今回は わたしの好きなラジオ番組
「ラジオ深夜便」に寄稿された「こころのエッセー」から
須藤叔彦さんの「いじめ」を紹介します

いじめ 戦前にも もちろん あったのです
大きく 伝わってくるものがあります
いじめ なくさなくてはなりません
弱い者いじめ なくさなくてはなりません
皆が 努力しなければ…




「宇宙人ポール」
昨日 豊橋まで出掛けて 観てきました
予告編で おもしろそうだと思って行ったのですが
予想に違わず わたしには 楽しめる映画でした

スリル ユーモア 感動 いろいろなものが詰まっていました
子どもと一緒に観るには 少し下品すぎると思うのですが…

浜松では 1月21日(土)より
シネマイーラで公開されます
もう一度観に行こうと思います

※CINEMAe_ra    http://cinemae-ra.jp/






☆「いじめ」 須藤叔彦さん(群馬県前橋市77歳) (第2回 ラジオ深夜便 こころのエッセーより) 2007年



 昭和18年9月、旧制中学2年生の2学期から、私は父親の転任で
長崎の私立K中学に転校した。

 まもなく、毛色の違う新入りの私は同級生からいじめの対象とさ
れた。金品を強要する。断れば殴る。弁当を取り上げられるのは、
食糧難の時代だけに深刻な問題だった。

 悪質ないたずらも多かったが、それを教師に告げれば、あとで暴
力の仕返しが待っていた。


 私は幼児期に小児マヒを患い、左脚を引きずって歩いており、悪
童どものいじめの餌食としては恰好であった。
 私の歩く姿をまねては満座を笑わせる。いじめる側には罪悪感は
なかったかもしれないが、いじめられる側の苦痛は煉獄に落ちたも
同様であった。

 試験直前になると、「ノートを貸せ」と強要される。

 自分たちは授業中ノホホンとしてノートもとらない。熱心かつ入
念にとったノートを内心いやいやながらもいったん貸すと、もう戻
ってこない。

 何人かで回覧するから、どこかで紛失してしまう。時には書き写
すのが面倒とばかりに、重要と思われるページを破りとるしまつ。
私がなじると

「オレは知らん」
「オレも知らん」

とシラを切り、無責任な返事が返ってくるだけである。それ以上追
及すれば、

「オレたちを泥棒呼ばわりするのか」

といきりたつ。

 次回から貸すのを拒否すると、さらに悪質ないやがらせが待って
いた。
 白シャツの背中にインキをかける、下駄箱から靴が片方なくなっ
ている、制帽から校章が引きちぎられている……。

 誰がしたか見当はつくが、証拠がない。
 実はボスは手を出さない。取り巻きの小物たちがボスに命じられ
るか、またはその歓心を買うために自発的に行う。

 被害者の私は追及ができず、泣き寝入りせざるを得なかった。見
ていた友人も復讐を恐れてロをつぐんでいる。

 耐えかねた私は、ある日担任に直訴した。先生がクラス全員に聞い
てみたが、誰もがロをつぐみ沈黙するのみだった。


 翌年4月の新学期、3年生になって組み替えがあった。
 今度のクラスは比較的まじめでおとなしい生徒たちで私はホッとし
た。私がいじめられていたことを、先生たちもご存じだったのではな
いかと思われた。

 ところが間もないある日の放課後、私が校舎を出ようとして、前の
クラスの数人に行く手をさえぎられた。

 彼らの表情から、私はまた、いやがらせをされるなと直感した。

 その中のNという小柄な生徒が、わざと足を引きずり、私の歩き方
のまねをした。Nは大柄なMの子分であることを自認している軽薄
な男で、これまで散々私にいやがらせをしてきたいやなやつであった。

 数人がにやにやしながら、私を取り囲んだ。何かまた無理難題を仕
掛けられるなと私は覚悟していた。

 そこへクラス替えになって同じクラスになった山崎という生徒が近
づいてきた。彼は成績はあまり芳しくないが、細身で背が高くけんか
が強いので有名な男であった。
 顔つきも精悍で少しすごみがあり、みんなから恐れられていた。
 一年落第して、歳は私たちよりも一つ上だった。私は彼とはまだ一
度もロをきいたことはなかった。

 とっさに私は彼も仲間に加わって私をいじめる気だなと思った。

 ところが、彼はみんなの前まで来ると言った。

「お前ら、なんばしよっとか」

「うん、ちょっとこいつに用があると」

 Nが例の調子で軽く答えた。

「何の用ね」

 山崎は育った。

「うん、ちょっと……」

「ちょっと、何ね?」

 Nが口ごもったとき、山崎はやにわにNのほおを平手でたたいた。

「ビシャッ」

と一瞬、大きな音がした。

 予期しなかったのでみんなびっくりした。実は私自身も驚いた。
 山崎の強さをみんな知っているので、刃向かっていく者は誰もいな
かった。

「お前ら、体の不自由か者をからかって、そげん楽しかとか?」

 彼は言った。だれもが無言だった。

 山崎は私の方を見て言った。

「よか。早う帰れ」

 私は彼に一礼し、足を引きずりながらその場を去った。いつの間に
か人だかりがして、たくさんの生徒が黙って見ていた。同級生はもち
ろん、上級生も下級生も。

 それ以後、私へのいじめはピタリとやんだ。

 もう私の歩き方をまねする者は一人もいなくなった。

 それから間もなく、山崎は予科練(海軍飛行予科練習生)に志願し
て学校を去った。

 昭和19年6月1日、私たち3年生以上の在校生は、学徒動員で市
内の軍需工場で働かされ、学校は事実上閉鎖された。

 翌年8月9日、長崎上空に原爆が炸裂して、長崎は廃墟となった。

 8月15日、戦争は日本の敗戦で終わった。犠牲者や軍隊から復員
してきた若者たちの消息も、次第に判明した。

 だが、山崎の消息だけは、誰に聞いてもいまだにわからない。