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「学ぶ喜びと命へのまなざし」 夜間中学校教諭・松崎運之助 『致知』2004.8 [読書記録 教育]

今回は 松崎運之助さんの雑誌インタビュー記事です
このブログで松崎さんを紹介するのは もう何回目でしょうか
わたしは松崎さんのファンです
ラジオ深夜便「あすへの言葉」で
松崎さんの話を聞き
目が潤むほど感動しました

松崎さんをモデルの一人にしてにして
山田洋次さんが映画「学校」をさくりました

映画以上に心動かされる話だと思います

本当の学びの姿の一つが ここに現れているのではないでしょうか







☆「学ぶ喜びと命へのまなざし」 夜間中学校教諭・松崎運之助 『致知』2004.8

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 夜間中学校とは、あまり知られていない存在かもしれません。家庭の事情や金
銭面など、いろいろな事情で義務教育を受けることができなかった人が通う学校
のことです。

 人には、「学びたい」と思うきっかけがあります。辛いときや落ち込んだとき、
悔しかったとき。理由は何にしろ、学びたいと思ったときに始められるのはステ
キなことです。

 その上、生徒さんはいままで苦労も多かったでしょうに、自ら学べる環境を整
えて来てくださったのです。

 ですから私の勤める学校は、いつでも入学できるようにしています。

 授業は、17時半から始まります。生徒さんのほとんどは仕事を持っています
から、たいていの方は開始間際に駈けこんでいらっしゃいます。ところが、時々
教室に行くと、恐ろしいことがあるのです。

「こんばんは」。

 そう言って教室に入ると、だれもいない。もともと少人数のクラスですから、
子どもの急病や残業などそれぞれの理由が重なってしまうことがある。そうなる
と、僕は貧血状態です。

 教師ですから「教えたい」という気持ちを持っているのに、それが叶えられな
い。卒倒しそうです。
 一人でも生徒が来てくれれば「先生」になれますから、教室をウロウロしなが
ら「誰か早く来てくれないかなあ」と生徒を待っています。

 やがて廊下を駈ける足音が聞こえてきます。遅刻しているので、当然足音は
「タッタタッタ…」急いでいる。「来てる、来てる」と、嬉しくて心臓が破裂し
そうになります。

 ところがまだ油断できません。教室は8クラスあります。足音だけでは僕のク
ラスかどうかわからないのです。その足音が8倍の競争率を突破して教室に入っ
てきたときの嬉しさといったら! 

 入り口まで飛んでいき、「よくいらっしやいました」と席まで案内して、年齢
にかかわらず肩をもんであげたくなります。人間相手の商売は相手がいなければ
始まりません。

「相手がいるのが当たり前、来るのが当然」という考え方でいると、大事なもの
をたくさん見落としてしまう気がします。

 いま僕が勤めている学校には、上は81歳、下は15歳まで60名ほどの生徒
さんが通っていらっしゃいます。年配の人にとって学校は憧れの場所ですから、
休み時間も惜しんで一所懸命勉強しています。

 若者はそれが授業の延長のように感じるのでしょう。休み時間になるとするこ
とがないので、廊下をただフラーリフラーリと、魂の抜け殻みたいに彷徨ってい
ます。

 すると、ガラス戸一枚はさんでガリガリ勉強していた年配の方が、若者に声を
かけます。

「あんちゃん、お願いだからこの漢字の読み方教えて」。

 声をかけられた茶髭の若者はすかさず逃げる態勢。

「難しい漢字が読めるくらいなら、ここに来てないよ」。

 夜間学校に通ってくる若者には、自分の周りに出入り禁止の円を描いて、他人
との交わりを絶っているような子が多い。関わり合いたくないのです。しかし、
声をかけた年配の方は気合が入っていますから、どこまでもついていきます。

「そんなことないよ。あんちゃんなら、きっと読めるはずだよ。私だって、習っ
たときはちゃんと読めたんだから。でも私が覚えた漢字は、一度学校の門を出る
と、みんな散歩に行って帰ってこなくなっちゃうんだよね。教えて、教えてよ」。

 根負けした茶髪の若者が面倒くさそうに視線を投げると、そこにあるのは「花」
とか「谷」という漢字だったりするのです。

 驚いた若者が教えてあげると、年配の方は

「あんちゃんは本当に気持ちのやさしい、頭のいい子だねえ」

と、ほれぼれした目で若者を見ます。

 これで、馬鹿にされたと思ってキレた生徒はいません。なぜでしょう。それは、
心から出た言葉だからです。理屈で心が動くことは少ないですが、本心から出た
言葉は必ず人の心を打つのです。


 気がつくと信じられないことが起こっていました。世の中の面倒なことやわず
らわしいことを避け、毎日をボーっと過ごしていた茶髪の若者が、休み時間を潰
して、毎日年配の方に勉強を教えだしたのです。

 茶髪の若者と70代のご婦人が額を突き合わせて勉強する。こういうステキな
光景は、いまの日本では見られなくなってしまいました。若者は若者同士コンビ
ニの前にたむろし、年配の方は年配の方同士ゲートボールや温泉へ。社会が年齢
で分けられてしまったのです。

 これでは、お年寄りの知恵や経験が若い世代に伝わっていきませんし、若者の
いまを生きる感性が年配の方に伝わらない。時と場所を共有していながら、こん
なにもったいないことはありません。

 世代を超えた交流が、どれほど人の心を育てるのに役立つものでしょうか。 


 いま、教育の現場ではいじめや犯罪の低年齢化が進み、さかんに心の問題が叫
ばれています。しかし「心」とは、日々の生活の中で育っていくものだと思いま
す。事件が起きてからあわてて、「心の教育」だなんて、心に対して失礼です。

 確かに、核家族化が進み他人とのつながりの薄れた現代は孤独で、どうしても
自分の気持ちが見えなくなって、支えきれなくなることもあるでしょう。
 心の専門家にすがりたい、そんな気持ちもわかります。


 でも、もし、心の専門家と呼べる人がいるとするなら、僕は、自信を持って勧
められる人が一人だけいます。それは皆さん自身です。これほど素晴らしい先生
はいません。

 皆さんをいままで支えてくれた親や励ましてくれた仲間など、自分の中に宝物
がいっぱいあります。だから人に頼らなくても、自分の足元を掘り下げていくだ
けで、たくさんのものが見えてきます。


 さて数日後、入学以来難しい顔などしたことのなかった茶髪の若者が、複雑な
顔をして職員室にやってきました。その上、僕の隣に腰かけて、深いためいきな
んてつき始めたのです。


「あの年配の方は本当に一所懸命勉強されていて、下校時にはいつも深々とお辞
 儀をして『きょうはありがとう。とてもよくわかったよ』と言う。自分でも信
 じられないことに、『早く明日にならないかなあ、あの人に会いたいなあ』と
 いう気持ちに生まれて始めてなった」

と。

「しかし、次の日になると昨日の内容をすっかり忘れていて、いくら教えても次
 の日にはまた忘れている。俺の教え方が悪いんだろうか」。

 悩む彼の横顔を見ながら、僕は「彼はいい『学び』をしているなあ」と思いま
した。彼がいま悩んでいることは、彼自身の悩みではありません。にもかかわら
ず、人と関わり合いになったばかりに、人の悩みまで抱え込むことになってしま
ったのです。

 勉強とは、知識や点数など安っぽい処世術のためにするものではなく、幸せの
ためにするものだと思います。

 幸せとは、一人でなれるものではありません。困っている人を気遣い、小さな
幸せを分かち合うことで養われていくのです。

 僕も学歴の階段を上ってきた一人ですが、学歴の階段というのは税金、つまり
たくさんの人の苦労でつくられています。自分が一所懸命勉強して試験に合格し
たから、会社や社会でいまの地位を与えられていると考えるのは思い上がりです。

 だから、「学ぶ」ときは、陰で支えている人たちの思いも一緒に学んでくださ
い。そして社会に出たら、学んだことを、仕事や社会貢献など皆さん自身の方法
で、社会に返していってほしいと思います。 
                        (要約抜粋・文責編集部)

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