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『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)静岡県女子師範学校郷土研究会編 羽衣出版 1994年 ② [読書記録 郷土]

今回は、11月15日に続いて、静岡県女子師範学校郷土研究会編による
『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)2回目の紹介です。


出版社は羽衣出版。静岡の出版社です。
素晴らしい内容で、採話してきた学生さんの苦労を考えてしまいます。



今回は、本多みちさんが採話した磐田郡山香村・現佐久間町(現在は浜松市=ハマコウ註)
の「山婆」の話です。 






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☆『新版 静岡県伝説昔話集』(上巻)静岡県女子師範学校郷土研究会編 羽衣出版 1994年 ②

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1山男、山婆、巨人、天狗の話 続き
(3)山婆 (磐田郡山香村・現佐久間町)

 昔、和泉の倉木山に山婆が住んでいた。


 藤の皮で布を織る事が上手で、福沢や和泉や落井に出て来て、機を借りて布を織ったと
いう。


 今、落井に借宿という屋敷があるが、その家へはよく出て来て機を織ったそうだ。


 山婆は記念のために、その家へ一本の藤の木を植えた。それが大変大きくなって、かな
り以前まではあったというが、枯れてしまって、今のは、その跡へ植えた二代目の藤だと
いう。


 また、その宿の近くに産婆さまという小さな祠がある。


 山婆はお産をさせる事が上手だったので、後の人がお祀りしたのだという。





 福沢には日向という家がある。


 山婆は、よくその家へ行っては子守をしたり留守居をしたりしていたが、ある日、その
家の子供をお守りしていて、ついに食べてしまった。


 その家の人達は、どうかして仇を討ってやろうと思っていたが、ある日、また山婆が来
たので、丸い石を焼いて団子とともに食わせた。


 山婆は腹が熱くて仕方がないので水をねだると、油を水だと言ってくれたので、ますま
す苦しくなって、ついに落居まで逃げてきて、釜川から天竜川に入って死んでしまった。


 一説には、日向の子供を食ったので、村の人々が殺そうとすると、山婆は倉木山へ逃げ
た。


 人々が追っていくと、不意に山が真っ暗になってしまった。


 それから倉木山(暗き山)と言うようになった。


 村人は、どうしても討ち取ることが出来ないので、信州の代官所に願って討ち取っても
らうようにした。


 代官所では、平賀中務という人と、矢部後藤左衛門という二人に命じて討ち取るように
した。


 そして、村人と力を合わせて迫ったので、山婆は、ついに釜川から川に入って秋葉山へ
逃げていった。

 そして平賀と矢部の二人は浦川村の川合に永住したということである。



 また一説には、山婆が時々、舟戸のある家へ行くので、その家の主人が大変怖がって、
どうかして来ないようにしようと思い、ある日、蕎麦団子と一緒に丸い石を焼いて食わせ
た。


 山婆は、腹の中が焼けて苦しがり、天竜川に入って死んだ。


 それで、山婆が崇ってはいけないと、浅間山へ小さな祠を建てて、産婆様といって祀っ
てある。


 小学校の上の方に子生という所があるが、ここは山婆が子供を生んで育てた所だそうだ。


 山婆が機を借りにきたので、借宿というのだともいうが、また一説には、源平の時、負
けた平氏方の武士が2、3人逃げて来て泊まったので、借宿というのだともいう。


 山婆が富士山(竜頭山ともいう)を造る時、倉木山から土を運んで持って行った。

 もう一度土を運べば富土山が丸くなるというので、夜中に土を運んでいくと、戸口とい
う所で臼を(餅を)ついている家があったので、夜が明けたのかと思って、土をそこに置
いて倉木山へ帰ってしまった。

 その土が浅間山だという。


 また、その土は休んだ時に置いたのだともいう。
 

 戸口から「おいだいら」という所へ猪が出て困った時、山婆が来て、山のてっぺんから
大きな石を猪にくらわせた。この石は石仏といって今でもある。     (本多みち)

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