鷲田小彌太さんはこんなことを 26-「日本人のための歴史を考える技術」PHP 1999年 (6) /「まじめの崩壊」 千石保 サイマル出版社 1992年 ②【再掲載 2013.7】 [読書記録 歴史]
今回は、12月25日に続いてわたしの読書ノートから、
「鷲田小彌太さんはこんなことを」26回目、
「日本人のための歴史を考える技術」の紹介 6回目です。
おもしろい説だと思いました。
出版社の案内には
「邪馬台国論争とは何か、『記紀』の正しい読み方はなど、歴史の『なぜ』を
いかに問い、考えるかについて、全ての知識や学問の基礎が歴史にあると
考える哲学教授が挑む日本人のための日本史講座・古代篇。」
とあります。
大化の改新のとらえ方をおもしろく感じました。
もう一つ、再掲載になりますが、千石保さんの
「まじめの崩壊」②を載せます。
出版から はや30年。
「まじめ」は過去のものになってしまったのでしょうか。
ただまじめなだけでは本人が苦しむことになってしまいます。
まじめを軸とした+αが必要な時代になっていることは感じます。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。

<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆鷲田小彌太さんはこんなことを 26-「日本人のための歴史を考える技術」PHP 1999年 (6)

◇倭の五王
倭の五王とは誰か
讃 - 応神,仁徳,履中
珍 - 反正,仁徳
済 - 允恭
興 - 安康
武 - 雄略
鉄文化がやってきた
日本には鉄と青銅器がほとんど同時に入った
- 朝鮮半島の渡来人
文化の輸入形式
① きわめて長い歴史時間を経て人も文化もやってきた
② トップを輸入 蘇我氏は渡来人 崇神は南加羅の王
応神と継体は百済王の弟
③ 新しい首長を要求
④ ヤマト国の文化輸入の独特の形式
◇蘇我氏は悪人か?
古代史の開始から大動乱の二百年
大化の改新の謎
① 改新直前に聖徳太子の子山背大兄が殺される
「大兄」 = 第一天王位継承者 = 皇太子
犯人は蘇我入鹿とされる
② 聖徳太子とは何者か
③ 蘇我氏
- 大罪人にされている(日本書紀)
④ 中大兄皇子
二十数年も天王の座に着いていない
在位三年でなくなる
蘇我氏は天王家だ
日本書紀 ~ 蘇我氏
◎功績 仏教導入 対隋外交 憲法17条制定
▲罪 崇峻の殺害 生前天王墓まがいのものを造営
山背大兄一族殺害 天王家転覆の陰謀
↑
石渡説
「蘇我氏が天王家であった」(応神系)
稲目 = 欽明
馬子 = 用明 =聖徳太子
<応神系の権力の肥大化>が日本書紀で批判
↑↓
物部氏(継体系)
「日本書紀」大化の改新のクーデター合理化
中大兄皇子(天智)の後継者として天武・持統
∥
大化以前
二つの天王家を二つの豪族に変じて断罪し,中臣(藤原)
氏の功績を一人際だたせる目論見
蘇我氏には没落する理由があった
大化の改新
- 陰惨なクーデター
政務中の天王を密室で取り囲み押し殺した
∥
◎ 無法ながら成功した
1 馬子天王らが王位継承権を独占し,今ひとつある
天王家を圧迫・壊滅させようとした
彦人大兄殺害に対する復讐劇
2 外交政策
対中国対朝鮮路線の対立
|
百済の国難への対処法
馬子・入鹿は親百済
↑↓
唐の反感を買う
→ 路線変更を
☆「まじめの崩壊」 千石保 サイマル出版社 1992年 ②【再掲載 2013.7】

<まじめの崩壊>
◇まじめからマジへ
リーダーの消滅と人気者の浮上
「団体駆け足教育」
- 勤倹力行の崩壊
1977年から大きく変化
勉強のできる子がガリ勉,マジと軽蔑されるようになった
キン肉マン登場-まじめ崩壊期
= インスツルメントの価値を拒否しコンサマトリー化した日本若者の姿
「ロッキー」「フラッシュダンス」が受け入れられない
↓
◎「巨人の星」から「キン肉マン」へ
ビートたけしのタテマエ攻撃-コミック定着期
「まじめ」を攻撃して「マジ」の地位に引きずりおろす運動
明石家さんま - 倫理を欠いた行動が迎えられた
ホンネ,コミカル
↓
◎ まじめによく働いたり勉強したりする者がリーダー,規範,中心
でなくなった
村上泰亮『産業社会の病理』
新人類の誕生-対立葛藤期
村上泰亮『産業社会の病理』
「手段的合理主義に伴う勤倹力行の論理が産業社会を育てた個人主
義と対立葛藤を呼ぶだろう」
1977(昭和52)年オイルショックによる低成長
→ 父母の会社,社会を恨む会話が新人類を発生させた
∥
◎「自分らしくありたい」昭和37,38年生まれ
「自分大切価値観」
オイルショック
◎「他者への犠牲」→ 「自分大切」
豊かさとノリのパラドックス
新しい矛盾葛藤の時代
「仕事とは自分で見つけてくるもの」=「仕事無限定制」の崩壊
↓
ルーチン仕事以外はノー
日本
手段合理性の倫理と個人主義のコンサマトリーとの葛藤段階
プレモダン →(モダンを経ずて)→ポストモダン
◎ 日本では個人主義が根付かないまま経済とライフスタイルだけ
がポストモダンに突入した
(お金だけがポストモダンの脱工業化を果たしたが,精神がまだ近
代の個人主義に育っていない)
◇おたくの論理
アイドリアン 「おたく族」C級アイドルファン
アイドリアンのおたく性 エンドレスが前提
ヒーローからアイドルへ
ヒーローがいなくなりアイドルが誕生 おにゃんこクラブ
出世から降りた若者たち
勤倹力行
モダニズムのエトスが中学生からなくなっている
= 一億総おたく化現象
生産とそのための勤倹力行がないことがおたくを生む土壌
若者の大切なもの
= 「自分の時間」
仕事にはやる気がなくても趣味にはやる気満々
目的を持たない新入社員
働く目的
~ 楽しく暮らすための手段
スペシャリスト志向
ゼネラリスト志向からスペシャリスト志向へ
◇相対主義の罠
1977(昭和52)年前後日本人の価値観が大きく変化した
「支持政党なし」カテゴリーがトップに
1978年歴史終焉説
1989. 7 フランシス・フクヤマ『歴史の終焉』
1989.12 ベルリンの壁崩壊
「モノ」から「コト」へ
物質主義からポスト物質主義へ(インクルハート)
havingからbeingへ(エーリッヒ・フロム)
第二の波から第三の波へ(トフラー)
モーレツからビューティフルへ
∥
◎「追いつけ追い越せ」の目標がなくなった
理念の喪失と「欲求」の新しい形
若者たちの欲求は「楽しさ」 今田高俊『モダンの脱構築』
80年代差別化の時代 感性・パフォーマンスが大きな主流に
自分に忠実に生きる
「自分のしたいことをしなければならない」人間の出現
例え常識に反しても…
否定される絶対的基準
普遍主義・絶対主義の崩壊から相対観への転換
「自分なりに頑張った」で済ませてしまう…
(相対観のバリエーション)
文明の崩壊を招く相対主義
アラン・ブルーム(シカゴ大)
『アメリカンマインドの終焉』
アラン・フィンケルクロート(フランス)
『思考の敗北或いは文化のパラドクス』
「対話の喪失」-相対主義批判
「こうでなければならぬ」という基準の喪失が「自分なりに」「自分
らしく」という言葉に置き換えられてしまった。
= 相対観があらゆる場で猛威をふるう
相対観 → タテマエの喪失
◎「自分なりに」という現代のピカピカキーワードは若者たちの人口数だけ
の「モノサシ」を生んだと言える。共通のモノサシがなくなり,それぞれ
が個性化してもよくなったと言える。
↓
※ 現代社会の危機的状況
◎「対話や討論がなくなった」
「お前はそうか,俺はこうだ」で終わってしま
「多種少量友人」
「鷲田小彌太さんはこんなことを」26回目、
「日本人のための歴史を考える技術」の紹介 6回目です。
おもしろい説だと思いました。
出版社の案内には
「邪馬台国論争とは何か、『記紀』の正しい読み方はなど、歴史の『なぜ』を
いかに問い、考えるかについて、全ての知識や学問の基礎が歴史にあると
考える哲学教授が挑む日本人のための日本史講座・古代篇。」
とあります。
大化の改新のとらえ方をおもしろく感じました。
もう一つ、再掲載になりますが、千石保さんの
「まじめの崩壊」②を載せます。
出版から はや30年。
「まじめ」は過去のものになってしまったのでしょうか。
ただまじめなだけでは本人が苦しむことになってしまいます。
まじめを軸とした+αが必要な時代になっていることは感じます。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。

<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆鷲田小彌太さんはこんなことを 26-「日本人のための歴史を考える技術」PHP 1999年 (6)

◇倭の五王
倭の五王とは誰か
讃 - 応神,仁徳,履中
珍 - 反正,仁徳
済 - 允恭
興 - 安康
武 - 雄略
鉄文化がやってきた
日本には鉄と青銅器がほとんど同時に入った
- 朝鮮半島の渡来人
文化の輸入形式
① きわめて長い歴史時間を経て人も文化もやってきた
② トップを輸入 蘇我氏は渡来人 崇神は南加羅の王
応神と継体は百済王の弟
③ 新しい首長を要求
④ ヤマト国の文化輸入の独特の形式
◇蘇我氏は悪人か?
古代史の開始から大動乱の二百年
大化の改新の謎
① 改新直前に聖徳太子の子山背大兄が殺される
「大兄」 = 第一天王位継承者 = 皇太子
犯人は蘇我入鹿とされる
② 聖徳太子とは何者か
③ 蘇我氏
- 大罪人にされている(日本書紀)
④ 中大兄皇子
二十数年も天王の座に着いていない
在位三年でなくなる
蘇我氏は天王家だ
日本書紀 ~ 蘇我氏
◎功績 仏教導入 対隋外交 憲法17条制定
▲罪 崇峻の殺害 生前天王墓まがいのものを造営
山背大兄一族殺害 天王家転覆の陰謀
↑
石渡説
「蘇我氏が天王家であった」(応神系)
稲目 = 欽明
馬子 = 用明 =聖徳太子
<応神系の権力の肥大化>が日本書紀で批判
↑↓
物部氏(継体系)
「日本書紀」大化の改新のクーデター合理化
中大兄皇子(天智)の後継者として天武・持統
∥
大化以前
二つの天王家を二つの豪族に変じて断罪し,中臣(藤原)
氏の功績を一人際だたせる目論見
蘇我氏には没落する理由があった
大化の改新
- 陰惨なクーデター
政務中の天王を密室で取り囲み押し殺した
∥
◎ 無法ながら成功した
1 馬子天王らが王位継承権を独占し,今ひとつある
天王家を圧迫・壊滅させようとした
彦人大兄殺害に対する復讐劇
2 外交政策
対中国対朝鮮路線の対立
|
百済の国難への対処法
馬子・入鹿は親百済
↑↓
唐の反感を買う
→ 路線変更を
☆「まじめの崩壊」 千石保 サイマル出版社 1992年 ②【再掲載 2013.7】

<まじめの崩壊>
◇まじめからマジへ
リーダーの消滅と人気者の浮上
「団体駆け足教育」
- 勤倹力行の崩壊
1977年から大きく変化
勉強のできる子がガリ勉,マジと軽蔑されるようになった
キン肉マン登場-まじめ崩壊期
= インスツルメントの価値を拒否しコンサマトリー化した日本若者の姿
「ロッキー」「フラッシュダンス」が受け入れられない
↓
◎「巨人の星」から「キン肉マン」へ
ビートたけしのタテマエ攻撃-コミック定着期
「まじめ」を攻撃して「マジ」の地位に引きずりおろす運動
明石家さんま - 倫理を欠いた行動が迎えられた
ホンネ,コミカル
↓
◎ まじめによく働いたり勉強したりする者がリーダー,規範,中心
でなくなった
村上泰亮『産業社会の病理』
新人類の誕生-対立葛藤期
村上泰亮『産業社会の病理』
「手段的合理主義に伴う勤倹力行の論理が産業社会を育てた個人主
義と対立葛藤を呼ぶだろう」
1977(昭和52)年オイルショックによる低成長
→ 父母の会社,社会を恨む会話が新人類を発生させた
∥
◎「自分らしくありたい」昭和37,38年生まれ
「自分大切価値観」
オイルショック
◎「他者への犠牲」→ 「自分大切」
豊かさとノリのパラドックス
新しい矛盾葛藤の時代
「仕事とは自分で見つけてくるもの」=「仕事無限定制」の崩壊
↓
ルーチン仕事以外はノー
日本
手段合理性の倫理と個人主義のコンサマトリーとの葛藤段階
プレモダン →(モダンを経ずて)→ポストモダン
◎ 日本では個人主義が根付かないまま経済とライフスタイルだけ
がポストモダンに突入した
(お金だけがポストモダンの脱工業化を果たしたが,精神がまだ近
代の個人主義に育っていない)
◇おたくの論理
アイドリアン 「おたく族」C級アイドルファン
アイドリアンのおたく性 エンドレスが前提
ヒーローからアイドルへ
ヒーローがいなくなりアイドルが誕生 おにゃんこクラブ
出世から降りた若者たち
勤倹力行
モダニズムのエトスが中学生からなくなっている
= 一億総おたく化現象
生産とそのための勤倹力行がないことがおたくを生む土壌
若者の大切なもの
= 「自分の時間」
仕事にはやる気がなくても趣味にはやる気満々
目的を持たない新入社員
働く目的
~ 楽しく暮らすための手段
スペシャリスト志向
ゼネラリスト志向からスペシャリスト志向へ
◇相対主義の罠
1977(昭和52)年前後日本人の価値観が大きく変化した
「支持政党なし」カテゴリーがトップに
1978年歴史終焉説
1989. 7 フランシス・フクヤマ『歴史の終焉』
1989.12 ベルリンの壁崩壊
「モノ」から「コト」へ
物質主義からポスト物質主義へ(インクルハート)
havingからbeingへ(エーリッヒ・フロム)
第二の波から第三の波へ(トフラー)
モーレツからビューティフルへ
∥
◎「追いつけ追い越せ」の目標がなくなった
理念の喪失と「欲求」の新しい形
若者たちの欲求は「楽しさ」 今田高俊『モダンの脱構築』
80年代差別化の時代 感性・パフォーマンスが大きな主流に
自分に忠実に生きる
「自分のしたいことをしなければならない」人間の出現
例え常識に反しても…
否定される絶対的基準
普遍主義・絶対主義の崩壊から相対観への転換
「自分なりに頑張った」で済ませてしまう…
(相対観のバリエーション)
文明の崩壊を招く相対主義
アラン・ブルーム(シカゴ大)
『アメリカンマインドの終焉』
アラン・フィンケルクロート(フランス)
『思考の敗北或いは文化のパラドクス』
「対話の喪失」-相対主義批判
「こうでなければならぬ」という基準の喪失が「自分なりに」「自分
らしく」という言葉に置き換えられてしまった。
= 相対観があらゆる場で猛威をふるう
相対観 → タテマエの喪失
◎「自分なりに」という現代のピカピカキーワードは若者たちの人口数だけ
の「モノサシ」を生んだと言える。共通のモノサシがなくなり,それぞれ
が個性化してもよくなったと言える。
↓
※ 現代社会の危機的状況
◎「対話や討論がなくなった」
「お前はそうか,俺はこうだ」で終わってしま
「多種少量友人」
鷲田小彌太さんはこんなことを 25-「日本人のための歴史を考える技術」PHP 1999年 (5) /「地域住民から福祉・教育関係者等への無理難題要求をどう読み解き対応するか」~イチャモン研究の到達点~ 大阪大学教授 小野田正利 2008年 ⑧【再掲載 2015.11】 [読書記録 歴史]
今回は、12月15日に続いてわたしの読書ノートから、
「鷲田小彌太さんはこんなことを」25回目、
「日本人のための歴史を考える技術」の紹介 5回目です。
おもしろい説だと思いました。
出版社の案内には
「邪馬台国論争とは何か、『記紀』の正しい読み方はなど、歴史の『なぜ』を
いかに問い、考えるかについて、全ての知識や学問の基礎が歴史にあると
考える哲学教授が挑む日本人のための日本史講座・古代篇。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「歴代天皇の中で『神』を名に持つのは神武・崇神・応神のみ=建国者」
・「聖徳太子、用明天皇は,ともに天王・馬子の架空の分身」
・「『大化の改新』は継体系の中大兄皇子と中臣鎌足を中心としたクーデター」
・「カラ連合国の王がヤマト王朝初代の崇神」
もう一つ、再掲載になりますが、小野田正利さんの
「地域住民から福祉・教育関係者への無理難題要求をどう読み解き対応する
か」⑧をのせます。
「モンスターペアレント」という言葉をこのごろあまり聞きません。
無くなったのではなく、「無理難題要求」が当たり前のように感じられるよう
になったのでしょう。
わたしも鈍感になりました。
教え子が教職を志したとき、気持ちよく勧められる状況ではありません。
10年後の「学校」が心配です。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。

<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆鷲田小彌太さんはこんなことを 25-「日本人のための歴史を考える技術」 1999年 PHP (5)

◇大化の改新の謎
□聖徳太子の正体がわかれば古代史の謎が解ける?
神武・崇神・応神・継体・雄略
~ 漢風の諡(おくりな)
8世紀後半につけられた
神武の実名はヒコホホデミ・ワケミケヌ・トヨミケヌ
歴代天皇の中で「神」を持つのは神武・崇神・応神のみ = 建国者
崇神 4世紀中頃
ゆるやかな連合国家
倭(ヤマト)国の建国者
応神 百済王弟の昆枝
461年倭に渡来 崇神の入り婿に
→ 武 ヤマト王朝
継体 応神 = 昆枝の弟
兄の後を受け天王位
欽明 応神 = 昆枝の子
531年 クーデターで権力
蘇我氏は昆枝直系の天王家で稲目は欽明に当たる
応神系 - 蘇我馬子 勝利
継体系 - 物部守屋
聖徳太子、用明天皇は,ともに天王・馬子の架空の分身
「大化の改新」は継体系の中大兄皇子と中臣鎌足を中心としたクーデター
↓
「壬申の乱」 中大兄皇子 VS 古人大兄 継体系天王家・宗家・長子 (父が継体系 母が蘇我系) 馬子の孫
∥
◎ 大和朝廷の本格的始動
◇倭国とは何か
□様々な「倭王」
倭国と呼ばれた地域は非連続の国
「漢倭奴国王」金印の疑問
① 漢と名乗る必要があるか?
~ 中華思想
② 倭の奴国か委奴(いと)国か?
□緩やかな連合国家の誕生
委国 - 邪馬台国の壱与の時代まで分立した諸国からなっていた
弥生から古墳時代の1000年間に朝鮮から100万人以上の渡来人
~3世紀半ば
加羅は12国に分かれた「弁韓」と呼ばれている
4世紀前半 南加羅を中心とする連合体
石渡説 南加羅の王(首露)が初代盟主
4世紀半ばに日本に渡来し新倭国の王に
∥
◎ カラ連合国の王がヤマト王朝初代の崇神
☆「地域住民から福祉・教育関係者等への無理難題要求をどう読み解き対応するか」~イチャモン研究の到達点~ 大阪大学教授 小野田正利 2008年 ⑧【再掲載 2015.11】

(2)教師の辞め方と学校観・社会観
こういった実態に注目したテレビ局の30教社が、私の所にやってきて、イン
タビューに答えてくれる関係者を紹介してくれと迫ることが多くあります。
私の進めてきた研究に賛同して多くの情報をくれた教員や校長でも、画面に
顔を写すことはもちろんのこと、この要望に応じてくれる人を探すのは本当に
難しくなりました。
NHKの「クローズアップ現代」のような番組でさえ、民放各局と同じよう
に抵抗感があります。
退職校長でもそれは同じですが、その出演交渉を私がしていて、気が付いた
ことがあります。
それは、校長(教員)を辞める時の「辞め方」や「背景」によって、その後
の人生観も世界観も変わってしまっているのではないかということです。
在職中に、それはしんどい保護者との対応で苦労された校長がおられました。
もう3年以上前に、私の存在に注目し、真っ先に校内研の講師を依頼してこ
られた方です。
私は半年間に、その学校に二度も研修会講師として立ち会い、個別の対応の
アドバイスをしました。
その校長は、定年退職が決まっている後の、次年度の計画も立てながら、積
極的に取り組んでおられました。
しかし私が出演(もちろん首から下だけの映像)をお願いすると
「小野田さん、悪いけど、もう自分は学校や教育のことは考えたくもないんだ
わ。そういう世界とは無縁のところで生きていきたいから、今後は連絡をと
らないでくれ」
と言われました。
元校長の声は沈んでいましたが、それを聞いた私は「フラッシュバックを起
こさせてしまったのか、申し訳ない」という思いと同時に、「思い出すのも嫌
だ」というほどの気持ちを持つことの悲しみを感じました。
「子どもとの関係だけやったら、なんぼでもする。でもな、保護者との関係は
そうはいかん。苦しい思い出の方が募る」
と、執拗なクレームの嵐の中で「楽になりたい」といって辞めていった先生が
たくさんいます。
子どもだちとの交流で楽しい経験もたくさんあったであろう教員・校長とし
ての30年が、無惨にも全否定せざるをえないような気持ちになることは、退職
後の生き方やモノの見方に本当に大きな影を落としていくように感じます。
冒頭で述べた、退職後の立場の変化で、子どもに対する見方が変わったのと
は対照的な姿です。
「鷲田小彌太さんはこんなことを」25回目、
「日本人のための歴史を考える技術」の紹介 5回目です。
おもしろい説だと思いました。
出版社の案内には
「邪馬台国論争とは何か、『記紀』の正しい読み方はなど、歴史の『なぜ』を
いかに問い、考えるかについて、全ての知識や学問の基礎が歴史にあると
考える哲学教授が挑む日本人のための日本史講座・古代篇。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「歴代天皇の中で『神』を名に持つのは神武・崇神・応神のみ=建国者」
・「聖徳太子、用明天皇は,ともに天王・馬子の架空の分身」
・「『大化の改新』は継体系の中大兄皇子と中臣鎌足を中心としたクーデター」
・「カラ連合国の王がヤマト王朝初代の崇神」
もう一つ、再掲載になりますが、小野田正利さんの
「地域住民から福祉・教育関係者への無理難題要求をどう読み解き対応する
か」⑧をのせます。
「モンスターペアレント」という言葉をこのごろあまり聞きません。
無くなったのではなく、「無理難題要求」が当たり前のように感じられるよう
になったのでしょう。
わたしも鈍感になりました。
教え子が教職を志したとき、気持ちよく勧められる状況ではありません。
10年後の「学校」が心配です。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。

<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆鷲田小彌太さんはこんなことを 25-「日本人のための歴史を考える技術」 1999年 PHP (5)

◇大化の改新の謎
□聖徳太子の正体がわかれば古代史の謎が解ける?
神武・崇神・応神・継体・雄略
~ 漢風の諡(おくりな)
8世紀後半につけられた
神武の実名はヒコホホデミ・ワケミケヌ・トヨミケヌ
歴代天皇の中で「神」を持つのは神武・崇神・応神のみ = 建国者
崇神 4世紀中頃
ゆるやかな連合国家
倭(ヤマト)国の建国者
応神 百済王弟の昆枝
461年倭に渡来 崇神の入り婿に
→ 武 ヤマト王朝
継体 応神 = 昆枝の弟
兄の後を受け天王位
欽明 応神 = 昆枝の子
531年 クーデターで権力
蘇我氏は昆枝直系の天王家で稲目は欽明に当たる
応神系 - 蘇我馬子 勝利
継体系 - 物部守屋
聖徳太子、用明天皇は,ともに天王・馬子の架空の分身
「大化の改新」は継体系の中大兄皇子と中臣鎌足を中心としたクーデター
↓
「壬申の乱」 中大兄皇子 VS 古人大兄 継体系天王家・宗家・長子 (父が継体系 母が蘇我系) 馬子の孫
∥
◎ 大和朝廷の本格的始動
◇倭国とは何か
□様々な「倭王」
倭国と呼ばれた地域は非連続の国
「漢倭奴国王」金印の疑問
① 漢と名乗る必要があるか?
~ 中華思想
② 倭の奴国か委奴(いと)国か?
□緩やかな連合国家の誕生
委国 - 邪馬台国の壱与の時代まで分立した諸国からなっていた
弥生から古墳時代の1000年間に朝鮮から100万人以上の渡来人
~3世紀半ば
加羅は12国に分かれた「弁韓」と呼ばれている
4世紀前半 南加羅を中心とする連合体
石渡説 南加羅の王(首露)が初代盟主
4世紀半ばに日本に渡来し新倭国の王に
∥
◎ カラ連合国の王がヤマト王朝初代の崇神
☆「地域住民から福祉・教育関係者等への無理難題要求をどう読み解き対応するか」~イチャモン研究の到達点~ 大阪大学教授 小野田正利 2008年 ⑧【再掲載 2015.11】

(2)教師の辞め方と学校観・社会観
こういった実態に注目したテレビ局の30教社が、私の所にやってきて、イン
タビューに答えてくれる関係者を紹介してくれと迫ることが多くあります。
私の進めてきた研究に賛同して多くの情報をくれた教員や校長でも、画面に
顔を写すことはもちろんのこと、この要望に応じてくれる人を探すのは本当に
難しくなりました。
NHKの「クローズアップ現代」のような番組でさえ、民放各局と同じよう
に抵抗感があります。
退職校長でもそれは同じですが、その出演交渉を私がしていて、気が付いた
ことがあります。
それは、校長(教員)を辞める時の「辞め方」や「背景」によって、その後
の人生観も世界観も変わってしまっているのではないかということです。
在職中に、それはしんどい保護者との対応で苦労された校長がおられました。
もう3年以上前に、私の存在に注目し、真っ先に校内研の講師を依頼してこ
られた方です。
私は半年間に、その学校に二度も研修会講師として立ち会い、個別の対応の
アドバイスをしました。
その校長は、定年退職が決まっている後の、次年度の計画も立てながら、積
極的に取り組んでおられました。
しかし私が出演(もちろん首から下だけの映像)をお願いすると
「小野田さん、悪いけど、もう自分は学校や教育のことは考えたくもないんだ
わ。そういう世界とは無縁のところで生きていきたいから、今後は連絡をと
らないでくれ」
と言われました。
元校長の声は沈んでいましたが、それを聞いた私は「フラッシュバックを起
こさせてしまったのか、申し訳ない」という思いと同時に、「思い出すのも嫌
だ」というほどの気持ちを持つことの悲しみを感じました。
「子どもとの関係だけやったら、なんぼでもする。でもな、保護者との関係は
そうはいかん。苦しい思い出の方が募る」
と、執拗なクレームの嵐の中で「楽になりたい」といって辞めていった先生が
たくさんいます。
子どもだちとの交流で楽しい経験もたくさんあったであろう教員・校長とし
ての30年が、無惨にも全否定せざるをえないような気持ちになることは、退職
後の生き方やモノの見方に本当に大きな影を落としていくように感じます。
冒頭で述べた、退職後の立場の変化で、子どもに対する見方が変わったのと
は対照的な姿です。