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(1)「選考論文の書き方」吉村安夫 日本教育新聞社 1990年 ②(後半) (2)「心の声-若い時代に、自分で探し当てた言葉というのは…」西浦達雄(作曲家) 『月刊少年育成』2003年6月号より [読書記録 教育]

今回は、3月29日に続いて、吉村安夫さんの
「先行論文の書き方」2回目(後半)の紹介です。




今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「平凡な教員生活に刺激を与えるのは,専門分野や当面する課題についての研究会であ
  る」


・「教師が働けばそこに必ず問題が発見できる」


・「子供を見る目 親を見る目 社会を見る目」




選考方法については、各教育委員会によって大きく違います。
オープンになっているかどうか、透明化が課題だと感じています。





 もう一つ、随分前に休刊となった月刊「少年育成」誌より、西浦達雄(作曲家) さんの、
「心の声-若い時代に、自分で探し当てた言葉というのは…」を載せます。
変に構えてしまっている自分が、子どもたちに気使わせてしまうのかもしれないと、
心配です。
 休刊を改めて惜しく感じます。
 









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(1)「選考論文の書き方」吉村安夫 日本教育新聞社 1990年 ②(後半)

◇管理職選考と日常の勤務

1 日常勤務の姿勢

(1)情報に敏感であること

  青少年に関するもの 家庭・地域に関するもの

政経社文化についても



(2)教育紙(誌)教育関係書を友とすること

管理職は経営者

  学校経営論,人間関係論,組織論



自らの経営論

実践論としての自分自身で具体化を



(3)研究・研修・講習会を大切にすること

   平凡な教員生活に刺激を与えるのは,専門分野や当面する課題についての研究会で
  ある



研修時間を生み出す手だても考えられないようでは管理職としてお粗末

            ↓

   何よりも自ら進んで研究発表をするという態度を身に付けるべき



校内外を通じて研究のリーダーとなることを忘れてはならない

= 日常の研究記録はこまめに整理する



(4)記録し考え創意工夫すること

   考え創意工夫することは面倒だが管理職


事故発生
-配慮すべき事項

① 応急措置

  ② 報告(校長・教頭)

③ 協力要請(養教,生徒指導,学年主任,担任)

④ 校長(教頭)の指示を受け組織活動開始
・病院,警察,消防,保健所 ・生徒指導教育委員会への報告(電話記録)

     ⑤ 父母への連絡(必要に応じて家庭訪問)

⑥ 事後処理
       
       ア 事後の反省分析   
       イ 二次災害防止 
ウ 改善すべき指導事項
       エ 校内協力体制の見直し
オ マスコミ等への対応

     ⑦ 教育委員会への正式な対応





2 選考対応の基礎的・基本的事項

(1)日常の教育活動に問題意識を持つ

教師が働けばそこに必ず問題が発見できる



(2)発想を変える



(3)見るべきものを見る 

    通達等見るべきものは見る



(4)社会的な修練を積む

  人とのつき合いは大切である

   - 社交性 人間としての修練

    子供を見る目 親を見る目 社会を見る目

    立場-考え-方策

 





◇~したい

  ~に努める         努めに努める

 努力を続ける すべく校長を助ける

 全力をを傾注する 補佐に徹する

 さらに研鑽に努める 校長の意を体し努力する

 徹底を図る 校長の意を対し全力を注ぐ

 教頭の職種を自覚し 目ざし補佐に当たる

 行政の意を体し指導助言に当たる

 行政の意を体し全力を注ぐ

 




◇序文の組み立て

論(教育論・教職論等) → 実態(事例) → 分析・問題点 → 改善の策(方向)

 → 管理職の姿勢

 



◇本分記述の基本-論点を押さえる

 Ⅰ 論点を押さえる


Ⅱ 柱はどう立てるか
(1)柱の役割  タイトル的性格

  (2)柱は何本が適当か
1000字 2本

1500字 2~3本

2000字 3本

(3)柱の表現はどうするか

(4)柱の長さ,記述,つながり

(5)柱の表記

(6)知性が伺われる

  (7)柱の適否と練習
~P88まで












(2)「心の声-若い時代に、自分で探し当てた言葉というのは…」西浦達雄(作曲家) 『月刊少年育成』2003年6月号より

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◇球児達の言葉

 冬も終わりに近づいた3月初め、前年の全国高校野球、春の大会に出場した北海道のあ
る高校へ招かれた。


 それはチームの一人が、あるプロ球団へ入る祝いの会と、三年生を送る会、そして卒業
式と三日間の日程であった。



 第一日目、私は緊張しながらも何時ものように、自分なりに精一杯の感動を持って、演
奏を滞りなく終えた。


 次の朝、学生達が寝起きする宿舎で目を覚ました私は、食事の後監督の部屋に通され
、山積みにされた学生達の日記に驚いた。


 球児達は、どんなに練習が辛かろうと、寝るのが遅くなろうと毎日、日記を欠かさない
という。


 監督も、百冊程あるその日記全てに目を通し、赤線を引いてその文章に対して、賞賛や
賛同の言葉、意見等を返す。


 そして、私をもっと驚かせたのは日記の裏表紙に書いてあった、球児達の言葉である。


「辛いとゆう文字は、幸せという文字に似ていますね」


「心が変われば、行動が変わる。行動が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば、運命
 が変わる」

といった内容であった。



 道内の15~16歳の少年が親元を離れ、一日中他人の目のある中で生活を送り、そし
て毎日の苦しい練習、先輩がいる寮内の厳しい規則に耐え、学校に通っている。


 そんな少年達が、たとえ他から借りてきた言葉にせよ、自分がいつも目にする日記帳の
裏表紙に、こんな言葉を綴っている。




 自分にも覚えがあるが、こうした若い時代に、自分で探し当てた言葉というのは、その
人間が後の人生を考えるのに、多大な影響を与えるものである。


 そういう意味では、毎日の日記も勿論だが、自分が感じた、自分が見つけだした心に残
る言葉を綴っている、この裏表紙は、彼等にそれ以上の影響を与えるであろうことが想像
できる。


 私はその朝、自分がいかに色々な人の言葉に影響を受けて、人生を送ってきたかを改め
て思い返していた。
                        


 音楽大学の学生と夏、淡路島に合宿に行った夜のことである。


 ある学生の「私は、お父さんが嫌いでたまらへんねん」という話題から他の学生が色々
な意見を出し始めた。


 その時の学生達は、生き生きとした目をし、授業中のそれとは随分違う印象を受けた。


 こういった開放感の中で、若者が自らの意見を率直に、自分の言葉で言う様は、実に微
笑ましい。


 また、彼等が自分の心に残る言葉を探すのにも、私自身、学生時代の自分を呼び覚まし、
彼等と同じ目線に立って話すのにも、絶好の機会である。



 話し合いの中で、


「お父さんが嫌いやという言葉を、自分の中でいい続けると、どんどんそれが膨らんで、
 思っている以上に嫌いになってしまうよ」


という意見があった。


 この学生は、小学生のように小さくあどけないのである。

 また、


「私は、お父さんやお母さんに癒されたい。だから両親の前では、出来るだけ笑顔を絶や
 さないでいます」。


 彼女は、本当に何時も笑顔を絶やさない、純朴な学生である。


 この二つの意見は私の中で、想像もしていないものであった。


 学生達は、もっと身勝手で、自分の思っている事と行動が一致しない、矛盾の世界に生
きているものだと思っていた。そして、それこそが若者の証であるとも感じていた。


 自分も通ってきた、学生が現在歩いている道を私自身は決して忘れてはいない筈であっ
た。


 若い頃に決して忘れてはいけないと、堅く誓っていた積もりであった。


 しかし、この夜、彼等の話を聞いて、彼等の目線に立っている筈の自分の目が、大人が
考える若者の世界観になってしまっていることに、気づいたのである。


 この話とは対照的だが、以前、専門学校で教え始めた頃に、私は若い学生達の目が怖い
と思った時期が、随分長い間続いたことがある。


 何か見透かされているというか、自分の不甲斐なさを感じれば感じる程、その思いは強
くなっていった。


 その後、同時に音楽大学でも教え始めた。


 そして、半年が過ぎようとした頃、駅から学校まで、ある学生と先生という立場ではな
く、一人の人間として、今の自分の心境を冗談まじりに話してみたところ、


「先生がこんなに気さくな人やとは、思えへんかったわ」


という、日頃、学生との接し方に、気を使っている私にとっては、意外な答えが返ってき
た。


 考えてみるとその頃の私は、自分の不甲斐なさと、それを感じている後ろめたさを、学
生に悟られまいと、彼等の前で虚勢を張っていたようなのである。


  私は、自分がそれ迄に、知り得た全ての知識を、学生達になんとか伝えようと必死に
なっている為、私自身が、虚勢を張っているとは夢にも思っていなかった。


 そればかりか、自分は正しい道を選択している、だから、学生のそんな表情には屈せず、
そういう思いを彼等に伝えるのが、自分の使命だと感じていた程である。


 私が若かった頃、同じ事を二回以上繰り返して話す大人が、周りに沢山いた。


 そういう大人は、往々にして、押し付けがましく威圧感があったのを覚えている。


 ある時、私自身がこれと同じ行動をとっていることに言い知れない、恥ずかしさを感じ
た。


 その日以来、自分自身を注意深く観察していると、私は自分の考えが相手に十分通じて
いるかどうか疑わしい時や、どうしても今自分が発している言葉に、関心をもってもらお
うと思った時、その現象が現れるようなのである。


 思い返してみると、怖く映る学生の目は、私が自分の考えを、彼等のキャパシティーを
超え押し付けている時によく見れるのに気がついた。


 そう、私は学生の前でも、同じ事を二回以上繰り返し話していたのだ。


 その時の学生の目は、疑いや反発を表現しているのではなく、大半が怯えていた。


 つまり私は、怯える学生の目を、自分が見透かされていると錯覚し、それに負けまいと
自分の意見を押し付け、虚勢を張っていたのである。


 しかし、そういう思いを振り払って彼等に接し、目を見てみると、不思議な程、愛おし
く、純朴に見えた。


 そして自分が今まで、裸の王様であった事に気づいたのである。私は、若者の心が見え
ないばかりか、自分の姿さえ見失っている有り様であった。


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