今回は 玉利勲さんの「古代日本の発掘発見物語」2回目の紹介です

もと新聞記者だった玉利さん 装飾古墳に関する著作が多数あります
考古学ジャーナリストとしての考古学、遺跡への愛情を強く感じる本です

子どもにも読むことができる内容 大変分かりやすく書かれています

今回紹介するものからは…

モースが発見した大森貝塚はもちろん一か所であるはずなのですが
記念碑は二か所たてられているとのこと 
その理由は … なぜでしょうか

日本の考古学の先駆者 坪井正五郎さん
現在の考古学の重鎮・斎藤忠さんも
坪井さんの業績等についてエピソードも交えて書いていますが
考古学の始まりの頃について知ることができます


昨日 校区にある幼稚園の園長さんが
子どもたちに楽しく本を読んでくれました
読むと言うより それを材料に 楽しく語りかけてくれたのですが
子どもたちの反応のよさに驚きました
とても楽しそうに 質問に答えたり 一緒に呼びかけたり…

外部のいろいろな方を講師に迎えることが多くなりましたが
その良さを感じました(打ち合わせ 準備が大切になりますが)






☆「古代日本の発掘発見物語」玉利勲 国土社 ② 1985年



◇日本考古学のあけぼの - モースと大森貝塚
○汽車の窓から貝塚発見
明治10(1877)6.19 エドワード・シルベイター・モース
39歳 「腕足類」海の生物の研究者
  大森駅近くで貝塚発見


○思いがけない運命
 マレー博士 モースを文部大輔(次官)田中不二麿に紹介
哲学者 外山正一も同席

東大教授に任命 7月12日

新学期は9月 7.21~8.28
江ノ島漁師小屋で腕足類の採集と研究 松村任三郎助手
教壇は9月12日から
9月16日初めて貝塚を訪ねる


○最初の発掘
モース、松村任三郎、松浦佐用彦、佐々木忠次郎

10月9日3回目 
    松村助手、松浦、佐々木、2学生、外山正和教授
矢田部良吉教授(植物学)、マレー博士等3人の外国人
作業員6名


○最初の調査報告書
明治12(1879)夏 「大森貝塚」 12月 矢田部訳『大森介墟古物編』

明治12.9.2 モース日本を離れる(日本在約2年)
→ ボストン北のセーラム ビーボディ博物館長に

1925.12.20没


○二つの記念碑
昭和4年(1929) 「大森貝塚」品川区大井6丁目21 ◎

 昭和5年(1930) 「大森貝墟」大田区山王1丁目3-1



◇歩み始めた考古学 - 明治時代と坪井正五郎
○自信に満ちたイギリス留学
坪井正五郎 文久3(1863)年1.5 両国 矢ノ倉生
父は幕府の医者 正月5日生まれで「正五」

明治10 1877 14歳で東大予備門 
  14 1881  東京大学理学部動物学科入学
15 1882  友人と連名で土器についての論文
19 1886 動物学科卒業 → 大学院・人類学
22 1889.6 大学助手 イギリス・フランス留学
三年間 大英博物館  人類学
  25 1893.10 帰国 東大理学部教授 29歳
26 1894 人類学講座 初代教授
大正2(1913)5月 ロシアにて病没 50歳


○人類学会の始まり
人類学創設 一般にも普及

有坂 坪井と白井光太郎を誘い本郷・向ケ岡貝塚

明治17(1884)3.2 弥生式土器第一発見



人類学会 毎月一回遠足 ~ 遺物採集

考古学研究 = 外国人への対抗

明治19(1886)2月 会誌『人類学報告』創刊
5月 東京人類学会『東京人類学報告』

   明治20(1887) 『東京人類学会報告』

明治21(1888) 『東京人類学会雑誌』

坪井自身 人類学 幅広い - 本質研究、現状研究、由来研究


○最初の古墳発掘
古墳研究重視 明治19(1886)栃木県足利市二つの円墳の調査
明治21(1888)8月 『足利古墳発掘報告』


○コロボックルかアイヌ人か
坪井 先住民コロボックル説 論争 小金井良精教授 アイヌ人説

坪井の死により終止符