「戦国大名と読書」小和田哲男 柏書房 2014年 / 東井義雄さんの言葉 34 「どの子も必ず救われる 私の家庭教育論」 東井義雄 明治図書 1983年 ①【再掲載 2017.6】 [読書記録 歴史]
今回は、小和田哲男さんの
「戦国大名と読書」を紹介します。
ラジオで小和田哲男さんの講演を何回か聴きましたが、
大変わかりやすく聞きやすいですね。
出版社の案内には、
「徳川家康が天下を取れたのは、おそるべき読書魔だったからだ!早雲・
元就・信玄・謙信から光秀・官兵衛・政宗・兼続まで…彼らの幼年・
少年時代の読書歴が、その後の人間形成にどのような影響を与えたの
かを探る!」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は‥
・「武将子弟の寺入りは家督予備軍のプール」
・「竹千代は8歳から義元の人質となったが、人質と言うより特別待遇の
人質だといえる」
・「必読書だった『四書』『五経』」
・「家康が読んだのは『源平盛衰記』」
もう一つ、再掲載となりますが、
「東井義雄さんの言葉 34」を載せます。
定年退職したら東井義雄記念館に行こうと思っているのですが、
安心して行くことができる状況にはまだなっていないのが残念です。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。

<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「戦国大名と読書」小和田哲男 柏書房 2014年

◇教育者としての禅僧の役割
□武将子弟の寺入り
石田三成「三献茶のエピソード」
寺入り
~ 家督予備軍のプール
今川義元
善徳寺(富士郡瀬古-太原雪斎)
→ 建仁寺、妙心寺で教育
□上杉謙信を育てた天室光育
□今川義元・徳川家康を育てた太原雪斎
義元 = 方菊丸 五男 富士郡の善徳寺
|
竹千代 8歳から義元の人質
元信 → 元康(人質と言うより特別待遇の人質)
↑
雪斎の教育を受けさせている
□伊達政宗を育てた虎哉宗乙
◇どのような書物を読んでいたか
玉木吉保の「身自鏡」から
「庭訓往来」の世界
「実語教」と「童子教」
必読書だった「四書」「五経」
「貞永式目」が読まれたのはなぜか
◇実践に応用された「武経七書」
「武経七書」とは
北条早雲と孫子の兵法
毛利元就と呉子の兵法
武田信玄と「風林火山の軍旗」
黒田官兵衛と孫子の兵法
羽柴秀吉と孫子の兵法
徳川家康による兵法書の印刷
◇戦国武将にとっての占筮術
五経の筆頭にあげられる「易経」
足利学校と易学
軍配と易筮
徳川家康と閑室元佶の易筮
◇幅広く読まれていた中国の典籍
武田信繁の家訓から
「三史」といわれた
「史記」「漢書」「後漢書」
「詩経」の読まれ方
直江兼続の「古文真宝後集抄」の書写
家康も学んだ「貞観政要」
◇「平家物語」と「太平記」
毛利・吉川氏と「平家物語」「太平記」
北条早雲と「太平記」読み聞かせ
家康が読んだのは「源平盛衰記」
◇利休たちはなぜ王朝の古典文学を読んだのか
明智光秀の「愛宕百韻」と「源氏物語」
連歌師が「源氏物語」を○○(?)していた
◇漢詩・和歌と戦国武将
武田信玄の漢詩
上杉謙信の漢詩
直江兼続の漢詩
伊達政宗の漢詩
◇家康愛読書と印刷出版事業
駿河文庫の主な蔵書
侍医板坂卜斎の観察 「慶長記」
蔵書を通じた家康と直江兼続の交流
散佚する可能性のある書籍の蒐集と書写
家康が手がけた出版事業
☆東井義雄さんの言葉 34 「どの子も必ず救われる 私の家庭教育論」 東井義雄 明治図書 1983年 ①【再掲載 2017.6】

<死への道・生への道>
◇重病のガンを病んでいる
□「校内暴力」「家庭内暴力」
ガン
「竹やぶで竹の子を一本掘ってもすぐまた竹の子が生えてくるのは、そこ
が竹やぶであるからである。ガンを取ってもまたすぐガンができるのは
身体全体がガン畑になっているからである」
|
◎ 今日本の国は国全体が「ガンの竹やぶ」「ガン畑」
□性の乱れ
女子の乱れ方が目立つ
□青少年非行
坂口拓史(青少年非行防止問題研究所主宰)
『万引き』(図書刊行会)日本の万引き人口は一千万人超
|
こういう病状の中に日本の青少年 - 汚染
□生命力の衰弱
登校拒否症
共通点 = 内気でおとなしい神経質でわがまま
(次の傾向が多い)
・算数体育が嫌いでクラブ活動や学級活動・生徒会活動などを敬遠する
・友達が少なく中学生では殆どが「ひとりぼっち」
・母親が教育一手 - 父親放任
母親(小)場当たり的で一貫性がない
(中)猫かわいがり
大学生
「騒がない」「しゃべらない」「質問しない」
「読まない」「書かない」「知ろうとしない」
無気力現象
日体大体育研究所長 正木建雄教授
・防衛反射能力・基礎的能力に異常が目立つ
・顔・頭のけがが増えている、骨折増、高血圧
・背筋、土踏まず
↑
◎ 悪魔のような原爆さえ破壊しきれなかった民族の生命力が内部崩壊
◇歩んだ道への疑い
□教育においてはものの貧しさよりも豊かさの方が恐ろしい
便利なもの
人間の欲望を充たしてくれそうなもの
→ 人間を駄目にする危険性
□都会とは
… それらが競争のように手練手管の限りをつくして人間を誘惑しよう
としあっているところ
□高坂堯雄(京都大学)『文明の衰亡するとき』(新潮選書)
「繁栄は衰亡の本質を熟成する」
◎ 繁栄が日本全体を「ガンの竹やぶ」「ガン畑」にしてしまった。
◎ 一番抵抗力の弱い青少年が、子供たちがその魔力にやられてしまっている
= 今日の青少年問題
∥
先進国諸国ほど青少年問題が深刻化
「戦国大名と読書」を紹介します。
ラジオで小和田哲男さんの講演を何回か聴きましたが、
大変わかりやすく聞きやすいですね。
出版社の案内には、
「徳川家康が天下を取れたのは、おそるべき読書魔だったからだ!早雲・
元就・信玄・謙信から光秀・官兵衛・政宗・兼続まで…彼らの幼年・
少年時代の読書歴が、その後の人間形成にどのような影響を与えたの
かを探る!」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は‥
・「武将子弟の寺入りは家督予備軍のプール」
・「竹千代は8歳から義元の人質となったが、人質と言うより特別待遇の
人質だといえる」
・「必読書だった『四書』『五経』」
・「家康が読んだのは『源平盛衰記』」
もう一つ、再掲載となりますが、
「東井義雄さんの言葉 34」を載せます。
定年退職したら東井義雄記念館に行こうと思っているのですが、
安心して行くことができる状況にはまだなっていないのが残念です。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。

<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「戦国大名と読書」小和田哲男 柏書房 2014年

◇教育者としての禅僧の役割
□武将子弟の寺入り
石田三成「三献茶のエピソード」
寺入り
~ 家督予備軍のプール
今川義元
善徳寺(富士郡瀬古-太原雪斎)
→ 建仁寺、妙心寺で教育
□上杉謙信を育てた天室光育
□今川義元・徳川家康を育てた太原雪斎
義元 = 方菊丸 五男 富士郡の善徳寺
|
竹千代 8歳から義元の人質
元信 → 元康(人質と言うより特別待遇の人質)
↑
雪斎の教育を受けさせている
□伊達政宗を育てた虎哉宗乙
◇どのような書物を読んでいたか
玉木吉保の「身自鏡」から
「庭訓往来」の世界
「実語教」と「童子教」
必読書だった「四書」「五経」
「貞永式目」が読まれたのはなぜか
◇実践に応用された「武経七書」
「武経七書」とは
北条早雲と孫子の兵法
毛利元就と呉子の兵法
武田信玄と「風林火山の軍旗」
黒田官兵衛と孫子の兵法
羽柴秀吉と孫子の兵法
徳川家康による兵法書の印刷
◇戦国武将にとっての占筮術
五経の筆頭にあげられる「易経」
足利学校と易学
軍配と易筮
徳川家康と閑室元佶の易筮
◇幅広く読まれていた中国の典籍
武田信繁の家訓から
「三史」といわれた
「史記」「漢書」「後漢書」
「詩経」の読まれ方
直江兼続の「古文真宝後集抄」の書写
家康も学んだ「貞観政要」
◇「平家物語」と「太平記」
毛利・吉川氏と「平家物語」「太平記」
北条早雲と「太平記」読み聞かせ
家康が読んだのは「源平盛衰記」
◇利休たちはなぜ王朝の古典文学を読んだのか
明智光秀の「愛宕百韻」と「源氏物語」
連歌師が「源氏物語」を○○(?)していた
◇漢詩・和歌と戦国武将
武田信玄の漢詩
上杉謙信の漢詩
直江兼続の漢詩
伊達政宗の漢詩
◇家康愛読書と印刷出版事業
駿河文庫の主な蔵書
侍医板坂卜斎の観察 「慶長記」
蔵書を通じた家康と直江兼続の交流
散佚する可能性のある書籍の蒐集と書写
家康が手がけた出版事業
☆東井義雄さんの言葉 34 「どの子も必ず救われる 私の家庭教育論」 東井義雄 明治図書 1983年 ①【再掲載 2017.6】

<死への道・生への道>
◇重病のガンを病んでいる
□「校内暴力」「家庭内暴力」
ガン
「竹やぶで竹の子を一本掘ってもすぐまた竹の子が生えてくるのは、そこ
が竹やぶであるからである。ガンを取ってもまたすぐガンができるのは
身体全体がガン畑になっているからである」
|
◎ 今日本の国は国全体が「ガンの竹やぶ」「ガン畑」
□性の乱れ
女子の乱れ方が目立つ
□青少年非行
坂口拓史(青少年非行防止問題研究所主宰)
『万引き』(図書刊行会)日本の万引き人口は一千万人超
|
こういう病状の中に日本の青少年 - 汚染
□生命力の衰弱
登校拒否症
共通点 = 内気でおとなしい神経質でわがまま
(次の傾向が多い)
・算数体育が嫌いでクラブ活動や学級活動・生徒会活動などを敬遠する
・友達が少なく中学生では殆どが「ひとりぼっち」
・母親が教育一手 - 父親放任
母親(小)場当たり的で一貫性がない
(中)猫かわいがり
大学生
「騒がない」「しゃべらない」「質問しない」
「読まない」「書かない」「知ろうとしない」
無気力現象
日体大体育研究所長 正木建雄教授
・防衛反射能力・基礎的能力に異常が目立つ
・顔・頭のけがが増えている、骨折増、高血圧
・背筋、土踏まず
↑
◎ 悪魔のような原爆さえ破壊しきれなかった民族の生命力が内部崩壊
◇歩んだ道への疑い
□教育においてはものの貧しさよりも豊かさの方が恐ろしい
便利なもの
人間の欲望を充たしてくれそうなもの
→ 人間を駄目にする危険性
□都会とは
… それらが競争のように手練手管の限りをつくして人間を誘惑しよう
としあっているところ
□高坂堯雄(京都大学)『文明の衰亡するとき』(新潮選書)
「繁栄は衰亡の本質を熟成する」
◎ 繁栄が日本全体を「ガンの竹やぶ」「ガン畑」にしてしまった。
◎ 一番抵抗力の弱い青少年が、子供たちがその魔力にやられてしまっている
= 今日の青少年問題
∥
先進国諸国ほど青少年問題が深刻化
「三方原の戦い」小和田哲男 学研M文庫 2000年 ④(最終) /「志」について 鍵山秀三郎 ② (出典不明) 【再掲載 2016.8】 [読書記録 歴史]
今回は、5月28日に続いて小和田哲男さんの
「三方原の戦い」の紹介4回目 最終です。
出版社の案内には、
「元亀三年十月、甲府に発った二万五千の武田軍は、遠江の三方ヶ原の
戦いで徳川家康を撃破し、そのすごさを天下に知らしめた。この遠征
を真の目的とはいったい何だったのか?はたして信玄に天下盗りの野
望はあったのか?戦国史研究の第一人者が、豊富な資料を駆使して三
方ヶ原までの道程を詳しく分析しつつ、緻密な推理で“戦国史の謎”
に迫る。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は‥
・「信玄の、家康を浜松城からおびき出す作戦が『三方原の戦い』
家康は信玄の挑発に乗ってしまった。」
・「『犬のような』と表現される滅私奉公の論理に裏付けられた三河武士
の忠誠心により家康は命拾いした。」
・「信玄の死に救われた信長と家康」
もう一つ、再掲載となりますが、鍵山秀三郎さんの
「志について」②を載せます。
中学生に向けての講演会の内容の一部ですが、
大人のわたしの心にも大きく響きました。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。

<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「三方原の戦い」小和田哲男 学研M文庫 2000年 ④(最終)

◇おびき出された家康
信玄方
25000
家康方
8000 + 3000(信長援軍)=11000
|
◎「兵多きが勝つ」兵法の原則
信玄の「家康を浜松城からおびき出す」作戦 = 三方原の戦い
~ 家康は信玄の挑発に乗ってしまった ~
◇戦いは石合戦で始まった
三方原に信玄軍が待ちかまえていた
5時頃から戦が始まった
|
「八備」崩され総退却
家臣が家康の身代わりになり死んでいき命からがら浜松城に逃げ帰る
夏目吉信
家康の身代わりに
布橋一丁目に碑
松井(鎧)
鈴木久三郎(采配)
∥
◎「犬のような」と表現される三河武士の忠誠心
|
◎ 滅私奉公の論理に裏付けられた三河武士の忠誠心により家康
は命拾い
↓
◎ 家康にとり譜代家臣は宝
|
◎ 途方に暮れ呆然とした姿を絵師に描かせ、それを常に身の回
りに置いていた
~ 徳川美術館の家康画像
|
自分が慢心しそうになるとこの絵を取り出してながめ、苦しか
った頃のことを思い出していた
∥
◎ 失敗の経験をプラスに転化
◇「空城の計」は史実か?
信長援軍の将・平手汎秀
道に迷い、稲場で討たれる
- 石碑と墓
信長援軍の将・佐久間信盛
戦線離脱
→ 味方を見殺し のち信長により追放される
◎ 一人の人間の生死を度外視して、「家」の存続と発展という面から
考えると、戦場で死ぬというのは最大の名誉であり、家名存続の方
法であった。
↓
◎ 生き恥をさらすな
→ 日本の軍隊に
逃げる家康の後を山県昌景と馬場信房らの隊が追撃
|
帰城
→ 城門を開け放ちかがり火を焚くよう命じる
◎ 城内で太鼓「酒井の太鼓」(歌舞伎)
- 史実ではない
→ 家康の神格化
◎ 逃げ帰ってくる将兵が後を絶たず、収容する必要から
◇犀ヶ崖の夜襲
「浜松御在城記」
大久保忠世と天野康景の二人
当時 深さ10m 幅4~5mの崖
鉄砲をかき集め、100騎ほどで奇襲を掛けた 12月22日
→ 逃げ場を失いたくさんの武田軍が落ちて死んだ
|
浜松城側に橋を渡り追い返されるときは橋をとられていたため落ちて
しまった
- 夜襲は史実
◇信玄の死に救われた信長と家康
刑部で越年する信玄
三方原の戦い 元亀3(1572)年12月22日
午後5時~夜半 徳川方大敗
武田信玄 首実検
23日朝 犀ヶ崖北方の本陣で
1000余りの首をとる
刑部(細江町中川)で陣
通称刑部に刑部砦 砦跡 3陣
元亀3(1572)年12月22日
~ 元亀4(1573)年1月3日
→ 信玄の病気が悪化
◇野田城の戦い
刑部 → 野田城
◇信州駒場で死去
信玄の死とその影響
死は3年間秘密に
→ 室町幕府の滅亡に
☆「志」について 鍵山秀三郎 ② (出典不明) 【再掲載 2016.8】
◇「三つの幸せ」について
人間は一人の例外もなく、幸せに生きたいという願望を持っています。
しかし、どうしたら幸せな生き方ができるのか。具体的にわからない
人も多いのではないかと思います。
そこで、私がGLAの高橋佳子先生から教わった「三つの幸せ」をご
紹介します。
幸せな生き方をするための参考にしてください。
幸せには三つあるといわれます。
一つ目の幸せは、してもらう幸せです。
皆さんが赤ちゃんのとき、お腹が空いたといっては泣き、オムツが濡
れたといっては泣きました。
するとお母さんが飛んできて、おっぱいを欧ませてくれたり、オムツ
を替えてくれましたね。
そのとき皆さんは幸せでした。
これが「してもらう幸せ」です。
二つ目は、自分でできるようになった幸せです。
字が書けるようになった。一人で自転車に乗れるようになった。サッ
カーがうまくなった。
これが「できる幸せ」です。
何でも自分でできるようになると、偉くなった気がして嬉しいもので
す。
でも、その次の幸せがあります。それが、「人にしてあげる幸せ」で
す。
人がしてほしいことをしてあげれば喜ばれますね。そんな人は頼り
にされます。
人に物を差し上げる、自分の身体と時間を使って何かして差し上げ
る、相手の喜こぶして相手の喜びをわが喜びとする。
この幸せを大事にしていただきたいの「してあげる幸せ」は三つの
幸せのなかでも最高の幸せです。
さあ、皆さんも「してもらう幸せ」から「できる幸せ」へと進み、
そして「してあげる幸せ」を味わえる人になってください。
「三方原の戦い」の紹介4回目 最終です。
出版社の案内には、
「元亀三年十月、甲府に発った二万五千の武田軍は、遠江の三方ヶ原の
戦いで徳川家康を撃破し、そのすごさを天下に知らしめた。この遠征
を真の目的とはいったい何だったのか?はたして信玄に天下盗りの野
望はあったのか?戦国史研究の第一人者が、豊富な資料を駆使して三
方ヶ原までの道程を詳しく分析しつつ、緻密な推理で“戦国史の謎”
に迫る。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は‥
・「信玄の、家康を浜松城からおびき出す作戦が『三方原の戦い』
家康は信玄の挑発に乗ってしまった。」
・「『犬のような』と表現される滅私奉公の論理に裏付けられた三河武士
の忠誠心により家康は命拾いした。」
・「信玄の死に救われた信長と家康」
もう一つ、再掲載となりますが、鍵山秀三郎さんの
「志について」②を載せます。
中学生に向けての講演会の内容の一部ですが、
大人のわたしの心にも大きく響きました。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。

<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「三方原の戦い」小和田哲男 学研M文庫 2000年 ④(最終)

◇おびき出された家康
信玄方
25000
家康方
8000 + 3000(信長援軍)=11000
|
◎「兵多きが勝つ」兵法の原則
信玄の「家康を浜松城からおびき出す」作戦 = 三方原の戦い
~ 家康は信玄の挑発に乗ってしまった ~
◇戦いは石合戦で始まった
三方原に信玄軍が待ちかまえていた
5時頃から戦が始まった
|
「八備」崩され総退却
家臣が家康の身代わりになり死んでいき命からがら浜松城に逃げ帰る
夏目吉信
家康の身代わりに
布橋一丁目に碑
松井(鎧)
鈴木久三郎(采配)
∥
◎「犬のような」と表現される三河武士の忠誠心
|
◎ 滅私奉公の論理に裏付けられた三河武士の忠誠心により家康
は命拾い
↓
◎ 家康にとり譜代家臣は宝
|
◎ 途方に暮れ呆然とした姿を絵師に描かせ、それを常に身の回
りに置いていた
~ 徳川美術館の家康画像
|
自分が慢心しそうになるとこの絵を取り出してながめ、苦しか
った頃のことを思い出していた
∥
◎ 失敗の経験をプラスに転化
◇「空城の計」は史実か?
信長援軍の将・平手汎秀
道に迷い、稲場で討たれる
- 石碑と墓
信長援軍の将・佐久間信盛
戦線離脱
→ 味方を見殺し のち信長により追放される
◎ 一人の人間の生死を度外視して、「家」の存続と発展という面から
考えると、戦場で死ぬというのは最大の名誉であり、家名存続の方
法であった。
↓
◎ 生き恥をさらすな
→ 日本の軍隊に
逃げる家康の後を山県昌景と馬場信房らの隊が追撃
|
帰城
→ 城門を開け放ちかがり火を焚くよう命じる
◎ 城内で太鼓「酒井の太鼓」(歌舞伎)
- 史実ではない
→ 家康の神格化
◎ 逃げ帰ってくる将兵が後を絶たず、収容する必要から
◇犀ヶ崖の夜襲
「浜松御在城記」
大久保忠世と天野康景の二人
当時 深さ10m 幅4~5mの崖
鉄砲をかき集め、100騎ほどで奇襲を掛けた 12月22日
→ 逃げ場を失いたくさんの武田軍が落ちて死んだ
|
浜松城側に橋を渡り追い返されるときは橋をとられていたため落ちて
しまった
- 夜襲は史実
◇信玄の死に救われた信長と家康
刑部で越年する信玄
三方原の戦い 元亀3(1572)年12月22日
午後5時~夜半 徳川方大敗
武田信玄 首実検
23日朝 犀ヶ崖北方の本陣で
1000余りの首をとる
刑部(細江町中川)で陣
通称刑部に刑部砦 砦跡 3陣
元亀3(1572)年12月22日
~ 元亀4(1573)年1月3日
→ 信玄の病気が悪化
◇野田城の戦い
刑部 → 野田城
◇信州駒場で死去
信玄の死とその影響
死は3年間秘密に
→ 室町幕府の滅亡に
☆「志」について 鍵山秀三郎 ② (出典不明) 【再掲載 2016.8】
◇「三つの幸せ」について
人間は一人の例外もなく、幸せに生きたいという願望を持っています。
しかし、どうしたら幸せな生き方ができるのか。具体的にわからない
人も多いのではないかと思います。
そこで、私がGLAの高橋佳子先生から教わった「三つの幸せ」をご
紹介します。
幸せな生き方をするための参考にしてください。
幸せには三つあるといわれます。
一つ目の幸せは、してもらう幸せです。
皆さんが赤ちゃんのとき、お腹が空いたといっては泣き、オムツが濡
れたといっては泣きました。
するとお母さんが飛んできて、おっぱいを欧ませてくれたり、オムツ
を替えてくれましたね。
そのとき皆さんは幸せでした。
これが「してもらう幸せ」です。
二つ目は、自分でできるようになった幸せです。
字が書けるようになった。一人で自転車に乗れるようになった。サッ
カーがうまくなった。
これが「できる幸せ」です。
何でも自分でできるようになると、偉くなった気がして嬉しいもので
す。
でも、その次の幸せがあります。それが、「人にしてあげる幸せ」で
す。
人がしてほしいことをしてあげれば喜ばれますね。そんな人は頼り
にされます。
人に物を差し上げる、自分の身体と時間を使って何かして差し上げ
る、相手の喜こぶして相手の喜びをわが喜びとする。
この幸せを大事にしていただきたいの「してあげる幸せ」は三つの
幸せのなかでも最高の幸せです。
さあ、皆さんも「してもらう幸せ」から「できる幸せ」へと進み、
そして「してあげる幸せ」を味わえる人になってください。