次第に厳しくなる
→ 氏真の了承を得て開城 4月12日
◎ 家康起請文
旧領すべてを安堵するが、新居の代わりに呉松を与えた
= 家康が新居湊を重視
宛先は大澤基胤・中安定安・権太泰長
中安氏は大澤氏一族で家臣だったが、自らの知行地も有し
ていた
権太氏 - 北区三ヶ日町の一部をもっていた
大澤氏一族
三方ヶ原合戦にも参加
大澤基胤娘も参戦
三方ヶ原合戦の翌日
武田軍は堀江城まで押し寄せた
天候に幸いし追い返した「堀江城物語」
大澤氏
慶長5(1600)年 旧領を安堵され旗本となった
基胤の子基宿(もといえ)のとき、京都の大納言持明院基久家が断絶
の危機
→ 二男基定が養子に入った
~ もともとは貴族の流れか?
家康
◎ 三河との通路を立たれたくないため遠江侵攻の際厚遇したのか
天正16(1588)年
井伊直政と共に京都へ
従五位下に叙任 = 直政と同格
◎ 関東移封後は本多忠勝について上総国小滝(千葉県長生郡胆
沢町小滝)にいて、関ヶ原合戦を迎えた
|
戦後、要望が認められたのか旧領に戻り1550石
翌慶長6(1601)年従四位下に昇任
◎ 家康の征夷大将軍宣下の典礼が京都で開かれた際(慶長
8年1603年)、その一切を基宿が執り行ったという
→ 近世の高家再興を果たしていく
高家26家
◎ 大澤家は今川・吉良と同じ足利庶流に肩を並べた
近世初期の所領
崎村櫛・和田・無木・上田・石丸・呉松・和地・伊佐治・佐浜・内山
蔵松(現南区倉松町) 併せて1556石
寛永期には2556石
宝永期には356石まで加増
☆「思春期という節目」八ツ塚実 朱鷺書房 1989年 ⑥ 【再掲載 2013.12】
◇自信を育てる(1)
□ひらがなばかりの生活記録
書くことを評価するのが学校だ
どんな短い文章だろうが対話を書く。まともに。手を抜かずに。
~ 自分の文章
何をどう書いてもけなされたりバカにされたりしない
□母親を求める心
自信を失うようなことは一切しない
□悪循環を正す
問題は現状の中で解決すべきであると考える
|
原因が現状の中にあるのだからそれを改めて解決するしかない
タダシ
叔父宅での生活
叔母の献身的な指導
→ ◎ 子供は切り結んだ人間関係の質によっては、飴細工のように
変わる。まるで違う人間を生きることになる。
◇大切にしているのか甘やかしているのか
□見せかけの親子ごっこ
「いいわけ」と子供を「かばう」言葉
→ 子供が学校へ来ない正当な理由を成立させてしまう
□贅沢の悲劇
おじいさん
「甘やかすと人間はどこまでも腐ってくるものです」
□物や金で心はつなぎ止められない
◎ 社会が提示する魅力と学校が提示する魅力とがあまりにも異質で共通
点がなさ過ぎるのです
|
快楽度指数
大人の社会の義務部分は完全に切り捨てて、楽しい部分だけを与えら
れるのだからたまらない。意志もまた弱く、判断力の未熟な子供はひと
たまりもない。
◎ 物と金によって気をひくことはたやすい。しかし、要求はいくらでも
ふくらみエスカレートしていく。
□甘やかしは人権無視
金や物で子供の心をつろうとする魂胆は子供を見くびっていることに
なる
家庭教育が音立てて「物と金」の領域に流れ込んでいる。
家庭教育は子供を大人扱いすることだという錯覚が蔓延しつつある
↓
◎ かつては子供の姿を見ることもなかった場所に幼い子供が両親に連れ
られてやってくる。
~ しかもその多くが大人の遊び場
× 一気に歓楽街へと子供を導き入れてしまった
・真夜中のモーテルの食堂
・夜のカラオケバー
・飲み屋
今広く行われている家庭教育は確かに「世慣れた子」をつくり出すこ
とには成功している
レストランで堂々とメニューを開く。物怖じせずウェイトレスに注文
できる。しかし、食堂のメニューをいくら堂々とめくろうとも、人権の
メニューには 全く目覚めていない少年像は健全な感覚を具えた大人像
とは大きくずれる。
◎「子供を大切にする」即「子供を甘やかす」図式がいかに誤っているかが
なぜ見抜けないのか?その答えは簡単である。親に人権感覚がないからだ。
その結果子供を「みくびり」「買いかぶっている」からである。
子供を見くびれば
… 甘やかしてしまう
→ 甘やかしは子どもの人権を粗末にしているのであって「大切にす
る」こととは全く無縁な行為なのである。
トシ子のおじいさん
「子供の心は金じゃ買えやせんのじゃ」
□先生への突然の暴力
「登校拒否は三日が勝負」
□「捨てぜりふ」という刃物
一人一人が自分の心の中の「みくびり根性」をなくす不断の努力をしなく
てはならない
子供が爆発したとき…
教員は → ・彼は今穏やかではない
・今は彼を穏やかにするときだ
・激昂をおさめてやらないと彼を傷つける
H27.11.1(日)~12.6(日)に浜松市博物館で開催された、
徳川家康公顕彰四百年記念事業特別展
「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」の紹介5回目 最終です。
特別展の紹介には
「若き家康が今川氏から独立し、三河国を平定したのち、今川領であった遠江
国をいかに攻略し平定していったのか。そこには、遠江の国人たちの抵抗や
恭順があり、家康や家臣たちが苦労して遠江国を平定し、天下取りの足掛か
りとした歴史がありました。
徳川家康公顕彰四百年記念の本年は、家康と、井伊直虎や飯尾連龍など遠江
の国衆の資料を集めた特別展を開催いたします。」
とあります。
本日紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「松下氏 遠州国人松下加兵衛結之綱に秀吉が幼少の頃仕えたとされる」
・「徳川家康が遠江に侵入した際、最後まで家康に抵抗したのが大澤氏」
・「堀川一揆の際、家康方は2月25日宇津山城を攻め一揆勢は皆殺しにされた
大澤氏が開城したところ、家康は旧領すべてを安堵するが、新居の代わり
に呉松を与えたとの起請文。家康が新居湊を重視したからか」
「三河との通路を立たれたくないため、家康は遠江侵攻の際、大澤氏を厚遇
したのか」
- 一揆勢を皆殺しにするほど苦しめられたのに、なぜ安堵をとわたしは疑問
をもつのですが、それほど船運が大切だったということでしょうか。
・「関東移封後は本多忠勝について上総国小滝(千葉県長生郡胆沢町小滝)にい
て、関ヶ原合戦を迎えた 」
- わたしの町は旧大澤領。菩提寺の創建は、本多忠勝の伯父本多忠真の嫡男
菊丸とされています。何らかのつながりがあったのかと想像してしまいます。
・「大澤家は江戸時代、高家26家今川・吉良と同じ足利庶流に肩を並べた」
もう一つ、再掲載になりますが、八ツ塚実さんの
「思春期という節目」⑥を載せます。
保護者が節目を意識して、節目毎に子どもを見守ることの大切さを感じます。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」浜松市博物館特別展 H27 ⑤(最終)
◇家康の遠江侵攻浜松在城時の国衆の動向 森田香司(静岡県地域史研究会事務局) 2
2 松下氏
遠州国人松下加兵衛結之綱(秀吉が幼少の頃仕えた)
→ 久野城主に取り立てられた
諸国を流浪した後遠江国の松下一族の元に父長則と共に戻ったか
松下一族発祥の地は三河国碧海郡松下郷
松下氏遠江国での所見は寛正6(1465)年12月29日
松下氏は伊勢氏の被官の立場で遠江に住んでいた
松下一族は頭陀寺城に住み松下屋敷
いち早く徳川方についた
都築秀綱も松下一族か
3 大澤氏・中安氏・権太氏
大澤氏
出自は伝丹波国大澤郷(現丹波篠山市大澤)
大澤氏・中安氏・権太氏は親戚関係
戦国初期
「領家殿」
= 村櫛荘の領家代官
領家職を藤原北家支流特大寺家がもっており在地代官として
浜松まで派遣されたのだろう
至徳元(1384)年以前
最初は新津城(しづじょう)にいたと思われる
その後応永12(1405)年愛知全国より堀江氏が荘内半島に入り
堀江城築城
戦国期
今川氏により堀江城が落城し堀江氏が逃走
↓
大澤氏が堀江氏に替わって堀江城に入る
今川氏の被官
新居湊の支配も任される
宇布見の中村右衛門太郎も船の諸役免除(大澤氏の元で船運)
永禄11(1569)年
徳川家康が遠江に侵入
←→ 最後まで家康に抵抗したのが大澤氏
堀江城籠城 + 山村修理らに命じて堀川一揆をおこした
永禄11年12月~翌4月
永禄12(1570)年正月~3月27日鎮圧
2月25日宇津山城を攻め
一揆勢は皆殺しにされた
半分以上の船を奪う
次第に厳しくなる
→ 氏真の了承を得て開城 4月12日
◎ 家康起請文
旧領すべてを安堵するが、新居の代わりに呉松を与えた
= 家康が新居湊を重視
宛先は大澤基胤・中安定安・権太泰長
中安氏は大澤氏一族で家臣だったが、自らの知行地も有し
ていた
権太氏 - 北区三ヶ日町の一部をもっていた
大澤氏一族
三方ヶ原合戦にも参加
大澤基胤娘も参戦
三方ヶ原合戦の翌日
武田軍は堀江城まで押し寄せた
天候に幸いし追い返した「堀江城物語」
大澤氏
慶長5(1600)年 旧領を安堵され旗本となった
基胤の子基宿(もといえ)のとき、京都の大納言持明院基久家が断絶
の危機
→ 二男基定が養子に入った
~ もともとは貴族の流れか?
家康
◎ 三河との通路を立たれたくないため遠江侵攻の際厚遇したのか
天正16(1588)年
井伊直政と共に京都へ
従五位下に叙任 = 直政と同格
◎ 関東移封後は本多忠勝について上総国小滝(千葉県長生郡胆
沢町小滝)にいて、関ヶ原合戦を迎えた
|
戦後、要望が認められたのか旧領に戻り1550石
翌慶長6(1601)年従四位下に昇任
◎ 家康の征夷大将軍宣下の典礼が京都で開かれた際(慶長
8年1603年)、その一切を基宿が執り行ったという
→ 近世の高家再興を果たしていく
高家26家
◎ 大澤家は今川・吉良と同じ足利庶流に肩を並べた
近世初期の所領
崎村櫛・和田・無木・上田・石丸・呉松・和地・伊佐治・佐浜・内山
蔵松(現南区倉松町) 併せて1556石
寛永期には2556石
宝永期には356石まで加増
☆「思春期という節目」八ツ塚実 朱鷺書房 1989年 ⑥ 【再掲載 2013.12】
◇自信を育てる(1)
□ひらがなばかりの生活記録
書くことを評価するのが学校だ
どんな短い文章だろうが対話を書く。まともに。手を抜かずに。
~ 自分の文章
何をどう書いてもけなされたりバカにされたりしない
□母親を求める心
自信を失うようなことは一切しない
□悪循環を正す
問題は現状の中で解決すべきであると考える
|
原因が現状の中にあるのだからそれを改めて解決するしかない
タダシ
叔父宅での生活
叔母の献身的な指導
→ ◎ 子供は切り結んだ人間関係の質によっては、飴細工のように
変わる。まるで違う人間を生きることになる。
◇大切にしているのか甘やかしているのか
□見せかけの親子ごっこ
「いいわけ」と子供を「かばう」言葉
→ 子供が学校へ来ない正当な理由を成立させてしまう
□贅沢の悲劇
おじいさん
「甘やかすと人間はどこまでも腐ってくるものです」
□物や金で心はつなぎ止められない
◎ 社会が提示する魅力と学校が提示する魅力とがあまりにも異質で共通
点がなさ過ぎるのです
|
快楽度指数
大人の社会の義務部分は完全に切り捨てて、楽しい部分だけを与えら
れるのだからたまらない。意志もまた弱く、判断力の未熟な子供はひと
たまりもない。
◎ 物と金によって気をひくことはたやすい。しかし、要求はいくらでも
ふくらみエスカレートしていく。
□甘やかしは人権無視
金や物で子供の心をつろうとする魂胆は子供を見くびっていることに
なる
家庭教育が音立てて「物と金」の領域に流れ込んでいる。
家庭教育は子供を大人扱いすることだという錯覚が蔓延しつつある
↓
◎ かつては子供の姿を見ることもなかった場所に幼い子供が両親に連れ
られてやってくる。
~ しかもその多くが大人の遊び場
× 一気に歓楽街へと子供を導き入れてしまった
・真夜中のモーテルの食堂
・夜のカラオケバー
・飲み屋
今広く行われている家庭教育は確かに「世慣れた子」をつくり出すこ
とには成功している
レストランで堂々とメニューを開く。物怖じせずウェイトレスに注文
できる。しかし、食堂のメニューをいくら堂々とめくろうとも、人権の
メニューには 全く目覚めていない少年像は健全な感覚を具えた大人像
とは大きくずれる。
◎「子供を大切にする」即「子供を甘やかす」図式がいかに誤っているかが
なぜ見抜けないのか?その答えは簡単である。親に人権感覚がないからだ。
その結果子供を「みくびり」「買いかぶっている」からである。
子供を見くびれば
… 甘やかしてしまう
→ 甘やかしは子どもの人権を粗末にしているのであって「大切にす
る」こととは全く無縁な行為なのである。
トシ子のおじいさん
「子供の心は金じゃ買えやせんのじゃ」
□先生への突然の暴力
「登校拒否は三日が勝負」
□「捨てぜりふ」という刃物
一人一人が自分の心の中の「みくびり根性」をなくす不断の努力をしなく
てはならない
子供が爆発したとき…
教員は → ・彼は今穏やかではない
・今は彼を穏やかにするときだ
・激昂をおさめてやらないと彼を傷つける
徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」浜松市博物館特別展 H27 ④ /「ほめるな」伊藤進 講談社現代新書 2005年 ①【再掲載 2014.2】 [読書記録 郷土]
今回は、7月28日に続いて、
H27.11.1(日)~12.6(日)に浜松市博物館で開催された、
徳川家康公顕彰四百年記念事業特別展
「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」の紹介4回目です。
特別展の紹介には
「若き家康が今川氏から独立し、三河国を平定したのち、今川領であった遠江
国をいかに攻略し平定していったのか。そこには、遠江の国人たちの抵抗や
恭順があり、家康や家臣たちが苦労して遠江国を平定し、天下取りの足掛か
りとした歴史がありました。
徳川家康公顕彰四百年記念の本年は、家康と、井伊直虎や飯尾連龍など遠江
の国衆の資料を集めた特別展を開催いたします。」
とあります。
本日紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「飯尾氏『いのお』と読む」
・「江間兄弟が武田、徳川どちらにつくかで内紛
江間氏は家康の一家臣となって近世を迎えることになる。
紀伊和歌山で紀伊徳川家に仕える」
もう一つ、再掲載になりますが、伊藤進さんの
「ほめるな」①を載せます。
ほめる教育が、ほめられなければ動かない子どもを生んでいるのではないか、
と思うこともしばしばあります。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」浜松市博物館特別展 H27 ④
◇家康の遠江侵攻浜松在城時の国衆の動向 森田香司(静岡県地域史研究会事務局) 1
□飯尾氏・松下氏・大澤氏
1 飯尾氏
① 出自 「いのお」と読む 鎌倉幕府三善義信の子孫 足利氏奉公人
主に讃岐国・阿波国
- 吉良氏との関係が深くなった一族が三河で家臣に
◎ 吉良氏の一族だった今川氏に協力することになり、文明年間に
遠江初代飯尾長連
② 歴代
長連 -賢連-乗連-連龍
為清
初代長連
- 今川氏に味方し文明8(1476)塩買坂の戦いで今川義忠と共に討死に
見付城を落としたが横地氏・勝田氏(?)らの反撃で討ち死に
2代賢連(?~1522?)
- 長連の戦功により浜松荘の奉行を吉良氏から命じられた
浜松荘
鎌倉時代に成立した荘園
吉良氏南北朝期にその地頭職
浜松市の南端部を東西に長い楕円形の荘園
「吉良殿御領」
- 代官が大河内貞綱
3代乗連(不詳)
遅くとも文永2(1522)年には跡を継いだ
- 引馬城主となり今川支配下
浜松を中心とする寄親(?)となり、江間氏や松下氏を寄子
にして合戦の軍役
今川氏の軍役
天文18(1549)年には岡崎城三河国の政務
桶狭間の合戦にも従軍
それ以降に亡くなった
1565年 連龍(子)が謀殺された
連歌師の宗長や宗牧とも交流
4代連龍(?~1565)
氏真の三河支配の失敗
→ 徳川家康と早くから気脈
永禄4(1562)年2月 尾三同盟
三州錯乱 → 今川三河支配瓦解
遠江国衆も今川氏に反旗
永禄6(1564)年12月16日
引間郷飯田で合戦
今川方 新野佐馬助・朝比奈康朝が討ち死に
頭陀寺城に籠城
~ 永禄7(1565)年3月まで戦うが決着つかず和睦
4月8日 家康・連龍会談-同盟
氏真は再度引馬城を攻めたが落城できず飯尾氏と和解
永禄8(1566)年12月
氏真が連龍を駿府に招く 20日
飯尾屋敷で謀殺される
駿府に行くように仲介したのは松井「強八」宗恒か
(妻が連龍の姉)
連龍を失った引馬城
氏真に反旗 ← 氏真が再度攻める
飯尾家臣の江間加賀守時成、江間安芸守泰顕は家康
に助け求め
→ 家康が安堵
◎浜松領
南端 寺嶋郷(現寺島町)~西端 舞阪郷(舞阪町)
飛び地 阿多古郷(室町期に吉良氏が獲得した所領)
総年貢 1200貫文超
氏真との戦いは長期戦に → 4月に再和睦
今川氏 江間兄弟に千貫文安堵(今川方に帰参)
永禄11(1569)年
江間兄弟が武田、徳川どちらにつくかで内紛
|
家康は三河から一気に遠江国安間村(現東区安間町)
|
江間兄弟が喧嘩
泰顕が時成を殺害
泰顕も時成家臣の小野田彦右衛門に斬り殺された
→ 徳川方に開城
(連龍後室の戦いはなかった もしくは永正年間)
|
駿府に人質に取られていた母は駿府で殺され、時成
の子・弥三一成は助け出されたが眼病
~ 一成は安堵
江間氏は家康の一家臣となって近世を迎えることになる
→ 紀伊和歌山で紀伊徳川家に仕える
☆「ほめるな」伊藤進 講談社現代新書 2005年 ①【再掲載 2014.2】
[出版社の案内]
「ほめれば人は伸びる」というのは間違いだ。
いま、教育現場では「ほめる教育」が常識になっている。子どもの意欲と自信
をはぐくむというこの理論のウソを指摘し、インタラクティブな真の教育の姿
を提示する
◇蔓延する「褒める教育」
褒めることはいいことか
浅知恵 … 一面的,長期的な視野を欠く
事例
① とにかく褒める授業
② 褒める指導で金メダル
小出監督 2000年シドニー 保護者然
③ 試験でも褒める教授
④「○○子はいい子じゃない」
⑤「部下は褒めて育てよう」
◇教育の根本目的は自立の支援
「褒める教育」の骨子
骨子
① 意欲を持たせる効果
うれしい気持ちが意欲に繋がる
② 方向付ける効果
フィードバック機能
適切な方向付け
③ 自信を与える効果
認められる
→ 自信
④ 人間関係をよくする
技術論から本質論へ
長期的視野の重要性
抜けているもの
① 長期的視野
② 教育の根本目的に対する認識
教育の根本目的は自立の支援
◇「褒める教育」は動物に芸を仕込む方法
動物ショー
道具的条件付け
E.L.ソーンダイク(米)
猫の実験 - 強化刺激
ペダルを踏むとエサ
シェーピング
道具的条件付けを積み重ね,動物に芸を仕込む方法
「褒める教育」は条件付けのテクニック
状況 → 行動 → 強化
◎ 自立には明らかにマイナス
◎ 人の目ばかり気にする人間をつくる
「褒める教育」は,道具的条件付けの方法によって子どもや若者を
コントロールする育て方である
「よい-悪い」の評価の物指し
~ 褒められなければ価値はない?
◎ 評価の眼に包囲されて生きる今の子どもたち
他者の目と自分自身の判断のバランスこそ大切
↓
※ 子どもを評価漬けにする恐れ
H27.11.1(日)~12.6(日)に浜松市博物館で開催された、
徳川家康公顕彰四百年記念事業特別展
「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」の紹介4回目です。
特別展の紹介には
「若き家康が今川氏から独立し、三河国を平定したのち、今川領であった遠江
国をいかに攻略し平定していったのか。そこには、遠江の国人たちの抵抗や
恭順があり、家康や家臣たちが苦労して遠江国を平定し、天下取りの足掛か
りとした歴史がありました。
徳川家康公顕彰四百年記念の本年は、家康と、井伊直虎や飯尾連龍など遠江
の国衆の資料を集めた特別展を開催いたします。」
とあります。
本日紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「飯尾氏『いのお』と読む」
・「江間兄弟が武田、徳川どちらにつくかで内紛
江間氏は家康の一家臣となって近世を迎えることになる。
紀伊和歌山で紀伊徳川家に仕える」
もう一つ、再掲載になりますが、伊藤進さんの
「ほめるな」①を載せます。
ほめる教育が、ほめられなければ動かない子どもを生んでいるのではないか、
と思うこともしばしばあります。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
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☆「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」浜松市博物館特別展 H27 ④
◇家康の遠江侵攻浜松在城時の国衆の動向 森田香司(静岡県地域史研究会事務局) 1
□飯尾氏・松下氏・大澤氏
1 飯尾氏
① 出自 「いのお」と読む 鎌倉幕府三善義信の子孫 足利氏奉公人
主に讃岐国・阿波国
- 吉良氏との関係が深くなった一族が三河で家臣に
◎ 吉良氏の一族だった今川氏に協力することになり、文明年間に
遠江初代飯尾長連
② 歴代
長連 -賢連-乗連-連龍
為清
初代長連
- 今川氏に味方し文明8(1476)塩買坂の戦いで今川義忠と共に討死に
見付城を落としたが横地氏・勝田氏(?)らの反撃で討ち死に
2代賢連(?~1522?)
- 長連の戦功により浜松荘の奉行を吉良氏から命じられた
浜松荘
鎌倉時代に成立した荘園
吉良氏南北朝期にその地頭職
浜松市の南端部を東西に長い楕円形の荘園
「吉良殿御領」
- 代官が大河内貞綱
3代乗連(不詳)
遅くとも文永2(1522)年には跡を継いだ
- 引馬城主となり今川支配下
浜松を中心とする寄親(?)となり、江間氏や松下氏を寄子
にして合戦の軍役
今川氏の軍役
天文18(1549)年には岡崎城三河国の政務
桶狭間の合戦にも従軍
それ以降に亡くなった
1565年 連龍(子)が謀殺された
連歌師の宗長や宗牧とも交流
4代連龍(?~1565)
氏真の三河支配の失敗
→ 徳川家康と早くから気脈
永禄4(1562)年2月 尾三同盟
三州錯乱 → 今川三河支配瓦解
遠江国衆も今川氏に反旗
永禄6(1564)年12月16日
引間郷飯田で合戦
今川方 新野佐馬助・朝比奈康朝が討ち死に
頭陀寺城に籠城
~ 永禄7(1565)年3月まで戦うが決着つかず和睦
4月8日 家康・連龍会談-同盟
氏真は再度引馬城を攻めたが落城できず飯尾氏と和解
永禄8(1566)年12月
氏真が連龍を駿府に招く 20日
飯尾屋敷で謀殺される
駿府に行くように仲介したのは松井「強八」宗恒か
(妻が連龍の姉)
連龍を失った引馬城
氏真に反旗 ← 氏真が再度攻める
飯尾家臣の江間加賀守時成、江間安芸守泰顕は家康
に助け求め
→ 家康が安堵
◎浜松領
南端 寺嶋郷(現寺島町)~西端 舞阪郷(舞阪町)
飛び地 阿多古郷(室町期に吉良氏が獲得した所領)
総年貢 1200貫文超
氏真との戦いは長期戦に → 4月に再和睦
今川氏 江間兄弟に千貫文安堵(今川方に帰参)
永禄11(1569)年
江間兄弟が武田、徳川どちらにつくかで内紛
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家康は三河から一気に遠江国安間村(現東区安間町)
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江間兄弟が喧嘩
泰顕が時成を殺害
泰顕も時成家臣の小野田彦右衛門に斬り殺された
→ 徳川方に開城
(連龍後室の戦いはなかった もしくは永正年間)
|
駿府に人質に取られていた母は駿府で殺され、時成
の子・弥三一成は助け出されたが眼病
~ 一成は安堵
江間氏は家康の一家臣となって近世を迎えることになる
→ 紀伊和歌山で紀伊徳川家に仕える
☆「ほめるな」伊藤進 講談社現代新書 2005年 ①【再掲載 2014.2】
[出版社の案内]
「ほめれば人は伸びる」というのは間違いだ。
いま、教育現場では「ほめる教育」が常識になっている。子どもの意欲と自信
をはぐくむというこの理論のウソを指摘し、インタラクティブな真の教育の姿
を提示する
◇蔓延する「褒める教育」
褒めることはいいことか
浅知恵 … 一面的,長期的な視野を欠く
事例
① とにかく褒める授業
② 褒める指導で金メダル
小出監督 2000年シドニー 保護者然
③ 試験でも褒める教授
④「○○子はいい子じゃない」
⑤「部下は褒めて育てよう」
◇教育の根本目的は自立の支援
「褒める教育」の骨子
骨子
① 意欲を持たせる効果
うれしい気持ちが意欲に繋がる
② 方向付ける効果
フィードバック機能
適切な方向付け
③ 自信を与える効果
認められる
→ 自信
④ 人間関係をよくする
技術論から本質論へ
長期的視野の重要性
抜けているもの
① 長期的視野
② 教育の根本目的に対する認識
教育の根本目的は自立の支援
◇「褒める教育」は動物に芸を仕込む方法
動物ショー
道具的条件付け
E.L.ソーンダイク(米)
猫の実験 - 強化刺激
ペダルを踏むとエサ
シェーピング
道具的条件付けを積み重ね,動物に芸を仕込む方法
「褒める教育」は条件付けのテクニック
状況 → 行動 → 強化
◎ 自立には明らかにマイナス
◎ 人の目ばかり気にする人間をつくる
「褒める教育」は,道具的条件付けの方法によって子どもや若者を
コントロールする育て方である
「よい-悪い」の評価の物指し
~ 褒められなければ価値はない?
◎ 評価の眼に包囲されて生きる今の子どもたち
他者の目と自分自身の判断のバランスこそ大切
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※ 子どもを評価漬けにする恐れ