今回 養護施設協会編「作文集 泣くものか」の紹介 1回目です
理由あって保護者と別れて 養護施設で過ごす児童・生徒の作文集です

「平成のKOキング」と呼ばれた 
元東洋太平洋ライト級チャンピオン 坂本博之さんも 
養護施設出身として知られます
ウィキペディアによると

「引退後は、自らも幼少時に児童虐待の被害者であった体験から、子供達の
 怒り、悲しみ、カゲ(「もう一人の自分」と表現)の心を受けとめるため
 に、全国の児童養護施設を廻っている」

と 書かれています。

以前 ラジオ深夜便「こころの時代」(現在は「あすへの言葉」)
に出演されたおり 辛かった子ども時代の話と
養護施設の子どもたちへの愛情、夢を話されていました

今から40年ほど前に出版された本ですが
子どもたちの作文から あついものが伝わってきます

どんな大変な状況におかれても…
どんなに辛くても…
大好きなのは父母であるということが伝わってくるのです

「虐待」なぜ?

子どもたちの父母への大きな愛情
涙を流しながら読んだこの本から感じたものです


父母であることの幸せを教えてくれます


3月17日 浜松市のザザシティ内に開館する
浜松ジオラマファクトリー
プレ展示が1月20日~22日に 駅前の遠鉄百貨店内で行われます
お時間が許せば ぜひご覧ください
山田卓司さんの作品を見ることができます
※参考ブログ
http://hamamatsu-diorama.com/
http://ameblo.jp/seki-monodzukuri/entry-11134662440.html
 





☆『作文集 泣くものか』 養護施設協会編 亜紀書房 1977年 (昭和53年度毎日出版文化賞受賞) ①



◇お父さんは変ってしまった - いままであったいろいろなこと   小5 浜田すみれ(仮名)
 わたしの、お母さんが死んでからもう6年もたってしまった。

 お母さんはからだが弱かったそうです。お母さんが死んだ日は、10月9日
でした。その日の前の日は、小学校の運動会でした。朝、お母さんが

「すみれ、きょう小学校の運動会にいくか。誠といっしょにいけはたのしいに」

といったこともおほえています。

 朝はとても元気だったお母さんが、急に昼ごろから気分が悪いからといって
運動会に行きませんでした。わたしは、「つまらないなぁ」と思いました。
 その夕方、夕はんはそこそこにして、すぐテレビを見ました。
 よるねているとお父さんにおこされました。
 びっくりしておきて見るとお母さんのロからあわがぶくぶくでていました。
お父さんは、近所の人をおこしてきました。みんな

「さち子さんしっかりして」

「しっかりさち子さん」

と言っていました。

 わたしは、ただないて見ているだけでした。さっちゃんのおばさんが

「こんや家でねな、さっちゃんもいるで」

といったので誠といっしょにさっちゃんの家へいきました。

 朝、目をさますと、まくらもとにふくがおいてありました。それをきておば
さんに、

「おばさんねまきどうする」

ときくと

「家においときな」

といいました。

 朝ごはんを食べてから、自分の家へいってテレビを見ました。そしたらきゅ
うに、おばさんが

「すみれちゃん誠ちゃん病院にいくよ」

といったので、すぐ出かけました。病院に入って中をきょろきょろ見ていたら、
おばさんが

「すみれちゃんこっち」

といったのでひっぱられてお母さんのいるへやにつきました。

 ベッドを見ると、お母さんがねていたので誠が

「お母ちゃんなにねてるの、おきて」

といいました。お父さんは、

「誠なにいってもだめ」

といった。それから、お父さんが

「死んでしまったよ」

といったそのとき、わたしは、びっくりしました。

 それからもうさっちんの家へとまりっきりでした。おそうしきのときお母さ
んのつとめている、会社の人もきました。わたしは、むかむかするきもちで、
心がおちつきませんでした。

 おそうしきがすむと、よるさっちゃんの家にとまりました。そのつぎの日、
四国にいきました。汽車の中で一日寝ました。それからタクシーでおばあちゃ
んの家につきました。
 そこで、おはかを作りに山にいきました。二日とまって、お父さんはかえっ
てそれから、四国でくらしました。

 4か月ぐらいたったある日お父さんがむかえにきました。それから、浜松の、
おじいさんの家にいきました。そこで1年生に入学しました。今度は、山梨に
ひっこし、2年3年とくらしました。

 お父さんとお母さんと弟とわたしと4人で、とてもたのしくくらしていたの
に、お母さんが死んでしまってから、お父さんはとっても変ってしまいました。
 私達をおいてどこかに行ってしまいました。お母さんが死んでしまってから
私の家は急にメチャメチャになってしまいました。

 そして3年の終わりごろ浜松にきました。それで、寮にはいりました。

 いまでは、みんなとなかよく、くらしています。さみしくはありません。

※ 母は死亡。父は無職で子どもたちに食事すら与えず行方不明となったため
 入寮。一 年後父より再婚し九州にいるとの手紙があり、読んできかせると
 泣きだしてしまった。
  その時の気持を作文に「手紙がきてとてもうれしかった。でもよく考えて
 みたら私は手紙ではなく直接お父さんに会いたいと思った」と書いていた。
                       (1972年  S寮)