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「二つの憲法」井上ひさし 岩波ブックレット№812 2011年 ② /「土のいろ」集成 第十一巻 101~106号(後半)【再掲載 2017.1】 [読書記録 一般]
今日は12月3日、火曜日です。
今回は、11月21日に続いて、井上ひさしさんの
「二つの憲法」の紹介 2回目です。
出版社の案内には、
「近代日本とともに誕生した明治期の大日本帝国憲法。戦後、その帝国
憲法を改正して発布された現在の日本国憲法。この二つの憲法はいか
に生まれ、育ち、受けとめられ、議論されてきたのか。何が変わり、
また変わらなかったのか。そもそも憲法って何なんだろうか。
作家井上ひさしがやさしく語る、日本の憲法今むかし。」
とあります。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「伊藤博文は『我が国において基軸にすべきは、ひとり皇室あるのみ』
だから皇室を宗教にするしかないと考え、博文は皇室を宗教としよ
うと決心して草案を作った」
・「大日本帝国憲法の『第二章 臣民権利義務』には、権利については
全部に但し書きがある。民権を表に出しているがすべて制限されて
いる」
・「吉野作造の論文-『見せかけの立憲君主制を中身のあるものにする
ためには国民が勉強して知識道徳のレベルが高くならないといけな
い』大正5(1916)年『中央公論』1月号」
もう一つ、再掲載になりますが、
「土のいろ」集成 第11巻101~106号(後半)を載せます。
☆「二つの憲法」井上ひさし 岩波ブックレット№812 2011年 ②
2 大日本帝国憲法ができるまで
明治維新
宮島誠一郎(左院の小議官儀制課長)の「立国憲議」
「我が国はずっと君主独裁であり、そして人民は○○であ
る」
君主独裁が基本
= 立法府の考え 左院(板垣、西郷、後藤)
宮島「立国憲議」を
1881(明14) 岩倉具視に提出
1883(明治16)伊藤博文に提出
元老院に対する勅語
「建国ノ体ニ基キ」「広ク海外各国ノ成法ヲ斟酌シ」
① 黒田清隆
絶対君主制でいい
② 大隈重信ら
妥協しながら憲法を作り後に立憲君主制に転換
③ 伊藤、井上毅ら
立憲君主制の形をとり内容は絶対君主制
伊藤博文の憲法調査
明治14年(1811)植木枝盛「日本国国憲集」
人権宣言そのものの平等思想
金子堅太郎「伊藤公を語る」
国体は?
伊藤博文
「枢密における憲法制定の根本精神についての○○」
「我が国において基軸にすべきは、ひとり皇室あるのみ」
→ 皇室を宗教にするしかない!
◎ 近代日本はオウム真理教だったのではないか
|
博文は皇室を宗教としようと決心して草案を作った
草案の中身は君権を基軸
「大日本帝国憲法」発布
明治22(1899)年2月11日発布 「やまと新聞」付録
◎「読本憲法の百年」作品社 全三巻
第一章 天皇
天皇の大権多数 - 君権基軸
第二章 臣民権利義務
権利については全部に但し書き
民権を表に出しているがすべて制限されている
第三章 帝国議会
三権分立せず天皇一人にすべての権力が集中
= 絶対君主制
田中正造の質問趣意書
明治34(1901)年3.24 演説
吉野作造の論文
大正5(1916)年「中央公論」1月号
「見せかけの立憲君主制を中身のあるものにするためには
国民が勉強して知識道徳のレベルが高くならないといけ
ない」
まとめ
大切 フランス革命「人権宣言」第16条
◎ 近代憲法は「国民の権利の保障」と「権力の分立の確
保」が明記されていなければいけない。個人の尊厳が守
られないときは、実力行使による抵抗権がある
伊藤
「仏教でも神道でもない、天皇自体を神さまにし、宗教に
して国の憲法をつくっていこう」
天皇
= 生き神様
制限付きの国民の権利
(天皇が作った法律の範囲で)
= 形骸化した立憲君主制
吉野作造
「国民が勉強して知識道徳のレベルを高め、実のある
立憲君主制に変更していこう」という考え方が表れ
ている
☆「土のいろ」集成 第十一巻 101~106号(後半)【再掲載 2017.1】
◇復刊第23号 通刊106号 昭和39年5月
□「麁玉」「伎部」私考(1) 山口直蔵
麁玉川
「和名抄」937年
麁玉郡中の郷名
三宅・碧田・赤狭・霜田
豊田郡 長上郡
内山真龍
「遠江国風土記伝」(1799年完成)
浜北市宮口付近に池 - ここから発する麁玉河が
積志村を貫通して市街地の東と芳川に
「大池」有宮口南。囲凡十五町。今有玉川源地
◎麁玉河は現天龍川と断定したい
-「更級日記」1059年「天ちう」
真淵 「天の中川」
天龍川
~ かつては小さい幾条かの川の集合したものか?
嘉応3年には「天龍川」
この川を統合した名前?
源光行「海道記」には天龍川が天中川とある
「続日本紀」
霊亀元年五月遠江国地震山崩麁玉河水為不流潰没
敷知・長下・石田三郷 715年
長下は709年長田郡を長上郡と長下郡に二分
□伎部 古語の上で「伎」 城・柵・綺
東国は遠江より以東
(大化の改新)
源平
鎌倉時代まで館の形
関東
早くから仏教と高麗・百済人を多量に移して文化と宗教を植え続け
ている
古代の為政者は平和を理想として文化国家に基盤をおいた政治
= 武力的な威圧はない 仏法による統治
◎ 理想政治 城の必要をいれていない
諸国には常備兵はいなかった
九州・奥羽地方の整備以外は城がなかった
□やいかがしもそうそう 川見駒太郎
やいかがし(焼嗅)
= 節分の夜,鰯の頭,葱などを焼いて串に刺し戸口や窓の外
側にさすこと
= 追儺式,おにやらい
~ やいかがしの転化が「かかし」
□参遠ところどころ 須藤功
□大手前から成子坂まで 須部弥一郎
駅前
大米屋旅館 花屋旅館 池谷鰻店
遠州銀行(当時西遠銀行)
山葉オルガン工場
大安寺下
市川写真館 - 瀬堂凧店
肴町
松作商店・間淵屋酒店・植村屋紙店・澤木麻店
名物 = 長谷川餅
鍛冶町通り
丸八陶器店
◎ 「遠州浜松広いようで狭い。横に車が二丁立たぬ」
鍛治町北側
小松屋・国領屋の商人宿
金井屋呉服店 丸三洋品店
木吉屋商店 ~ 浜松隋一の金融業 - 借家千軒
殿岡 ぬいや 新若森-下駄店 松月菓子店
都築商店 豊富な青果店
□郵便こぼれ話 鈴木犀十郎
□庚申講偶感 袴田鷹邨
今回は、11月21日に続いて、井上ひさしさんの
「二つの憲法」の紹介 2回目です。
出版社の案内には、
「近代日本とともに誕生した明治期の大日本帝国憲法。戦後、その帝国
憲法を改正して発布された現在の日本国憲法。この二つの憲法はいか
に生まれ、育ち、受けとめられ、議論されてきたのか。何が変わり、
また変わらなかったのか。そもそも憲法って何なんだろうか。
作家井上ひさしがやさしく語る、日本の憲法今むかし。」
とあります。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「伊藤博文は『我が国において基軸にすべきは、ひとり皇室あるのみ』
だから皇室を宗教にするしかないと考え、博文は皇室を宗教としよ
うと決心して草案を作った」
・「大日本帝国憲法の『第二章 臣民権利義務』には、権利については
全部に但し書きがある。民権を表に出しているがすべて制限されて
いる」
・「吉野作造の論文-『見せかけの立憲君主制を中身のあるものにする
ためには国民が勉強して知識道徳のレベルが高くならないといけな
い』大正5(1916)年『中央公論』1月号」
もう一つ、再掲載になりますが、
「土のいろ」集成 第11巻101~106号(後半)を載せます。
☆「二つの憲法」井上ひさし 岩波ブックレット№812 2011年 ②
2 大日本帝国憲法ができるまで
明治維新
宮島誠一郎(左院の小議官儀制課長)の「立国憲議」
「我が国はずっと君主独裁であり、そして人民は○○であ
る」
君主独裁が基本
= 立法府の考え 左院(板垣、西郷、後藤)
宮島「立国憲議」を
1881(明14) 岩倉具視に提出
1883(明治16)伊藤博文に提出
元老院に対する勅語
「建国ノ体ニ基キ」「広ク海外各国ノ成法ヲ斟酌シ」
① 黒田清隆
絶対君主制でいい
② 大隈重信ら
妥協しながら憲法を作り後に立憲君主制に転換
③ 伊藤、井上毅ら
立憲君主制の形をとり内容は絶対君主制
伊藤博文の憲法調査
明治14年(1811)植木枝盛「日本国国憲集」
人権宣言そのものの平等思想
金子堅太郎「伊藤公を語る」
国体は?
伊藤博文
「枢密における憲法制定の根本精神についての○○」
「我が国において基軸にすべきは、ひとり皇室あるのみ」
→ 皇室を宗教にするしかない!
◎ 近代日本はオウム真理教だったのではないか
|
博文は皇室を宗教としようと決心して草案を作った
草案の中身は君権を基軸
「大日本帝国憲法」発布
明治22(1899)年2月11日発布 「やまと新聞」付録
◎「読本憲法の百年」作品社 全三巻
第一章 天皇
天皇の大権多数 - 君権基軸
第二章 臣民権利義務
権利については全部に但し書き
民権を表に出しているがすべて制限されている
第三章 帝国議会
三権分立せず天皇一人にすべての権力が集中
= 絶対君主制
田中正造の質問趣意書
明治34(1901)年3.24 演説
吉野作造の論文
大正5(1916)年「中央公論」1月号
「見せかけの立憲君主制を中身のあるものにするためには
国民が勉強して知識道徳のレベルが高くならないといけ
ない」
まとめ
大切 フランス革命「人権宣言」第16条
◎ 近代憲法は「国民の権利の保障」と「権力の分立の確
保」が明記されていなければいけない。個人の尊厳が守
られないときは、実力行使による抵抗権がある
伊藤
「仏教でも神道でもない、天皇自体を神さまにし、宗教に
して国の憲法をつくっていこう」
天皇
= 生き神様
制限付きの国民の権利
(天皇が作った法律の範囲で)
= 形骸化した立憲君主制
吉野作造
「国民が勉強して知識道徳のレベルを高め、実のある
立憲君主制に変更していこう」という考え方が表れ
ている
☆「土のいろ」集成 第十一巻 101~106号(後半)【再掲載 2017.1】
◇復刊第23号 通刊106号 昭和39年5月
□「麁玉」「伎部」私考(1) 山口直蔵
麁玉川
「和名抄」937年
麁玉郡中の郷名
三宅・碧田・赤狭・霜田
豊田郡 長上郡
内山真龍
「遠江国風土記伝」(1799年完成)
浜北市宮口付近に池 - ここから発する麁玉河が
積志村を貫通して市街地の東と芳川に
「大池」有宮口南。囲凡十五町。今有玉川源地
◎麁玉河は現天龍川と断定したい
-「更級日記」1059年「天ちう」
真淵 「天の中川」
天龍川
~ かつては小さい幾条かの川の集合したものか?
嘉応3年には「天龍川」
この川を統合した名前?
源光行「海道記」には天龍川が天中川とある
「続日本紀」
霊亀元年五月遠江国地震山崩麁玉河水為不流潰没
敷知・長下・石田三郷 715年
長下は709年長田郡を長上郡と長下郡に二分
□伎部 古語の上で「伎」 城・柵・綺
東国は遠江より以東
(大化の改新)
源平
鎌倉時代まで館の形
関東
早くから仏教と高麗・百済人を多量に移して文化と宗教を植え続け
ている
古代の為政者は平和を理想として文化国家に基盤をおいた政治
= 武力的な威圧はない 仏法による統治
◎ 理想政治 城の必要をいれていない
諸国には常備兵はいなかった
九州・奥羽地方の整備以外は城がなかった
□やいかがしもそうそう 川見駒太郎
やいかがし(焼嗅)
= 節分の夜,鰯の頭,葱などを焼いて串に刺し戸口や窓の外
側にさすこと
= 追儺式,おにやらい
~ やいかがしの転化が「かかし」
□参遠ところどころ 須藤功
□大手前から成子坂まで 須部弥一郎
駅前
大米屋旅館 花屋旅館 池谷鰻店
遠州銀行(当時西遠銀行)
山葉オルガン工場
大安寺下
市川写真館 - 瀬堂凧店
肴町
松作商店・間淵屋酒店・植村屋紙店・澤木麻店
名物 = 長谷川餅
鍛冶町通り
丸八陶器店
◎ 「遠州浜松広いようで狭い。横に車が二丁立たぬ」
鍛治町北側
小松屋・国領屋の商人宿
金井屋呉服店 丸三洋品店
木吉屋商店 ~ 浜松隋一の金融業 - 借家千軒
殿岡 ぬいや 新若森-下駄店 松月菓子店
都築商店 豊富な青果店
□郵便こぼれ話 鈴木犀十郎
□庚申講偶感 袴田鷹邨
「責めず比べず思い出さず」高田明和 コスモ21 2011年 (後) /「一人恐怖に強迫される若者たち-彼らは,ケータイを介して常時接続しあい,互いの存在を確認しあっている」 土井隆義 筑波大学大学院人文社会科学研突科教授 『月刊少年育成』2009.2③【再掲載 2016.7】 [読書記録 一般]
今日は12月2日、月曜日です。
今回は、11月22日に続き、高田明和さんの
「責めず、比べず、思い出さず」2回目(後)の紹介です。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「責めず、比べず、思い出さず」
・「困ったことは起こらない。すべてはよくなる。嫌な過去は思い出さ
ない、考えない。」
・「呼吸だけが自分の意志で変えられる。ゆっくり呼吸しよう。」
もう一つ、再掲載になりますが、土井隆義さんの
「一人恐怖に強迫される若者たち」③を載せます。
ケータイがスマホに変わりSNSが広がってからも、
この傾向はさらに強まっているようにわたしは感じます。
☆「責めず比べず思い出さず」高田明和 コスモ21 2011年 (後)
◇幸せになれる「プラスの言葉遣い」
いろいろな脳の働き
ミラー細胞の不思議
相手の行為と同じものを写す
~ ミラー
ミラー細胞の活動で意識が変わる
ミラー細胞は人の影響を受けたり、与えたりする細胞
脳科学で解明された言葉と脳の関係
なぜよい言葉が必要なのか
→ ドーパミン エンドルフィン
(1)責めず、比べず、思い出さず
堀口大学「座右銘」
-「暮らしは分が大事です 気楽が何より薬です」
= とにかく思い出さない
(2)困ったことは起こらない
(3)すべてはよくなる
(4)嫌な過去は思い出さない、考えない
山田無文老師
「良いことも悪いことも考えないようにしよう」
(5)困難は悪魔の嫉妬-後で大きな幸運に恵まれる
(6)念を継がない
- 何かを思って発展させない
(7)陰徳は耳鳴りの如し
- 人の知らないところで功徳を!
[徳を積む]+[特を損なわない]
功徳は人の為ではない
(8)一寸の線香 一寸の仏
一体
「一寸の線香 一寸の仏
寸寸積みなす 丈六の仏
三十二相 六十種
自然に荘厳す 本来の人」
天龍寺241世・関牧翁老師
「苦しいことは早く飛び込めば早く抜けられる」
◇呼吸を変えるだけで心の平安と健康が得られる
呼吸を変えると癒やされ苦しまないで生きられる
自分の意志ではどうにもならない自律神経
◎ 呼吸だけが自分の意志で変えられる
ゆっくり呼吸しよう
呼吸はあなたの「気」を鍛える
気を極めた山岡鉄船の話
呼吸はできるだけ長くすることが大切
吐く息は長く吸う息は軽く
呼吸法の実践 まずは瞑想から
体感覚心法を詳しく観察し悩みや苦しみを減らす
- ヴィパッサナーの瞑想法
悩みや苦しみを減らすヴィパッサナーの瞑想法
身念処
→ 自分の体の部分に注意
→ 自己報告
例 : 「今右手がある」「今左手がある」
◎ 体を動かし自己報告していると他のことを考えな
くなる。また、感覚も鋭くなる。無明は馬鹿ともい
えるのかもしれない。考えるから馬鹿になる。
考えることが煩悩になる
四念処
→ [体][感覚][心][宇宙の真理]に目を向ける
禅の呼吸法も「考えない」工夫
「む-」「む-」
この呼吸法で「無」の境地に
◇座禅で「無の境地」になり本来の能力に目覚める
座禅の目的は「考えない」こと
ものすごい座禅の威力
座禅で本来の能力が全開する
線香一本分座禅
三昧
般若心経と観音経
☆「一人恐怖に強迫される若者たち-彼らは,ケータイを介して常時接続しあい,互いの存在を確認しあっている」 土井隆義 筑波大学大学院人文社会科学研突科教授 『月刊少年育成』2009.2③【再掲載 2016.7】
3.同質的な仲間で閉じた世界
多様性の時代には、あらゆる価値項目が等価に並び、従来のような序
列性が失われる。
知識や能力にも明確な優劣の基準が見出せないから、自己に評価を下
す相手は、超越的な他者ではなく、自分と対等な他者になる。
仲間集団からは階層性が失われ、若者たちは互いに対等な立場で評価
を下しあおうとする。
「上から目線」を彼らが極端に嫌悪するのもそのためだろう。
また、仲間内の評価だけではなく、大人から受ける評価についても、
メンタルには対等な他者からのものと感受されるようになる。
こうして、たとえば学校においても、教師と生徒は対等だという意識
が広まっていく。
この地平に、抑圧的な大人という敵はもはや存在しえない。
若者たちのあいだに共通の敵が想定されていれば、彼らの関心の眼差
しはみな一様にそちらへ向けられるから、自分たちの人間関係のあり方
それ自体がクローズアップされることはさほど多くない。
しかし、そのような共通の敵を見失った世界では、その抑圧に対する
反動形成として共有された対抗文化もまた衰退していく。
かくして、若者たちのあいだに共通の関心事は成立しづらくなり、そ
の眼差しが注がれる対象も外部には見出せなくなっていく。
共有された眼差しの対象として最後に残されるのは、互いの関係性そ
れ自体である。
ところが、そこで営まれる関係性とは、自らの肯定感を維持していく
ために唯一の基盤となってくれるものである。
もはや一人で立つことが困難になった自分にとって唯一の支えとなっ
てくれるものである。
だから、そこでは、できるだけ自己承認を得やすい同質的な他者が求
められがちになってしまう。
前回も指摘したように、あらかじめ客観的な評価の物差しがそこに存
在するわけではなく、他者がどのような反応を示すかは前もって予想し
づらいから、人間関係にも安全パイが求められ、できるだけ同質の人間
だけと結びつこうとするのである。
他方、異質な人間とは、適度な距離をもって付き合ったり、あるいは
対決を試みたりするのではなく、そもそも最初から認識対象の圏外へと
押し出してしまおうとする。
自分の内部に確固たる肯定感の基盤があって自己が安定していれば、
異質な人間とも接触を保ちつづけ、場合によっては対立を表明すること
もできよう。
しかし、いまはその基盤を自分の内部にもちえず、入閣関係に対して
依存的になっているために、そこに立ち現われる異質な他者は、自己肯
定感の基盤を根底から揺さぶってしまうのである。
このような事情を鑑みれば、自分にとって異質な人間を認識の圏外へ
と追いやり、同質な相手だけと接続しあおうとする今日の若者たちの心
性は、一般によく言われるようなケータイの普及によって広まった現象
ではない。
しかし、そのような志向を示す人たちにとって、ケータイを端末とす
るネット環境が、きわめて好都合な世界であることは事実だろう。
ケータイのおかげで、いまや私たちは、いつどこにいても、自分が繋
がりたい相手だけと即座に繋がりあうことができるようになっているか
らである。
現在のようなネット環境がととのう以前は、時間と空間を隔てた相手
とコミュニケーションをとるための手段がかなり限られていた。
理想の相手と繋がりあうためには、自分にとって不都合な人間とのコ
ミュニケーションも途中で経由しなければならなかった。
たとえば、中学時代の私などは、ガールフレンドの自宅へ電話をかけ
るとき、
「あの怖そうな父親が出たらどうしよう」
と緊張しながらダイヤルを回したものである。
自分にとって心地よい人間関係を築くためには、同時に不都合な人間
とも否応なく付き合わざるをえなかった。
しかし、近年は、異質な人びとが時間と空間の制約を超えて、互いに
繋がりあうことを技術的に可能にしたネットという革新的なシステムが、
逆に、同質な人びとが時間と空間の制約を超えて、互いに繋がりあうこ
とを容易にする手段として、実質的には機能するようになっている。
ネット空間へと聞かれたケータイの小さな窓を覗き込むことで、面倒
で不都合な人間といっさい触れ合うことなく、自分にとって心地よい相
手だけと即座に人間関係を築くことができるようになっている。
たとえば、近年の若者たちのあいだでは、地元つながりによる人間関
係への依存が強まっている。
高校へ進学したり就職したりして生活圏が拡大し、雑多な人間と付き
合わざるをえなくなった場合でも、中学時代までの人間関係をそのまま
ずっと緊密に保ち、その地元つながりを中心に日常生活を営もうとする
傾向が強まっている。
時間や場所や相手の都合を気にせずに互いに繋がりあえるケータイ・
メールを駆使することで、それが実際に容易になっているのである。
では、ケータイという文明の利器を駆使することで、今日の若者たち
は一人恐怖から解放されているのだろうか。
前回も述べたように、けっしてそうではない。
同質な人間との常時接続を可能にしてくれるケータイは、一人恐怖を
解消してくれる便利なツールのように見えて、じつはそのように機能し
てはいない。
ケータイ自体はニュートラルな装置だから、使われ方しだいで、逆に
一人恐怖を煽るツールとしても機能しうる。
じっさい、秋葉原で事件を起こした青年にとって、ケータイは自己の
疎外感を強めるツールヘと変貌してしまっていた。
今回は、11月22日に続き、高田明和さんの
「責めず、比べず、思い出さず」2回目(後)の紹介です。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「責めず、比べず、思い出さず」
・「困ったことは起こらない。すべてはよくなる。嫌な過去は思い出さ
ない、考えない。」
・「呼吸だけが自分の意志で変えられる。ゆっくり呼吸しよう。」
もう一つ、再掲載になりますが、土井隆義さんの
「一人恐怖に強迫される若者たち」③を載せます。
ケータイがスマホに変わりSNSが広がってからも、
この傾向はさらに強まっているようにわたしは感じます。
☆「責めず比べず思い出さず」高田明和 コスモ21 2011年 (後)
◇幸せになれる「プラスの言葉遣い」
いろいろな脳の働き
ミラー細胞の不思議
相手の行為と同じものを写す
~ ミラー
ミラー細胞の活動で意識が変わる
ミラー細胞は人の影響を受けたり、与えたりする細胞
脳科学で解明された言葉と脳の関係
なぜよい言葉が必要なのか
→ ドーパミン エンドルフィン
(1)責めず、比べず、思い出さず
堀口大学「座右銘」
-「暮らしは分が大事です 気楽が何より薬です」
= とにかく思い出さない
(2)困ったことは起こらない
(3)すべてはよくなる
(4)嫌な過去は思い出さない、考えない
山田無文老師
「良いことも悪いことも考えないようにしよう」
(5)困難は悪魔の嫉妬-後で大きな幸運に恵まれる
(6)念を継がない
- 何かを思って発展させない
(7)陰徳は耳鳴りの如し
- 人の知らないところで功徳を!
[徳を積む]+[特を損なわない]
功徳は人の為ではない
(8)一寸の線香 一寸の仏
一体
「一寸の線香 一寸の仏
寸寸積みなす 丈六の仏
三十二相 六十種
自然に荘厳す 本来の人」
天龍寺241世・関牧翁老師
「苦しいことは早く飛び込めば早く抜けられる」
◇呼吸を変えるだけで心の平安と健康が得られる
呼吸を変えると癒やされ苦しまないで生きられる
自分の意志ではどうにもならない自律神経
◎ 呼吸だけが自分の意志で変えられる
ゆっくり呼吸しよう
呼吸はあなたの「気」を鍛える
気を極めた山岡鉄船の話
呼吸はできるだけ長くすることが大切
吐く息は長く吸う息は軽く
呼吸法の実践 まずは瞑想から
体感覚心法を詳しく観察し悩みや苦しみを減らす
- ヴィパッサナーの瞑想法
悩みや苦しみを減らすヴィパッサナーの瞑想法
身念処
→ 自分の体の部分に注意
→ 自己報告
例 : 「今右手がある」「今左手がある」
◎ 体を動かし自己報告していると他のことを考えな
くなる。また、感覚も鋭くなる。無明は馬鹿ともい
えるのかもしれない。考えるから馬鹿になる。
考えることが煩悩になる
四念処
→ [体][感覚][心][宇宙の真理]に目を向ける
禅の呼吸法も「考えない」工夫
「む-」「む-」
この呼吸法で「無」の境地に
◇座禅で「無の境地」になり本来の能力に目覚める
座禅の目的は「考えない」こと
ものすごい座禅の威力
座禅で本来の能力が全開する
線香一本分座禅
三昧
般若心経と観音経
☆「一人恐怖に強迫される若者たち-彼らは,ケータイを介して常時接続しあい,互いの存在を確認しあっている」 土井隆義 筑波大学大学院人文社会科学研突科教授 『月刊少年育成』2009.2③【再掲載 2016.7】
3.同質的な仲間で閉じた世界
多様性の時代には、あらゆる価値項目が等価に並び、従来のような序
列性が失われる。
知識や能力にも明確な優劣の基準が見出せないから、自己に評価を下
す相手は、超越的な他者ではなく、自分と対等な他者になる。
仲間集団からは階層性が失われ、若者たちは互いに対等な立場で評価
を下しあおうとする。
「上から目線」を彼らが極端に嫌悪するのもそのためだろう。
また、仲間内の評価だけではなく、大人から受ける評価についても、
メンタルには対等な他者からのものと感受されるようになる。
こうして、たとえば学校においても、教師と生徒は対等だという意識
が広まっていく。
この地平に、抑圧的な大人という敵はもはや存在しえない。
若者たちのあいだに共通の敵が想定されていれば、彼らの関心の眼差
しはみな一様にそちらへ向けられるから、自分たちの人間関係のあり方
それ自体がクローズアップされることはさほど多くない。
しかし、そのような共通の敵を見失った世界では、その抑圧に対する
反動形成として共有された対抗文化もまた衰退していく。
かくして、若者たちのあいだに共通の関心事は成立しづらくなり、そ
の眼差しが注がれる対象も外部には見出せなくなっていく。
共有された眼差しの対象として最後に残されるのは、互いの関係性そ
れ自体である。
ところが、そこで営まれる関係性とは、自らの肯定感を維持していく
ために唯一の基盤となってくれるものである。
もはや一人で立つことが困難になった自分にとって唯一の支えとなっ
てくれるものである。
だから、そこでは、できるだけ自己承認を得やすい同質的な他者が求
められがちになってしまう。
前回も指摘したように、あらかじめ客観的な評価の物差しがそこに存
在するわけではなく、他者がどのような反応を示すかは前もって予想し
づらいから、人間関係にも安全パイが求められ、できるだけ同質の人間
だけと結びつこうとするのである。
他方、異質な人間とは、適度な距離をもって付き合ったり、あるいは
対決を試みたりするのではなく、そもそも最初から認識対象の圏外へと
押し出してしまおうとする。
自分の内部に確固たる肯定感の基盤があって自己が安定していれば、
異質な人間とも接触を保ちつづけ、場合によっては対立を表明すること
もできよう。
しかし、いまはその基盤を自分の内部にもちえず、入閣関係に対して
依存的になっているために、そこに立ち現われる異質な他者は、自己肯
定感の基盤を根底から揺さぶってしまうのである。
このような事情を鑑みれば、自分にとって異質な人間を認識の圏外へ
と追いやり、同質な相手だけと接続しあおうとする今日の若者たちの心
性は、一般によく言われるようなケータイの普及によって広まった現象
ではない。
しかし、そのような志向を示す人たちにとって、ケータイを端末とす
るネット環境が、きわめて好都合な世界であることは事実だろう。
ケータイのおかげで、いまや私たちは、いつどこにいても、自分が繋
がりたい相手だけと即座に繋がりあうことができるようになっているか
らである。
現在のようなネット環境がととのう以前は、時間と空間を隔てた相手
とコミュニケーションをとるための手段がかなり限られていた。
理想の相手と繋がりあうためには、自分にとって不都合な人間とのコ
ミュニケーションも途中で経由しなければならなかった。
たとえば、中学時代の私などは、ガールフレンドの自宅へ電話をかけ
るとき、
「あの怖そうな父親が出たらどうしよう」
と緊張しながらダイヤルを回したものである。
自分にとって心地よい人間関係を築くためには、同時に不都合な人間
とも否応なく付き合わざるをえなかった。
しかし、近年は、異質な人びとが時間と空間の制約を超えて、互いに
繋がりあうことを技術的に可能にしたネットという革新的なシステムが、
逆に、同質な人びとが時間と空間の制約を超えて、互いに繋がりあうこ
とを容易にする手段として、実質的には機能するようになっている。
ネット空間へと聞かれたケータイの小さな窓を覗き込むことで、面倒
で不都合な人間といっさい触れ合うことなく、自分にとって心地よい相
手だけと即座に人間関係を築くことができるようになっている。
たとえば、近年の若者たちのあいだでは、地元つながりによる人間関
係への依存が強まっている。
高校へ進学したり就職したりして生活圏が拡大し、雑多な人間と付き
合わざるをえなくなった場合でも、中学時代までの人間関係をそのまま
ずっと緊密に保ち、その地元つながりを中心に日常生活を営もうとする
傾向が強まっている。
時間や場所や相手の都合を気にせずに互いに繋がりあえるケータイ・
メールを駆使することで、それが実際に容易になっているのである。
では、ケータイという文明の利器を駆使することで、今日の若者たち
は一人恐怖から解放されているのだろうか。
前回も述べたように、けっしてそうではない。
同質な人間との常時接続を可能にしてくれるケータイは、一人恐怖を
解消してくれる便利なツールのように見えて、じつはそのように機能し
てはいない。
ケータイ自体はニュートラルな装置だから、使われ方しだいで、逆に
一人恐怖を煽るツールとしても機能しうる。
じっさい、秋葉原で事件を起こした青年にとって、ケータイは自己の
疎外感を強めるツールヘと変貌してしまっていた。
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