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「『児相』虐待からの再生 - この十数年になにがあって、児相はなにか変化したのだろうか…」団 士郎(立命館大学大学院・応用人間科学研究科教授) 『月刊少年育成』2003年6月号① [読書記録 教育]

今回は「月刊少年育成」2003年6月号(現在休刊中)から
団士郎さんの「児相虐待からの再生」
を紹介します

団士郎さん 「月刊少年育成」誌では
「木陰の物語」を連載していました
細やかな観察に深く考えさせられました

「児相は変わった」
学校現場でも しばしば耳にします

何が どう 変わってきたのか

団さんの文章で 少し分かった気がします

昨日は 週末の定例となった 中央図書館で調べもの
1964年の雑誌「東海展望」を読み 書き写しました


水石ブームというものがあったこと
積志の甘露寺のいわれ
水野忠邦の悪政を訴える「破地士等巣」
武田氏との戦いで逃げ回った徳川家康の様子
町ぐるみ「小楠」姓の浜松市南区堤町「おらが先祖は大楠公」

等 おもしろく読みました

いずれ報告できれば と考えています







☆「『児相』虐待からの再生 - この十数年になにがあって、児相はなにか変化したのだろうか…」団 士郎(立命館大学大学院・応用人間科学研究科教授) 『月刊少年育成』2003年6月号①

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 児童相談所(以下児相)を外から見ていて、そしていくつかの地域の児相に
継続的に関わっていて思うことを書いてみる。
 ただ断っておくが、児相こうあるべしなどと言いたいわけではない。感覚、
感想の類だと思っておいてもらうのがよい。

 児相職員として現役であった頃から私は、児童福祉法や心理学的理論などを
ベースに発言や行動を起こすことは少なかった。
 それよりも時代の流れから感じる必然性や違和感、どこかで決定されて降り
てくる施策に対する疑問などがきっかけの方が多かった。これは今もそれほど
変化はない。

 現職で児相の渦中にいたのは、もう十年以上も前の事である。

 当時、人事異動で児相を離れるのは私には耐え難いことだった。
「昇格人事だから…」
と労働組合の役員にいわれても、なお公務員退職も天秤にかけてしまうほど、
未練の残った精神薄弱者更生相談所(現知的障害者更生相談所)への異動だ
った。(退職したのはこの5年後のことである)

 それが十数年経った今、長く勤務した人が異動で児相を出ることになった時、
静かに去ってゆき、戻りたいとあまり言わなくなっていると聞く。
 旧知の中にも「もう児相はいい…」とバットを置いた人がある。この十数年
になにがあって、児相はなにか変化したのだろうか。


◇児童虐待以前

 十数年前といえば、阪神大震災のPTSDも、オウム信者の子ども達を機動隊
が取り囲んだ一時保護所で抱え込んだりする状況もまだ現れてはいない。
 児相のワイドショーデビューになった児童虐待も、まだ養護ケースの一部に
含まれている程度の認識の時代だった。

 その一方で、不登校相談は累積滞留をきわめていた。学校は児童・生徒の各
家庭に立ち入るのは、教育の限界を越えていると認識していた。
 だから、登校したら対応はするが、来ないものは学校としては致し方ない、
そんなことを言っていた時代だった。(それが今では、スクールカウンセラー
の全中学校配置や適応指導教室、こころの相談員だのなんだのと、校内には非
常勤専門家があふれかえっている。そして教師の半分が辞めたいと思ったこと
があるという)

 大雑把ではあるが、さらにもう十年遡った児相を思い出してみよう。
 たまたま手元に1984年の心理判定業務日誌がある。そこには連日のように
地域の発達相談への出張が記入されている。

 1970年代から世を挙げて隆盛になった就学前の発達保障、療育活動が児相
の量的業務の中心だった。
 明けても暮れても発達検査をおこない、保健婦(現・保健師)と一緒に母
子への助言を繰り返していた。しかし現在、これらの仕事はほとんどが市町
村に委譲された。より生活エリアに近い単位の場で、きめ細かにおこなわれ
る仕事になっていった。

 そもそも戦後の浮浪児対策にスタートした…などと大昔を振り返らなくて
も、児相はいつもこんな風に、時代の要請の中で業務の中心を変えてきた。
 それはある意味で真っ当な公的機関であったればこそだと言える。だから
こんな風に時代のニーズに合わせて、付け焼き刃ながらも「子ども・子育て
・家族」に向けてのサービスを展開してきた。

 乱暴な言い方だが児相は同じ仕事を十年していたことのない機関だった。
これが専門性・専門家という言葉に、ずっと脅かされ易い体質を持ち続けた
要因の一つである。

 さらに全国のあちこちにあったに違いないこんな側面も、私の経験から述
べておく。
 ある時期、京都府児相においては、発達障害相談旋風が吹き荒れた。これ
は主にその時期に中心的存在であった人物(心理職)のなせる技だった。
 心理セクションの児相内における影響力は、全国各地においても、多かれ
少なかれこういう構造を持っていた。

 そのあおりを食ったのが、1970年代からコンスタントにあった「登校
拒否・不登校相談」だった。地域の親たちや学校教員は、児相はもう不登校
問題は相談にのってもらえないのだろうと来談をひかえてしまった。そして
それまで経過のあった不登校の親などは、異動で他部門の仕事に就いていた
元職員を頼って、個人的に訪ねるような事態が起きていた。

 時代の風と、その時に配置された職員に属する専門性に翻弄されやすい児
相、これが戦後50年以上にわたって繰り返されてきた歴史だ。


◇児童虐待

 こんな中で巡り会ったのが「児童虐待」である。これが児相を変えたのは
事実である。

 児童虐待防止法が民法や児童福祉法の従来の解釈や運用慣行に比べると、
「対策を講じなかったことの責任」を強く意識させるものになったことで、
仕事は傍目からも明らかに変わった。

 今や児相に対する世間の期待は、ろくでもない親から子どもを護る正義の
代理人である。
 そしてその正義は、人権や差別撤廃をうたうスローガンのように、正義で
あるが故に論議の余地なさをあからさまにしている。

 中で働く人は、

「あれこれ論じているうちに、もし何かあったらどうする!」という世間の
強迫に対抗できない事態になっているのだろう。


 処遇意見よりも児童福祉法の条文が頻繁に飛び交う児相など、かつて一度
もなかった姿である。これまで児相で繰り返されてきた変化に比べて、今回
の変化が根が深くたちが悪いと思う要因がここにある。


 法を掲げて果敢に実行する、実のところこういった仕事の仕方はそれほど
習熟度が求められるものではない。そして関わった親子の未来に関しては、
霧の中のまま次のケースに向かわなければならない毎日になっている。
 長年働いてきた人にとって以前と比べると、充実感は少なく疲労感の大き
い仕事になってきていることだろう。

 かつては存在した、親からの「ありがとうございました」「おかげさまで」
の感謝は消え去った。
 このような日々では、異動希望のサイクルが短くなるのもやむを得ない。
 そして職員の顔ぶれの変化の早い行政機関が、自己防衝的で内省に乏しく
なるのは今更言うまでもない。気がついたら、三年が限度とか、貧乏くじな
どと噂される職場になっていたりするのかもしれない。


 虐待ブームで近づいてきた人たちが、ぼつぼつ離れ始めているのは結構な
ことである。虐待の噂に騒いで、親から隔離するところまでにしか関心の持
続しない正義漢が飽きるのは当たり前で、それをどうこう言っても仕方がな
い。
 だが現実はやっと、親子分離の後どうするかの議論が切実になってきたと
ころだと思う。

 家族再統合など、まだお題目にすぎない状況だろう。長く児相に関わって
きた人なら虐待ケースでなくても、

「施設措置した子を家庭に戻したら元の黙阿弥…」、

こんな経験は既にあっただろう。そこで、

「あの家庭では仕方がない、あんな親ではどうしようもない…」

とつぶやいた記憶のある人も多いはずだ。

 児童虐待問題の展開は同じ図式である。だからこれは新たに始まったもの
などではない。児相の業務パターンの繰り返ししである。だから今、児相に、
いや私たちの社会に、何をするのかが問われている。               

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PATA

児童虐待は改めて考え直さなければいけない問題ですね。
児童相談所の役割もしかりでしょう。
by PATA (2011-12-04 19:23) 

ハマコウ

PATAさん nice!とコメントをありがとうございます

児相と聞くと 今では 児童虐待を思い浮かべる人が多いと思います
しかし 児相は多岐にわたる相談・対策に当たっています 
児相職員の努力は大きいと思います 
限られた職員で 増えた相談にどう対処するか… 大きな課題です
by ハマコウ (2011-12-04 19:44) 

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