「三方原の戦い」小和田哲男 学研M文庫 2000年 ① /『灯し続けることば』大村はま 小学館 2004年 ⑦【再掲載 2012.10】 [読書記録 歴史]
今回は、小和田哲男さんの
「三方原の戦い」の紹介 1回目です。
出版社の案内には、
「元亀三年十月、甲府に発った二万五千の武田軍は、遠江の三方ヶ原の
戦いで徳川家康を撃破し、そのすごさを天下に知らしめた。この遠征
を真の目的とはいったい何だったのか?はたして信玄に天下盗りの野
望はあったのか?戦国史研究の第一人者が、豊富な資料を駆使して三
方ヶ原までの道程を詳しく分析しつつ、緻密な推理で“戦国史の謎”
に迫る。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は‥
・「三方原の戦いは元亀3(1572)年12月22日
一日だけ ほんの2~3時間」
・「信玄(南進策) VS 嫡男義信(北進策)」
・「家を守り存続させるため、二派に分かれたときには、
そのどちらにも属すというやり方がみられる」
・「21人の今川武将が氏真を見捨てて信玄につく」
もう一つ、再掲載となりますが、大村はまさんの
『灯し続けることば』⑦を載せます。
わたしは釘穴だらけで振り返るのを恥ずかしく思います。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「三方原の戦い」小和田哲男 学研M文庫 2000年 ①
◇はじめに
元亀3(1572)年10月
信玄25000の大軍動く
元亀3(1572)年12月22日 三方原の戦い
武田信玄
上洛戦説・局地戦説・折衷説
|
◎ 天下とりの器
三方原の戦い
元亀3(1572)年12月22日
一日だけ
ほんの2~3時間
◇今川・北条と手を切る信玄
信玄の南進策と義信の北進策
信玄の南進策
① 川中島の戦いに展望なし
② 駿河・遠江両国が乱れ始めた
西から徳川家康
戦国大名
領国が広がるから家臣たちは戦いで犠牲を受けながらもついていく
~ 恩賞
∥
◎ 拡大が止まれば倒れてしまう
1561.12.15~
東進策 上野国への侵攻
西上野より先へ進めず
↓
突破口は南のみ
しかし、その時点で今川氏真と信玄と同盟
「甲相駿三国同盟」
1560.5.19
桶狭間の戦い
→ 今川義元討たれる
松平元康(家康)が力を付ける
「遠州錯乱」「遠州○劇」
永禄6(1563)年
飯尾連龍の離反、井伊氏、堀越氏、天野氏
→ 信玄 VS 嫡男義信
南進策 北進策
義信廃嫡の仕掛け人は信長か
信玄
親今川派リーダー義信の傅役飯富兵部少輔虎昌を殺す
(1565正月)
↓
義信
東光寺に幽閉 1565年9月
1565年11月 弟勝頼が信長の養女と結婚
義信の死は病死ではない
家臣が生き延びる知恵
→ 家を守り存続させるため、二派に分かれたときには、
そのどちらにも属すというやり方がみられる
∥
×兄弟相克 ○分離的対応
長野県上田市下之郷生島足島神社
100通を越す血判起請文 ← 今川氏の「塩留」
義信 永禄10(1567)年10月19日
追いつめられて自殺
今川を滅ぼすため家康と手を結ぶ
信玄
今川・北条氏と手を切る
- 甲参同盟 - 大井川塊
「浜松御在城記」
◇今川氏真を逐って駿河に進出
今川氏の重臣に誘いの手
「機を待つ」 - 根回し
21人の今川武将が信玄に
- 氏真を見捨てる
信玄・家康同時に今川領侵攻
不安を持つ氏真家臣
- 重臣の裏切り
今川領で武田軍を迎え撃つ
永禄11(1568)年10月12日 信玄の駿河乱入
|
家康も遠江侵攻
井伊谷三人衆を道案内に
(菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時)
10月15日
氏真掛川城に
2000→100に
「水を失った船」氏真
薩田峠で北条氏康を戦う
氏康・氏政父子の対応の遅さ
永禄12(1569)年正月 出陣
|
薩田峠で武田軍VS北条軍
1月18日~4月24日
酒により武田軍勝利「鬼殺」
4月24日
信玄 撤兵
・上杉謙信が動き出したら危険
・武田軍 兵農未分離軍隊 農繁期には兵を甲斐に戻す
今川氏滅亡する
永禄12(1569)年1月12日
家康 掛川城を総攻撃
天王山(掛川城)陥落
23日 掛川城兵 天王山を奪取しようと大激戦
|
氏家と講和
5月17日 開城 氏真は伊豆の戸倉城へ
信玄との密約に相反・矛盾
6月16日 駿東郡に攻め入る
大宮城(冨士信道)開城
☆『灯し続けることば』大村はま 小学館 2004年 ⑦【再掲載 2012.10】
◇「このクギの穴は残っているんだ」
アメリカの有名な大統領ワシントンの少年の頃のエピソードです。
サクラの木を切った話でわかるように、ワシントンは相当ないた
ずら坊主だったようです。
困ったお父さんは、ワシントンを呼んで、
「これからおまえが悪いことをしたら、このキッチンの柱にクギを
一本打ち込む。その代わり、いいことをしたら、一本抜く」
と言いました。
こうすれば、いたずらが減ると思ったのでしょう。
しかし、なかなかいたずらはやまず、柱はクギだらけになりました。
やがてワシントンも考えるようになって、優しい心を見せたり人を
助けたりするようになります。
そのたびにお父さんは黙ってクギを抜きました。
減ったり増えたりが続いて、ある日、とうとうクギは一本もなくな
りました。
お父さんはワシントンを呼んで、柱をなでさせ、
「おまえは本当にいい子になった。ごらん、クギはもう一本もない」。
ワシントンもニコニコしました。
「だけどね」
とお父さん。
「クギは一本もなくなったけれど、このクギの穴は残っているんだ。
神様でなければ、この穴を元通りにすることはできないんだよ」
ワシントンはそれから一生涯、抜けばいいのではない、クギを打ち
込んではならないという考えを心に持っていたと言います。
「三方原の戦い」の紹介 1回目です。
出版社の案内には、
「元亀三年十月、甲府に発った二万五千の武田軍は、遠江の三方ヶ原の
戦いで徳川家康を撃破し、そのすごさを天下に知らしめた。この遠征
を真の目的とはいったい何だったのか?はたして信玄に天下盗りの野
望はあったのか?戦国史研究の第一人者が、豊富な資料を駆使して三
方ヶ原までの道程を詳しく分析しつつ、緻密な推理で“戦国史の謎”
に迫る。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は‥
・「三方原の戦いは元亀3(1572)年12月22日
一日だけ ほんの2~3時間」
・「信玄(南進策) VS 嫡男義信(北進策)」
・「家を守り存続させるため、二派に分かれたときには、
そのどちらにも属すというやり方がみられる」
・「21人の今川武将が氏真を見捨てて信玄につく」
もう一つ、再掲載となりますが、大村はまさんの
『灯し続けることば』⑦を載せます。
わたしは釘穴だらけで振り返るのを恥ずかしく思います。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「三方原の戦い」小和田哲男 学研M文庫 2000年 ①
◇はじめに
元亀3(1572)年10月
信玄25000の大軍動く
元亀3(1572)年12月22日 三方原の戦い
武田信玄
上洛戦説・局地戦説・折衷説
|
◎ 天下とりの器
三方原の戦い
元亀3(1572)年12月22日
一日だけ
ほんの2~3時間
◇今川・北条と手を切る信玄
信玄の南進策と義信の北進策
信玄の南進策
① 川中島の戦いに展望なし
② 駿河・遠江両国が乱れ始めた
西から徳川家康
戦国大名
領国が広がるから家臣たちは戦いで犠牲を受けながらもついていく
~ 恩賞
∥
◎ 拡大が止まれば倒れてしまう
1561.12.15~
東進策 上野国への侵攻
西上野より先へ進めず
↓
突破口は南のみ
しかし、その時点で今川氏真と信玄と同盟
「甲相駿三国同盟」
1560.5.19
桶狭間の戦い
→ 今川義元討たれる
松平元康(家康)が力を付ける
「遠州錯乱」「遠州○劇」
永禄6(1563)年
飯尾連龍の離反、井伊氏、堀越氏、天野氏
→ 信玄 VS 嫡男義信
南進策 北進策
義信廃嫡の仕掛け人は信長か
信玄
親今川派リーダー義信の傅役飯富兵部少輔虎昌を殺す
(1565正月)
↓
義信
東光寺に幽閉 1565年9月
1565年11月 弟勝頼が信長の養女と結婚
義信の死は病死ではない
家臣が生き延びる知恵
→ 家を守り存続させるため、二派に分かれたときには、
そのどちらにも属すというやり方がみられる
∥
×兄弟相克 ○分離的対応
長野県上田市下之郷生島足島神社
100通を越す血判起請文 ← 今川氏の「塩留」
義信 永禄10(1567)年10月19日
追いつめられて自殺
今川を滅ぼすため家康と手を結ぶ
信玄
今川・北条氏と手を切る
- 甲参同盟 - 大井川塊
「浜松御在城記」
◇今川氏真を逐って駿河に進出
今川氏の重臣に誘いの手
「機を待つ」 - 根回し
21人の今川武将が信玄に
- 氏真を見捨てる
信玄・家康同時に今川領侵攻
不安を持つ氏真家臣
- 重臣の裏切り
今川領で武田軍を迎え撃つ
永禄11(1568)年10月12日 信玄の駿河乱入
|
家康も遠江侵攻
井伊谷三人衆を道案内に
(菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時)
10月15日
氏真掛川城に
2000→100に
「水を失った船」氏真
薩田峠で北条氏康を戦う
氏康・氏政父子の対応の遅さ
永禄12(1569)年正月 出陣
|
薩田峠で武田軍VS北条軍
1月18日~4月24日
酒により武田軍勝利「鬼殺」
4月24日
信玄 撤兵
・上杉謙信が動き出したら危険
・武田軍 兵農未分離軍隊 農繁期には兵を甲斐に戻す
今川氏滅亡する
永禄12(1569)年1月12日
家康 掛川城を総攻撃
天王山(掛川城)陥落
23日 掛川城兵 天王山を奪取しようと大激戦
|
氏家と講和
5月17日 開城 氏真は伊豆の戸倉城へ
信玄との密約に相反・矛盾
6月16日 駿東郡に攻め入る
大宮城(冨士信道)開城
☆『灯し続けることば』大村はま 小学館 2004年 ⑦【再掲載 2012.10】
◇「このクギの穴は残っているんだ」
アメリカの有名な大統領ワシントンの少年の頃のエピソードです。
サクラの木を切った話でわかるように、ワシントンは相当ないた
ずら坊主だったようです。
困ったお父さんは、ワシントンを呼んで、
「これからおまえが悪いことをしたら、このキッチンの柱にクギを
一本打ち込む。その代わり、いいことをしたら、一本抜く」
と言いました。
こうすれば、いたずらが減ると思ったのでしょう。
しかし、なかなかいたずらはやまず、柱はクギだらけになりました。
やがてワシントンも考えるようになって、優しい心を見せたり人を
助けたりするようになります。
そのたびにお父さんは黙ってクギを抜きました。
減ったり増えたりが続いて、ある日、とうとうクギは一本もなくな
りました。
お父さんはワシントンを呼んで、柱をなでさせ、
「おまえは本当にいい子になった。ごらん、クギはもう一本もない」。
ワシントンもニコニコしました。
「だけどね」
とお父さん。
「クギは一本もなくなったけれど、このクギの穴は残っているんだ。
神様でなければ、この穴を元通りにすることはできないんだよ」
ワシントンはそれから一生涯、抜けばいいのではない、クギを打ち
込んではならないという考えを心に持っていたと言います。
なんと素敵なお父さん(^_^;) 先ずは、こんなお父さんの増殖からでしょうか(^_^)v
by yokomi (2022-05-18 23:52)
yokomiさん ありがとうございます。
そうですね。
このような父親だからワシントンが育ったのだなと思います。
by ハマコウ (2022-05-19 03:56)