今回は、3月15日に続いて、静岡県女子師範学校郷土研究会編による
『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)10回目の紹介です。
静岡県、郷土の出版社、羽衣出版による、すばらしい本です。
今回は、「塚と墓」です。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)静岡県女子師範学校郷土研究会編 1994年 ⑩
4 塚と墓
(1)稚児塚 (引佐郡三ケ日町)
鳳来山(三遠国境の赤石支脈の一高峰、扇山とも書く。鳳来山とは、三河の鳳来山に対
してこの名があるという)に幡教寺という天台宗の巨刹(大きい寺)があった。(今の真
言宗大福寺はこの寺を移したものなり)
開基は、教待和尚といい、当時の名僧知識で、その大徳を慕い教えを乞い、弟子となる
ものが非常に多かった。
ある日、若くてまだ髪を剃らない一人の弟子が、暴風雨の間に天狗にさらわれて行方が
分からなくなった。
僧たちは捜し求めたけれど、その甲斐がなかった。だが、その後数日を過ぎて、寺から数丁の山頂に死体を発見した。
それでここに塔一基を建てて弔い、人呼んで稚児塚という。
今なお山頂にある豊筐印塔がこれであると伝えられる。
(掘川てる子)
(2)矢塚 (引佐郡三ケ日町只木)
只木は、大江山の酒呑童子を退治して有名な源頼光の家来、卜部の季武の居住地である
というが、今、畑の中の三畝歩(約一アール)ばかりに古い石垣の跡があり、これがその
屋敷跡だということである。
塚は、東西三間(約五・四㍍)、南北一間(約一・八㍍)余りである。
これは矢塚と言い、昔からこの塚に上ると、おこり(熱病)にかかるというので、里人
は近よらない。また、六郎季武の墳墓であるというので、季武塚とも言われている。 (山本ふみ)
(3)琉球塚 (浜松市)
平田の西見寺にある。
宝永7年(1710)、琉球の使節が江戸へ行く途中、浜松宿に泊まったが、病にかか
って死んだので西見寺に葬った。
それを琉球塚という。
(河原やす子)
(4)開山塚 (浜松市)
砂山の新豊院境内にある。新豊院は普済寺の末寺で、普済寺5世の華蔵が開いたが、後、
康正元年(1455)にこの寺で亡くなった。
その墓を開山塚という。
『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)10回目の紹介です。
静岡県、郷土の出版社、羽衣出版による、すばらしい本です。
今回は、「塚と墓」です。
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ものづくりのまちとも言われる浜松。
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☆『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)静岡県女子師範学校郷土研究会編 1994年 ⑩
4 塚と墓
(1)稚児塚 (引佐郡三ケ日町)
鳳来山(三遠国境の赤石支脈の一高峰、扇山とも書く。鳳来山とは、三河の鳳来山に対
してこの名があるという)に幡教寺という天台宗の巨刹(大きい寺)があった。(今の真
言宗大福寺はこの寺を移したものなり)
開基は、教待和尚といい、当時の名僧知識で、その大徳を慕い教えを乞い、弟子となる
ものが非常に多かった。
ある日、若くてまだ髪を剃らない一人の弟子が、暴風雨の間に天狗にさらわれて行方が
分からなくなった。
僧たちは捜し求めたけれど、その甲斐がなかった。だが、その後数日を過ぎて、寺から数丁の山頂に死体を発見した。
それでここに塔一基を建てて弔い、人呼んで稚児塚という。
今なお山頂にある豊筐印塔がこれであると伝えられる。
(掘川てる子)
(2)矢塚 (引佐郡三ケ日町只木)
只木は、大江山の酒呑童子を退治して有名な源頼光の家来、卜部の季武の居住地である
というが、今、畑の中の三畝歩(約一アール)ばかりに古い石垣の跡があり、これがその
屋敷跡だということである。
塚は、東西三間(約五・四㍍)、南北一間(約一・八㍍)余りである。
これは矢塚と言い、昔からこの塚に上ると、おこり(熱病)にかかるというので、里人
は近よらない。また、六郎季武の墳墓であるというので、季武塚とも言われている。 (山本ふみ)
(3)琉球塚 (浜松市)
平田の西見寺にある。
宝永7年(1710)、琉球の使節が江戸へ行く途中、浜松宿に泊まったが、病にかか
って死んだので西見寺に葬った。
それを琉球塚という。
(河原やす子)
(4)開山塚 (浜松市)
砂山の新豊院境内にある。新豊院は普済寺の末寺で、普済寺5世の華蔵が開いたが、後、
康正元年(1455)にこの寺で亡くなった。
その墓を開山塚という。