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キーワード「新津」⑤-平成14年度ふるさと博物館  浜松市博物館・新津公民館   太田幸治調査員 H14.4.13(1) / 「半僧坊由来-引佐郡引佐町奥山」<引佐郡引佐町奥山(現在は浜松市)の伝説(3)>【再掲載 2013.12】 [読書記録 郷土]

今回は、9月16日に続いて、わたしの教育ノートから、
キーワード「新津」5回目の紹介です。



浜松市、新津地区。浜松市南部海岸沿いの地区です。
かつては、浜名郡新津村。

「新橋」と「米津」から、一字ずつとって「新津」。一部合成地名です。





今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「なぜ新津地区にこんな立派なお寺(臨済宗方広寺派中本山=大通院)があったのか?」

「① 田尻・法枝付近に昔港があったのではないか
② 小沢渡-八幡山(現可新図書館)  八幡町とのつながり」


・「瓦の画期は織田信長による
それ以前はお寺のもの
江戸中期に桟瓦の発明 → 寺以外でも使われるようになった」


・「中世の新津地区には大通院を勧請するだけの力を持っていた人が出るほど栄えていた
  のではないだろうか」






もう一つ、再掲載となりますが、
大通院の本山である方広寺が半僧坊と呼ばれるようになった由縁、
「半僧坊由来-引佐郡引佐町奥山」を載せます。
臨済宗のお寺さんが遠州には多いように感じます。
特に、方広寺派が新津地区には多いように思います。



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☆キーワード「新津」⑤-平成14年度ふるさと博物館  浜松市博物館・新津公民館   太田幸治調査員 H14.4.13(1)



◇大通院 

□臨済宗方広寺派中本山
 
 神仏習合 -  半僧坊
 

 なぜ新津地区にこんな立派なお寺があったのか?

   ① 田尻・法枝付近に昔港があったのではないか

   ② 小沢渡-八幡山(現可新図書館)  八幡町とのつながり



新津地区は中世には栄えていたのではないか?




□「県史・中世資料編」より
      
 「今川氏真判物」(1567年)
浜松市新橋町大通院文書
 
    浜松茶栽培初出




□往時の大通院推定図

 発掘現場は「開山堂」か「禅堂」の範囲




□昨年度の試掘調査

 溝遺構 -  中世・近世

   遺物 … かわらけ・瓦

瓦の画期  織田信長

        それ以前はお寺のもの
江戸中期

桟瓦の発明 → 寺以外でも使われる
寺・庄屋・代官屋敷

   かわらけ  今の紙コップのようなもの

使い捨て = 人数の集まる場所に
       ①宗教関係か②館








◇中世の新津地区

 ①八幡宮  

   浜松荘をまとめる宗教的役割

浜松荘には八幡宮に関わる伝承が多い

東の中心…八幡町の八幡宮

西の中心…神久留神社(神ヶ谷町・八幡宮)
入野・志都呂・小沢渡



 ②海上交通の要衝の湊

馬込川  天竜川の一部  江戸期「古天竜」



    ※ 浜松の中心部から馬込川をたどると新津地区に



田尻・新橋・小沢渡に沼田池・高塚池

= 馬込川の入江 → 良港

    ※ 田尻・堤に港があったという伝承

「堤千軒」…都会を指す用語 
           (例)草戸千軒遺跡
港湾施設とのつながり

   ∥

◎中世 

 新津地区には大通院を勧請するだけの力を持っていた人が出るほど栄えていたのではな
いだろうか。
















☆「半僧坊由来-引佐郡引佐町奥山」<引佐郡引佐町奥山(現在は浜松市)の伝説(3)>【再掲載 2013.12】


 浜松地方での、明治のころの旅行の楽しみといえば、周智郡春野町犬居の秋葉山脂でと
引佐郡奥山の、半僧坊参詣位のものであった。



 半僧坊とは、臨済宗方広寺派本山、深奥山方広寺の境内に把られている一堂である。




 600年の昔のことである。


 奥山城には、奥山六部次郎藤原朝藤が、部下数千を率いて、この地方を統治していた。


 延元元年(1336年)京都では、南北に分れて兵乱が起った。この時、後醍醐天皇の
第二皇子、宗良親王が遁れてこの城に入った。


 つづいて興国4年には、後醍醐天皇の第十一皇子、無文禅師が遁れてきた。


 無文禅師はこのごろすでに、人間相剋の世に無情を惑じて、剃髪して憎となっていた。



 奥山次郎朝藤は、

「ようこそ」

と、わが身を頼られる嬉しさに、奥山城の奥に、一寺を建立して、禅師を迎えて開基とし
た。

 これが方広寺である。



 禅師がかくして方広寺を開くときくと、この裏山に数百年来住んでいる山神は、不愉快
でならなかった。


「おれの住居に寺を建てるとは、怪しからぬことだ」


と怒っていた。


 そして噂にきけば、無文禅師は非常な名僧智識であるというが、


「人間ども、なに程のことやある」


と、彼はある日、山を下りて、方広寺を訪れてきた。


「われはこの山に、年久しく往む山神である。和尚と問答を試みんぞ」


といいだした。


「よし、やろう」


 禅師はこころよく迎えて、問答を始めた。


 多年山神として山に往み、仙術を会得している山男と、新進の学問に、頭脳を磨き上
げた名僧との問答は、言々火をはぎ、句々焔を燃したが、ついに禅師の勝利となってし
まった。


「私は到底、禅師にはかないません」


 山男は兜を脱いだ。そして禅師の名僧なのに、心から敬服して、


「この上は是非とも、御僧の弟子として下さらんか」


と願いだした。



「いやいや、あなたは仙術を会得した方、私如き凡人の弟子とならなくても」


「いえ、貴僧のお教えこそ、深く頃きたいもの、是非ともに」


 山神のたっての願いに、禅師は弟子となることを許してやった。


「では、憎となるなら、頭を丸めて」


「是非にも」



 禅師は剃刀を持って、山神の頭をそり始めた。

 しかし年久しく山に住んで、頭髪には嘗て一度も櫛を入れた事がないこととて、剃るそ
の痛さはたえられなし。


「痛い痛い」


「もう少しだ。がまんしなされ」


「痛い痛い、もうこれでいい」


 流石の山神もがまんがてきなくて、頭を抱えて逃げだしてしまった。


「駄目だよ。それでは半僧だよ」


 禅師は笑った。


「いい、いい、半僧でよろしい。おれは半憎でこの土地を守護しよう」


 山神はそういって、方仏寺の傍に一堂を建てて、そこに静かに往んで、方広寺の守護神
となったのである。

 それでこれ以来、これを半僧坊というのであると。



 この半僧坊は非常に霊験ある神であるという。

 いつのことであったか、浜松市○○地区の、ある寺の住職が、方広寺で無言の行を修め
てしる時、ふとして禁を破った。とその時どこともなく、


「今ただちに、物見せん」


という声がした。住職ははっとして、身の震うのを覚えた。


 住職は禁を破ったこととて、今は本山にもいられず、下山して自分の寺に帰った。

 所がその時すでに、寺は焼けて灰となっていた。


「おお、何日火事が」


「昨夜の8時に」


「えっ8時?」


 それは彼が、本山で禁を破って、不思議な声をきいたのと、同じ時刻であったというこ
とである。


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