「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版 ② 2001年 【再掲 2011年10月】 [読書記録 一般]
今回は 6月8日に続いて 佐野眞一さんの
「宮本常一が見た日本」2回目の紹介です
2011年の記事の再掲となります
佐野さんの 思いがたっぷり入った本です
佐野さんがいかに宮本常一さんのファンかということがよく分かります
ここにも紹介されていますが
岩波文庫から出ている『忘れられた日本人』
大変面白く読みました
今日は 学校の畑 サツマイモの畝にマルチをかけました
いよいよ苗をさすばかりです
天気が気に掛かります
※浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー
ものづくりの街 浜松
行くたびに新しい感動が得られる 山田卓司さんの世界
現在「海洋堂×小池徹弥 ネイチャージオラマワールド」展開催中(6/28まで)
ホームページをご覧になってください
☆「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版 ② 2001年 【再掲 2011年10月】
◇民俗学者の誕生
十万カットの写真
宮本常一記念事業 昭和61(1986)年~ 宮本常一記念館建設の目途を
逓信講習所 100/1000名入学
→ 大正13(1924)年5月卒業 高麗橋郵便局に勤務
路地裏の観察者
住民簿調べ - 鳥瞰図・俯瞰図 まず郵便局から訪ねた
秋に脚気 → 帰省
大正15(1926)年4月 天王寺師範学校二部に入学 結核を避けるため
読書に没頭-立身出世への気負い
兵営から教壇へ
昭和2(1927)年3月 天王寺師範学校卒業 小学校本科正教員免状
12年間の教職員時代
その前に短期現役兵として約五ヶ月間大阪の第八連隊に
宮本のコンプレックスは明るさに向かった
昭和2年9月 現・岸和田市立修斎小学校に赴任
昭和3年4月 天王寺師範専攻科(地理学)に再入学
昭和4年3月 現・田尻町立田尻小学校に着任
郷里での療養生活
昭和5(1930)年3月 一年間絶対安静
それが文学青年をタフな民俗学者へと変えた
「旅と伝説」に昔話を送る → 柳田から手紙と著書
◇旅のスタイル
昭和35(1960)年 未来社より(後に岩波文庫)『忘れられた日本人』出版
「対馬にて」「梶田富五郎翁」
渋沢敬三「…聴くことの中に指導があった」
ガリ版刷りの『口承文学』
昭和7(1932)年3月 現・和泉市立北池田小学校
昭和8年 和泉郷土談話会に参画→大阪民俗談話会→近畿民俗学会
『口承文学』同人誌を出版
郷土に生きる人々の知恵を民俗学に生かし、それを何
とか他の集落の人々に伝えていくことはできないか!
昭和9年3月 養徳尋常小学校に転任 「アカ」疑念
昭和9年9月室戸台風により全壊・廃校
昭和10年2月 現・高石市立取石小学校に着任
柳田国男・渋沢敬三との出会い
昭和9年10月28日 京都で柳田国男と初対面
昭和10年4月10日 第六回大阪民俗談話会に渋沢敬三が姿を見せる
足半(あしなか)についての講義
「傍流でよく状況を見ることが大切だ」(渋沢)
空襲で失った旅の記録
昭和11年 「河内国瀧畑左近熊太翁旧事談」
6~10月 天川・十津川
昭和12年1月 丹生川-新潟-会津-越前石徹白
昭和13年 東北の凶作地帯 3月に近江・湖北
昭和14年10月25日 アチック入所
28歳の妻と長男を置いて
昭和19年1月 奈良県郡山中学校嘱託教師 奈良県下
昭和20年4月 大阪府農務部嘱託職員 大阪府下
7月9日 堺の空襲で採集100冊・原稿1万2千枚
「宮本常一が見た日本」2回目の紹介です
2011年の記事の再掲となります
佐野さんの 思いがたっぷり入った本です
佐野さんがいかに宮本常一さんのファンかということがよく分かります
ここにも紹介されていますが
岩波文庫から出ている『忘れられた日本人』
大変面白く読みました
今日は 学校の畑 サツマイモの畝にマルチをかけました
いよいよ苗をさすばかりです
天気が気に掛かります
※浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー
ものづくりの街 浜松
行くたびに新しい感動が得られる 山田卓司さんの世界
現在「海洋堂×小池徹弥 ネイチャージオラマワールド」展開催中(6/28まで)
ホームページをご覧になってください
☆「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版 ② 2001年 【再掲 2011年10月】
◇民俗学者の誕生
十万カットの写真
宮本常一記念事業 昭和61(1986)年~ 宮本常一記念館建設の目途を
逓信講習所 100/1000名入学
→ 大正13(1924)年5月卒業 高麗橋郵便局に勤務
路地裏の観察者
住民簿調べ - 鳥瞰図・俯瞰図 まず郵便局から訪ねた
秋に脚気 → 帰省
大正15(1926)年4月 天王寺師範学校二部に入学 結核を避けるため
読書に没頭-立身出世への気負い
兵営から教壇へ
昭和2(1927)年3月 天王寺師範学校卒業 小学校本科正教員免状
12年間の教職員時代
その前に短期現役兵として約五ヶ月間大阪の第八連隊に
宮本のコンプレックスは明るさに向かった
昭和2年9月 現・岸和田市立修斎小学校に赴任
昭和3年4月 天王寺師範専攻科(地理学)に再入学
昭和4年3月 現・田尻町立田尻小学校に着任
郷里での療養生活
昭和5(1930)年3月 一年間絶対安静
それが文学青年をタフな民俗学者へと変えた
「旅と伝説」に昔話を送る → 柳田から手紙と著書
◇旅のスタイル
昭和35(1960)年 未来社より(後に岩波文庫)『忘れられた日本人』出版
「対馬にて」「梶田富五郎翁」
渋沢敬三「…聴くことの中に指導があった」
ガリ版刷りの『口承文学』
昭和7(1932)年3月 現・和泉市立北池田小学校
昭和8年 和泉郷土談話会に参画→大阪民俗談話会→近畿民俗学会
『口承文学』同人誌を出版
郷土に生きる人々の知恵を民俗学に生かし、それを何
とか他の集落の人々に伝えていくことはできないか!
昭和9年3月 養徳尋常小学校に転任 「アカ」疑念
昭和9年9月室戸台風により全壊・廃校
昭和10年2月 現・高石市立取石小学校に着任
柳田国男・渋沢敬三との出会い
昭和9年10月28日 京都で柳田国男と初対面
昭和10年4月10日 第六回大阪民俗談話会に渋沢敬三が姿を見せる
足半(あしなか)についての講義
「傍流でよく状況を見ることが大切だ」(渋沢)
空襲で失った旅の記録
昭和11年 「河内国瀧畑左近熊太翁旧事談」
6~10月 天川・十津川
昭和12年1月 丹生川-新潟-会津-越前石徹白
昭和13年 東北の凶作地帯 3月に近江・湖北
昭和14年10月25日 アチック入所
28歳の妻と長男を置いて
昭和19年1月 奈良県郡山中学校嘱託教師 奈良県下
昭和20年4月 大阪府農務部嘱託職員 大阪府下
7月9日 堺の空襲で採集100冊・原稿1万2千枚
nice&ご訪問ありがとうございました。
一瞬 わが父か?と思いました。
学校の先生だったことや学校の畑仕事、本の趣味が似てましたので。
生きていれば82歳、こんなに若い文章は書けません。
失礼しました。
by ニャニャワン (2013-06-11 12:29)
ニャニャワン さん ありがとうございます
お父様と似ているとのこと
友人からは一世代違うのではと時々からかわれるわたしです
よろしくお願いします
by ハマコウ (2013-06-11 22:49)