「宮本常一 写真・日記集成」下巻 昭和40-56 毎日新聞社 2005年 /「津波と原発」佐野眞一 講談社 2011年 ③【再掲載 2012.7】 [読書記録 民俗]
今回は、2月10日の上巻に続いて、宮本常一さんの
「宮本常一 写真・日記集成」下巻を紹介します。
出版社の紹介には
「子どもたちの眼が輝いていた、忘れられた日本がここにある。
民俗学者・宮本常一が遺した写真の全貌が、ここに明らかに。
約3千点の写真と、1万3千余日の日記で綴る、戦後昭和の日本の記録。
・多数の未公開写真を含む約3000カットを掲載
・オリジナルフィルムから新たにプリントした精彩な画像
・別巻には、宮本常一自身が整理した写真帳(戦前・戦中の写真400点)の
全体を原寸大で再現
・未公開の日記(昭和20年1月から昭和56年1月まで)を収録
・写真と日記を対照させた編年体で構成」
とあります。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「昭和40(1965)年 57、 58歳 4/1より武蔵野美術大学教授となる」
・「昭和42(1967)年 『宮本常一著作集』刊行」
- 未来社の最近刊「宮本常一著作集52」の発行日は2021年12月25日。
刊行が始まってから50年以上たつのにまだ完結していません。
どれだけ多くの著作があったのかが分かります。
・「昭和46(1971)年 3月15日に芦田恵之助『綴方12ヶ月』解説」
- 綴り方教育、国語科教育の本の解説を務めたのは、
宮本さんが元小学校教員であったことに関係があるのでしょうか。
・「昭和51(1976)年 4月9日 磐田南高校で『旅に学ぶ』講演」
- お隣の市の高校で、わたしが高校に入学したばかりの頃の講演。
聞くことができた磐南生をうらやましく感じます。
もう一つ、再掲載になりますが、佐野眞一さんの
「津波と原発」③を載せます。
わたしは本書で日本の原子力発電がどのように始まったかを知りました。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。

<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「宮本常一 写真・日記集成」下巻 昭和40-56 毎日新聞社 2005年

◇昭和40(1965)年 57、 58歳
4/1 武蔵野美術大学教授
8/ ~ 『日本の詩情』
木下順二 南博 木村伊兵衛
◇昭和41(1966)年 58、59歳
1月 日本観光文化研究所 所長
◇昭和42(1967)年
3月 『あるくみるきく』創刊
3/3-9/15 肺結核で入院
今和次郎 江上波夫
『宮本常一著作集』刊行
◇昭和43(1968)年
4月『民具マンスリー』創刊
水上勉対談 大宅壮一対談
3/4(月) 舞阪公民館で話し 弁天島泊
3/5(火) 雄踏町にて家庭教育の話し
◇昭和44(1969)年
8/15 星野哲郎 川添登 川喜多二郎
◇昭和45(1970)年
田耕(田尻耕三)の「おんでこ座」設立に協力
◇昭和46(1971)年
3/15 芦田恵之助『綴方12ヶ月』解説
5/8 梅棹忠夫、川喜多二郎
神崎家
◇昭和48(1973)年
4/29 大阪府高石市取石 取石小学校(宮本勤務 S10-14)
1/18 松谷みよ子
11/18 『八条実記』菊池寛賞
11/22(木) 月の花祭
◇昭和50(1975)年
日本民具学会 7/19~8/30 アフリカ
1/8 加藤秀俊
11/7(金) NHK『お母さんの勉強室』
◇昭和51(1976)年
4/9 磐田南高校 「旅に学ぶ」講演 生徒○○ 高木氏
10:50-12:20 講演
13:00-14:00 質問
◇昭和52(1977)年
3月 大学退職
4月~ 村崎修二 猿回し復活「周防猿回しの会」
5月 武蔵野美術大学名誉教授
12月 今和次郎賞
三国一郎
◇昭和53(1978)年
1月 猿の調教始まる
6月 村崎氏とサル
◇昭和54(1979)年
民博協力者
山古志村
◇昭和55(1980)年
郷土大学発足
12/23~ 府中病院に入院
◇昭和56(1981)年
1月30日(金)逝去
☆「津波と原発」佐野眞一 講談社 2011年 ③【再掲載 2012.7】
[菅原文太さんの文庫本解説より(講談社BOOK倶楽部サイトより)]
被災者の肉声を縦軸に、現地の歴史的背景を横軸に紡ぎ、各メディアから高い
評価を得た東日本大震災ルポルタージュの傑作を文庫化。あの未曾有の大災害
の、一週間後に津波に襲われた被災地各所を、一ヶ月半後には福島第一原発周
辺の立ち入り禁止区域内を緊急取材した筆者が見たものとは―。『あのとき、
何が起きたのか。何が問題になっているのか。佐野さんにしか表せない、骨太
な文章に心を打たれた」(解説・菅原文太)

第2部 原発街道を往く
◇第2章 原子力の父・正力松太郎
□原子力開発の父と「影武者」
□正力松太郎
警察庁 → 読売新聞社
昭和30(1955)年 衆議院議員 → 原子力委員会委員長に
正力の影武者
= 柴田秀利「我が国テレビの父」「原子力の父」
橋本清之助
□読売新聞の原子力キャンペーン
□核導入とCIA
アイゼンハワー
「アトムズ・フォー・ピース」演説
読売新聞
原子力新聞に
日米原子力協定
昭和30年6月21日
□原子力平和利用博覧会
第五福竜丸展示
□英国からの招待状
昭和31(1965)年3月1日 日本原子力産業会様
→ イギリス式導入 - 東海村
□東海村の火入れ式
□天覧原子炉 - 正力の巨大な掌の中で
アメリカは柴田を利用し、柴田はアメリカの戦略を利用した
◎「わたしたちが今も正力の掌の上で安穏と暮らし、そこから抜け出す手
がかりさえ持っていない」
新聞・テレビ → 原子力の電気
□「原子力的日光浴」の意味するもの
平成11(1999)年9月30日
東海村JCOでの臨界事故
「チェレンコフ光」「原子力的日光浴」
◇なぜ「フクシマ」に原発は建設されたか
□フクシマと「浜通り」の人々
長者原 陸軍熊谷飛行隊の練習場
300haが接収 60機
昭和23年まで仙台財務局
→ 払い下げ
元の地権者の農民
1/3は国土家計画堤康二朗
塩田事業 → 荒れ地
大竹作摩
戦後2代目(昭和22.5)昭和27年 県知事
高等小学校出 只見川電源開発
昭和35~昭和38 衆議院議員
木村守江知事
木川一隆社員コンビ
貧しい地域に原発
電源三法(田中角栄)
→ 交付金
◇木川一隆と木村守江の接点
□昭和24(1949)年
電力業界再編のため電気事業再編成審議会
◎ 戦前電力会社は独占企業でなかったため、現在のような供給義務
はなく、電力の恩恵を受ける地域間の不公平さが目立った
「九電力案」松永安左エ門会長
□原発を導入した町民たち
田中清太郎・元双葉町長
土建屋社長 ミニ田中角栄
□反対派町長・岩本忠夫が「転向」したわけ
岩本忠夫町長(1985-2005)
□東京電力の策謀
「原発の現場」朝日新聞いわき支局1980 「原発のある風景」1983
電力会社は
… 警察の再就職先
… 職場警察連絡会議
… メディア対策
「白河以北一山三文」
← 中央の為政者の負け惜しみではないか?
美しい山、美しい海に囲まれた東北は、喉から手が出るほどほし
い地だった。しかし、制圧のためにおびただしい犠牲が…
↑
東北差別につながったのではないか
◎「原発というのは要するに運転しているときが、つまり、動いているとき
がいちばん安全なんです。逆に言えば、止めた後が大変なんです」
□原発労働はなぜ誇りを生まないか
「フクシマ論-原子力ムラはなぜ生まれたのか」
後ろめたい労働
「東電そのものが政治だと分かった」
◎ 原発が権力の中枢にビルトイン
田中角栄
「新幹線、高速道路、原発はセットだ」
◎「東電の奥の奥にあるのは圧倒的なパターリズムなんです。お前ら知らな
いだろう、みたいな。その裏返しで、オレは日本を背負っているんだと
いう意識が強烈にある」
□浜通り出身の原子炉研究者
松本哲男・東京都市大学工学部教授(旧武蔵工大)
武蔵工大 = 東急の五島慶太がつくった学校
◎「経済浮揚のカンフル剤だと思っていた電源三法交付金が覚醒剤に変わる
のはあっというまだった」
「宮本常一 写真・日記集成」下巻を紹介します。
出版社の紹介には
「子どもたちの眼が輝いていた、忘れられた日本がここにある。
民俗学者・宮本常一が遺した写真の全貌が、ここに明らかに。
約3千点の写真と、1万3千余日の日記で綴る、戦後昭和の日本の記録。
・多数の未公開写真を含む約3000カットを掲載
・オリジナルフィルムから新たにプリントした精彩な画像
・別巻には、宮本常一自身が整理した写真帳(戦前・戦中の写真400点)の
全体を原寸大で再現
・未公開の日記(昭和20年1月から昭和56年1月まで)を収録
・写真と日記を対照させた編年体で構成」
とあります。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「昭和40(1965)年 57、 58歳 4/1より武蔵野美術大学教授となる」
・「昭和42(1967)年 『宮本常一著作集』刊行」
- 未来社の最近刊「宮本常一著作集52」の発行日は2021年12月25日。
刊行が始まってから50年以上たつのにまだ完結していません。
どれだけ多くの著作があったのかが分かります。
・「昭和46(1971)年 3月15日に芦田恵之助『綴方12ヶ月』解説」
- 綴り方教育、国語科教育の本の解説を務めたのは、
宮本さんが元小学校教員であったことに関係があるのでしょうか。
・「昭和51(1976)年 4月9日 磐田南高校で『旅に学ぶ』講演」
- お隣の市の高校で、わたしが高校に入学したばかりの頃の講演。
聞くことができた磐南生をうらやましく感じます。
もう一つ、再掲載になりますが、佐野眞一さんの
「津波と原発」③を載せます。
わたしは本書で日本の原子力発電がどのように始まったかを知りました。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。

<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「宮本常一 写真・日記集成」下巻 昭和40-56 毎日新聞社 2005年

◇昭和40(1965)年 57、 58歳
4/1 武蔵野美術大学教授
8/ ~ 『日本の詩情』
木下順二 南博 木村伊兵衛
◇昭和41(1966)年 58、59歳
1月 日本観光文化研究所 所長
◇昭和42(1967)年
3月 『あるくみるきく』創刊
3/3-9/15 肺結核で入院
今和次郎 江上波夫
『宮本常一著作集』刊行
◇昭和43(1968)年
4月『民具マンスリー』創刊
水上勉対談 大宅壮一対談
3/4(月) 舞阪公民館で話し 弁天島泊
3/5(火) 雄踏町にて家庭教育の話し
◇昭和44(1969)年
8/15 星野哲郎 川添登 川喜多二郎
◇昭和45(1970)年
田耕(田尻耕三)の「おんでこ座」設立に協力
◇昭和46(1971)年
3/15 芦田恵之助『綴方12ヶ月』解説
5/8 梅棹忠夫、川喜多二郎
神崎家
◇昭和48(1973)年
4/29 大阪府高石市取石 取石小学校(宮本勤務 S10-14)
1/18 松谷みよ子
11/18 『八条実記』菊池寛賞
11/22(木) 月の花祭
◇昭和50(1975)年
日本民具学会 7/19~8/30 アフリカ
1/8 加藤秀俊
11/7(金) NHK『お母さんの勉強室』
◇昭和51(1976)年
4/9 磐田南高校 「旅に学ぶ」講演 生徒○○ 高木氏
10:50-12:20 講演
13:00-14:00 質問
◇昭和52(1977)年
3月 大学退職
4月~ 村崎修二 猿回し復活「周防猿回しの会」
5月 武蔵野美術大学名誉教授
12月 今和次郎賞
三国一郎
◇昭和53(1978)年
1月 猿の調教始まる
6月 村崎氏とサル
◇昭和54(1979)年
民博協力者
山古志村
◇昭和55(1980)年
郷土大学発足
12/23~ 府中病院に入院
◇昭和56(1981)年
1月30日(金)逝去
☆「津波と原発」佐野眞一 講談社 2011年 ③【再掲載 2012.7】
[菅原文太さんの文庫本解説より(講談社BOOK倶楽部サイトより)]
被災者の肉声を縦軸に、現地の歴史的背景を横軸に紡ぎ、各メディアから高い
評価を得た東日本大震災ルポルタージュの傑作を文庫化。あの未曾有の大災害
の、一週間後に津波に襲われた被災地各所を、一ヶ月半後には福島第一原発周
辺の立ち入り禁止区域内を緊急取材した筆者が見たものとは―。『あのとき、
何が起きたのか。何が問題になっているのか。佐野さんにしか表せない、骨太
な文章に心を打たれた」(解説・菅原文太)

第2部 原発街道を往く
◇第2章 原子力の父・正力松太郎
□原子力開発の父と「影武者」
□正力松太郎
警察庁 → 読売新聞社
昭和30(1955)年 衆議院議員 → 原子力委員会委員長に
正力の影武者
= 柴田秀利「我が国テレビの父」「原子力の父」
橋本清之助
□読売新聞の原子力キャンペーン
□核導入とCIA
アイゼンハワー
「アトムズ・フォー・ピース」演説
読売新聞
原子力新聞に
日米原子力協定
昭和30年6月21日
□原子力平和利用博覧会
第五福竜丸展示
□英国からの招待状
昭和31(1965)年3月1日 日本原子力産業会様
→ イギリス式導入 - 東海村
□東海村の火入れ式
□天覧原子炉 - 正力の巨大な掌の中で
アメリカは柴田を利用し、柴田はアメリカの戦略を利用した
◎「わたしたちが今も正力の掌の上で安穏と暮らし、そこから抜け出す手
がかりさえ持っていない」
新聞・テレビ → 原子力の電気
□「原子力的日光浴」の意味するもの
平成11(1999)年9月30日
東海村JCOでの臨界事故
「チェレンコフ光」「原子力的日光浴」
◇なぜ「フクシマ」に原発は建設されたか
□フクシマと「浜通り」の人々
長者原 陸軍熊谷飛行隊の練習場
300haが接収 60機
昭和23年まで仙台財務局
→ 払い下げ
元の地権者の農民
1/3は国土家計画堤康二朗
塩田事業 → 荒れ地
大竹作摩
戦後2代目(昭和22.5)昭和27年 県知事
高等小学校出 只見川電源開発
昭和35~昭和38 衆議院議員
木村守江知事
木川一隆社員コンビ
貧しい地域に原発
電源三法(田中角栄)
→ 交付金
◇木川一隆と木村守江の接点
□昭和24(1949)年
電力業界再編のため電気事業再編成審議会
◎ 戦前電力会社は独占企業でなかったため、現在のような供給義務
はなく、電力の恩恵を受ける地域間の不公平さが目立った
「九電力案」松永安左エ門会長
□原発を導入した町民たち
田中清太郎・元双葉町長
土建屋社長 ミニ田中角栄
□反対派町長・岩本忠夫が「転向」したわけ
岩本忠夫町長(1985-2005)
□東京電力の策謀
「原発の現場」朝日新聞いわき支局1980 「原発のある風景」1983
電力会社は
… 警察の再就職先
… 職場警察連絡会議
… メディア対策
「白河以北一山三文」
← 中央の為政者の負け惜しみではないか?
美しい山、美しい海に囲まれた東北は、喉から手が出るほどほし
い地だった。しかし、制圧のためにおびただしい犠牲が…
↑
東北差別につながったのではないか
◎「原発というのは要するに運転しているときが、つまり、動いているとき
がいちばん安全なんです。逆に言えば、止めた後が大変なんです」
□原発労働はなぜ誇りを生まないか
「フクシマ論-原子力ムラはなぜ生まれたのか」
後ろめたい労働
「東電そのものが政治だと分かった」
◎ 原発が権力の中枢にビルトイン
田中角栄
「新幹線、高速道路、原発はセットだ」
◎「東電の奥の奥にあるのは圧倒的なパターリズムなんです。お前ら知らな
いだろう、みたいな。その裏返しで、オレは日本を背負っているんだと
いう意識が強烈にある」
□浜通り出身の原子炉研究者
松本哲男・東京都市大学工学部教授(旧武蔵工大)
武蔵工大 = 東急の五島慶太がつくった学校
◎「経済浮揚のカンフル剤だと思っていた電源三法交付金が覚醒剤に変わる
のはあっというまだった」
「宮本常一 写真・日記集成」上巻 昭和30-39 毎日新聞社 2005年 /「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版 2001年 ④ 【再掲載 2011.10】 [読書記録 民俗]
今回は、宮本常一さんの
「宮本常一 写真・日記集成」上巻を紹介します。
出版社の紹介には
「子どもたちの眼が輝いていた、忘れられた日本がここにある。
民俗学者・宮本常一が遺した写真の全貌が、ここに明らかに。
約3千点の写真と、1万3千余日の日記で綴る、戦後昭和の日本の記録。
・多数の未公開写真を含む約3000カットを掲載
・オリジナルフィルムから新たにプリントした精彩な画像
・別巻には、宮本常一自身が整理した写真帳(戦前・戦中の写真400点)の
全体を原寸大で再現
・未公開の日記(昭和20年1月から昭和56年1月まで)を収録
・写真と日記を対照させた編年体で構成」
とあります。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「昭和30年から昭和55年の26年間に1700本近くのフィルムを使って写真
を撮った。1700本の2/3が35㎜のハーフサイズでとられており、10万カッ
ト分となる。被写体は庶民の日常的な生活とその生活空間である」
・「執筆は生活費・研究費を得るためであり、宮本氏が研究できたのは平凡社
のおかげ、NHKのおかげであるともいえる - 赤坂憲雄」
・「宮本氏の写真には『人が呼ぶ』引きつけられる魅力があり、無意識に出
合った一瞬に拠り、あったかいところばかり撮っている。情があり、温か
い気持ちがこもった写真である - 荒木経惟」
・「『地方とは何か、生活とは何か、民俗とは何か』
『はっと思ったら撮れ、おやっと思ったら撮れ』」
もう一つ、再掲載になりますが、佐野眞一さんの
「宮本常一が見た日本」④を載せます。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。

<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「宮本常一 写真・日記集成」上巻 昭和30-39 毎日新聞社 2005年
◇刊行に当たって
宮本常一
カメラ → 『私の日本地図』シリーズ
写真 昭和30年~昭和55年 26年間 1700本近く
2/3が35㎜のハーフサイズ 10万カット
被写体 - 庶民の日常的な生活とその生活空間
記憶のための覚え書き
日付のある写真
- ジャーナリストの眼
日記 忘備・メモのため
◇昭和34(1959)年
7/27~8/1 水窪
1/11(日) 浜松写真
『日本残酷物語』原稿
◇昭和35(1960)年
7/26 『忘れられた日本人』刊行
◇昭和36(1961)年
6/21 家を購入 府中に
◇昭和37(1962)年
3/19 母逝去
5/12 妻子が東京へ
8/8 柳田国男逝去
4/13 西郷武彦
◇昭和38(1963)年
6月 雑誌『デクノボウ』創刊
7月 雑誌『日本発見』創刊
1/2 河岡武春
9/16 浜松
10/25 渋沢敬三逝去
◇昭和39(1964)年
武蔵野美術大学講師
3/28 秋山ちえ子
◇生々しい肉声が聞こえてくる 赤坂憲雄(民俗学者)
執筆 ~ 生活費・研究費
平凡社、NHKのおかげ
藤田省三『保守主義的翼賛理論-長谷川如是閑・宮本常一』
◇風景と言うより情景だね 荒木経惟(写真家)
「人が呼ぶ」 引きつけられる魅力
無意識に出合った一瞬に拠っちゃって撮りたい
あったかいところばかり撮っている
情 温かい 気持ち
◇未踏の景観学のために 松山巌(小説家・評論家)
体系がないとされるのはスケールの大きさの違いのため?
|
景観全体と学問に
民俗学 → 実践的な生き方に
◇この人は伊能忠敬みたいだね 森山大道(写真家)
10万カット 普通じゃない
「見る」ことへのこだわり エネルギー・センサー
徹底してみる 徹底して歩く
通過者の視点
「突出していない日本の場所を全部埋めている印象」
◇なにものにもなりようがない者の眼 河瀨直美(映画監督)
天気・季節
古都 奈良の変貌
◇父の写真 宮本千春
須藤功を観文研に
姫田忠義、伊藤碩男 ← 彼ら自身を発見者にしたかった
「地方とは何か、生活とは何か、民俗とは何か」
「はっと思ったら撮れ、おやっと思ったら撮れ」
◇とう、はなす、書く13000日 中村○(鐵か?)太郎
13178日
物書きの手による字
合理主義・機能優先主義
◇はじまりの話 伊藤幸司
民俗学の視点を持ったジャーナリストによる庶民の戦後、昭和史
☆「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版 2001年 ④ 【再掲載 2011.10】

◇山河への憧憬
十津川
「兵力の貯蔵地」
統一側に兵力
→ 別天地を守った
免租地だった(明6まで)
秘境へ
維新後、長年の「天皇」忠誠の功により全員士族に列せられた
戦前の調査 「油屋旅館」(城戸)
<第一次世界大戦を堺に庶民文化にある断層があった>
峠を越えて
十津川崩れ 昭和29(1954)年
谷瀬の吊り橋
地元住民が38戸で800万円をつくった = 「公」精神
十津川 玉置神社
◇農業のプロとして
佐渡の道
初めては昭和33(1958)10月
以後S34,35,37.11,38.12,39.3・6・8,40.8
「宮本ワールド」の展示場
① 佐渡国小木民俗博物館
② 八珍柿
◎「人づくりができて道づくりができる。道づくりができて初めて産
地づくりができる」
宮本は我が国屈指の篤農家
◇離島振興にかける
「済民」のアジテーター
昭和31(1961)田耕(田尻耕三)と初見
→ 昭和33(1958)本間氏宅に居候
昭和44(1969)鬼太鼓座
→ 現在の「鼓童」 代表・大井良明
「宮本はそそのかしの天才、山師」
離島の慈父
『日本の離島』未来社
昭和28(1953)年7月離島振興法
「光と水」 = 電気と水道がスローガン
山階芳正氏が幹事役
田中角栄と宮本常一
昭和25(1950)年 国土総合開発法 田中角栄
田中角栄と宮本常一はコインの裏表
◎ 田中 まず都会と結べ = 中央と直結
◎ 宮本 離島自体からエネルギーを
昭和41(1966)年
『日本の離島』第2集
昭和28年7億円
→ 昭和40年90億円
◎「…無駄遣いが多すぎる。家だけは立派になっているが生産の方は大
して伸びていない。家を改築する前にもっと再生産のための設備投
資に本気になれないものか。これではいつまでたっても島が本質的
な力で本土に追いつく日はない。」
◎「…資本主義的な思想の恐ろしさというようなものを近頃しみじみ思
う。しかも、それが国民全体の一つの思想になりつつあるのではな
いか」
↓
昭和47(1972)年
『日本列島改造論』
◎ 辺境の村や島にひそむ土地の精霊たちを根絶する一種「革命的」
な振る舞いであった
∥
田中角栄
息が詰まる程のコンプレックスで自分を呪縛し、日本の村々を
支配してきた古い呪術的神々を見殺しにすることに生涯を掛けた
政治家だったとも言える
昭和40年代後半宮本の旅は祖霊を失った人々を癒して歩く求道者めいた
旅になる
◎ 「宮本先生は現代の一遍上人だった」
◎ 「宮本さんは弘法大師の生まれ変わりのような方だった」
「宮本常一 写真・日記集成」上巻を紹介します。
出版社の紹介には
「子どもたちの眼が輝いていた、忘れられた日本がここにある。
民俗学者・宮本常一が遺した写真の全貌が、ここに明らかに。
約3千点の写真と、1万3千余日の日記で綴る、戦後昭和の日本の記録。
・多数の未公開写真を含む約3000カットを掲載
・オリジナルフィルムから新たにプリントした精彩な画像
・別巻には、宮本常一自身が整理した写真帳(戦前・戦中の写真400点)の
全体を原寸大で再現
・未公開の日記(昭和20年1月から昭和56年1月まで)を収録
・写真と日記を対照させた編年体で構成」
とあります。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「昭和30年から昭和55年の26年間に1700本近くのフィルムを使って写真
を撮った。1700本の2/3が35㎜のハーフサイズでとられており、10万カッ
ト分となる。被写体は庶民の日常的な生活とその生活空間である」
・「執筆は生活費・研究費を得るためであり、宮本氏が研究できたのは平凡社
のおかげ、NHKのおかげであるともいえる - 赤坂憲雄」
・「宮本氏の写真には『人が呼ぶ』引きつけられる魅力があり、無意識に出
合った一瞬に拠り、あったかいところばかり撮っている。情があり、温か
い気持ちがこもった写真である - 荒木経惟」
・「『地方とは何か、生活とは何か、民俗とは何か』
『はっと思ったら撮れ、おやっと思ったら撮れ』」
もう一つ、再掲載になりますが、佐野眞一さんの
「宮本常一が見た日本」④を載せます。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。

<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「宮本常一 写真・日記集成」上巻 昭和30-39 毎日新聞社 2005年
◇刊行に当たって
宮本常一
カメラ → 『私の日本地図』シリーズ
写真 昭和30年~昭和55年 26年間 1700本近く
2/3が35㎜のハーフサイズ 10万カット
被写体 - 庶民の日常的な生活とその生活空間
記憶のための覚え書き
日付のある写真
- ジャーナリストの眼
日記 忘備・メモのため
◇昭和34(1959)年
7/27~8/1 水窪
1/11(日) 浜松写真
『日本残酷物語』原稿
◇昭和35(1960)年
7/26 『忘れられた日本人』刊行
◇昭和36(1961)年
6/21 家を購入 府中に
◇昭和37(1962)年
3/19 母逝去
5/12 妻子が東京へ
8/8 柳田国男逝去
4/13 西郷武彦
◇昭和38(1963)年
6月 雑誌『デクノボウ』創刊
7月 雑誌『日本発見』創刊
1/2 河岡武春
9/16 浜松
10/25 渋沢敬三逝去
◇昭和39(1964)年
武蔵野美術大学講師
3/28 秋山ちえ子
◇生々しい肉声が聞こえてくる 赤坂憲雄(民俗学者)
執筆 ~ 生活費・研究費
平凡社、NHKのおかげ
藤田省三『保守主義的翼賛理論-長谷川如是閑・宮本常一』
◇風景と言うより情景だね 荒木経惟(写真家)
「人が呼ぶ」 引きつけられる魅力
無意識に出合った一瞬に拠っちゃって撮りたい
あったかいところばかり撮っている
情 温かい 気持ち
◇未踏の景観学のために 松山巌(小説家・評論家)
体系がないとされるのはスケールの大きさの違いのため?
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景観全体と学問に
民俗学 → 実践的な生き方に
◇この人は伊能忠敬みたいだね 森山大道(写真家)
10万カット 普通じゃない
「見る」ことへのこだわり エネルギー・センサー
徹底してみる 徹底して歩く
通過者の視点
「突出していない日本の場所を全部埋めている印象」
◇なにものにもなりようがない者の眼 河瀨直美(映画監督)
天気・季節
古都 奈良の変貌
◇父の写真 宮本千春
須藤功を観文研に
姫田忠義、伊藤碩男 ← 彼ら自身を発見者にしたかった
「地方とは何か、生活とは何か、民俗とは何か」
「はっと思ったら撮れ、おやっと思ったら撮れ」
◇とう、はなす、書く13000日 中村○(鐵か?)太郎
13178日
物書きの手による字
合理主義・機能優先主義
◇はじまりの話 伊藤幸司
民俗学の視点を持ったジャーナリストによる庶民の戦後、昭和史
☆「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版 2001年 ④ 【再掲載 2011.10】

◇山河への憧憬
十津川
「兵力の貯蔵地」
統一側に兵力
→ 別天地を守った
免租地だった(明6まで)
秘境へ
維新後、長年の「天皇」忠誠の功により全員士族に列せられた
戦前の調査 「油屋旅館」(城戸)
<第一次世界大戦を堺に庶民文化にある断層があった>
峠を越えて
十津川崩れ 昭和29(1954)年
谷瀬の吊り橋
地元住民が38戸で800万円をつくった = 「公」精神
十津川 玉置神社
◇農業のプロとして
佐渡の道
初めては昭和33(1958)10月
以後S34,35,37.11,38.12,39.3・6・8,40.8
「宮本ワールド」の展示場
① 佐渡国小木民俗博物館
② 八珍柿
◎「人づくりができて道づくりができる。道づくりができて初めて産
地づくりができる」
宮本は我が国屈指の篤農家
◇離島振興にかける
「済民」のアジテーター
昭和31(1961)田耕(田尻耕三)と初見
→ 昭和33(1958)本間氏宅に居候
昭和44(1969)鬼太鼓座
→ 現在の「鼓童」 代表・大井良明
「宮本はそそのかしの天才、山師」
離島の慈父
『日本の離島』未来社
昭和28(1953)年7月離島振興法
「光と水」 = 電気と水道がスローガン
山階芳正氏が幹事役
田中角栄と宮本常一
昭和25(1950)年 国土総合開発法 田中角栄
田中角栄と宮本常一はコインの裏表
◎ 田中 まず都会と結べ = 中央と直結
◎ 宮本 離島自体からエネルギーを
昭和41(1966)年
『日本の離島』第2集
昭和28年7億円
→ 昭和40年90億円
◎「…無駄遣いが多すぎる。家だけは立派になっているが生産の方は大
して伸びていない。家を改築する前にもっと再生産のための設備投
資に本気になれないものか。これではいつまでたっても島が本質的
な力で本土に追いつく日はない。」
◎「…資本主義的な思想の恐ろしさというようなものを近頃しみじみ思
う。しかも、それが国民全体の一つの思想になりつつあるのではな
いか」
↓
昭和47(1972)年
『日本列島改造論』
◎ 辺境の村や島にひそむ土地の精霊たちを根絶する一種「革命的」
な振る舞いであった
∥
田中角栄
息が詰まる程のコンプレックスで自分を呪縛し、日本の村々を
支配してきた古い呪術的神々を見殺しにすることに生涯を掛けた
政治家だったとも言える
昭和40年代後半宮本の旅は祖霊を失った人々を癒して歩く求道者めいた
旅になる
◎ 「宮本先生は現代の一遍上人だった」
◎ 「宮本さんは弘法大師の生まれ変わりのような方だった」