「朝には紅顔ありて」③大谷光真 角川書店 2003年 [読書記録 宗教]
大谷光真さん(西本願寺第24代門主)「朝には紅顔ありて」の三回目です
先の土曜日、京都に行った折 東本願寺を訪れました
本堂の大きさに驚きました
本堂でしばらく座っていると 落ち着きました
中村久子女史が真宗を信仰していたことは
東本願寺の中村久子展で初めて知りました
「信仰をもつものは強い」
と感じました
「なぜ人を殺してはならないか」と問う人などいなかった
なぜなら、誰しも知っていた感じ取っていたから
その通りだと思います
往生は人間世界からの「ご栄転」
は おもしろいなと 感じます
セイロン(スリランカ)の元外務大臣・ジャヤワルデ氏の言葉は
忘れてはならないことだと思います
人生とは? 死とは?
立ち止まって考えるのに 分かりやすい本です
昨日 学年の畑のタマネギの苗植えをしました
せまい畝の間を子どもたちは上手に動けず
非常に時間が掛かりましたが
たくさんの満足そうな顔が見られました
来春の収穫が楽しみです
明日は親類の結婚式が伊勢で行われます
今日 伊勢に向けて出掛けます
伊勢神宮にも詣るとのこと
楽しみです
☆「朝には紅顔ありて」③大谷光真 角川書店 2003年
〈朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり〉
◇人は「独り去り独り来る」ものなのです
お釈迦様とゴータミーの話
「一度も死んだものを出したことのない家」などない
|
生まれたものはいつか死んでいかなければならない
死別の悲しみのない家はない
◇なぜ人を殺してはいけないのでしょう
自分自身のみに引き比べて考え他人のいのちを大切にしよう
かつて「死」という厳粛な事実を目の当たりにした
- 死の悲しさ寂しさ喪失感の欠如(いのちの重さ、いのちの尊さ)
|
死が身近にあったとき
「なぜ人を殺してはならないか」と問う人などいなかった
=(誰しも知っていた感じ取っていた)から
|
仏教 「いのち」は恵まれたもので自分であれ他人であれ私的なものはない
(品物のように売り買え、捨て拾いできるものではない)
ひとりの人間の存在 背後に長いいのちの連鎖
35億年の積み重ね
「人が殺される」=あらゆるつながりがすべて断ち切られてしまうこと
◇「後生の一大事」について考えましょう
ラテン語「メモント・モリ」=死を想え、死を忘るなかれ
| ペスト流行時の言葉
親しい人の「死」は他では学ぶことのできないものを学ぶ場である
浄土真宗 「後生の一大事」 死に思いを巡らせる
死と生は表裏一体
◇亡き人を近くに感じるためには
「わたしたちは亡くなった方と共に生きていくことができる」
亡くなった人 ~ 阿弥陀さまの国の仏さま
仏さま = 「力」「はたらき」
|
仏さまとわたしたちは常に一緒
死 = 仏さまの世界に生まれていった 「めでたいこと」
◇いのちを考えるのに、早すぎる年齢も遅すぎる年齢もありません
1日生きるということは1日死に近づいていること
|
親鸞聖人 「誰にとっても等しく」に重き
1日は皆24時間
◇往生は「めでたきこと」
インド・サンスクリット語 往生 = ウト・パッド(ut-pad)
= birth
往生 = 浄土に往って生まれること
人間世界からの「ご栄転」
亡くなった人は煩悩に染まらない「悟り」の世界に生まれた
∥
浄土真宗の「さとり」や「完成」は単に往ってしまうことではありませ
ん。往生された方は往ったきりではなく、またこっちに還
ってこられます。何をしに還ってくるかというと、阿弥陀
仏のおこころを伝え導くためです。
|
お浄土からのはたらきに応えていく人生が開かれてきた
◇怨みは怨み返さないことによって鎮まるのです
第二次世界大戦 敗戦国日本に各国から賠償請求がきた
↓
セイロン(スリランカ)損害賠償の放棄
外務大臣・ジャヤワルデ氏
「もろもろの怨みは怨み返すことによっては決して鎮まらない。
もろもろの怨みは怨み返さないことによって静まる。これは、
永遠の真理である」
↑
戦後日本の発展はこうした仏教徒のこころによって支えられてきた
〈信心の定まるとき往生もまた定まるなり〉
◇「ナムアミダブツ」構えずにあいさつのような気持ちで始めよう
「南無阿弥陀仏」 南無 = あなたを信じます あなたに従います
あなたに委ねます
阿弥陀仏 = 限りないはかることのできない仏
ひかりといのちが限りない
∥
時間的にも空間的にも制限なくいつもどこでもいつまでもわたした
ちを照らしてくださる仏さま
∥
「仏さまにすべてを任せます」
ナム = ナマステ(インド・ネパールのあいさつ)
↓
あいさつのつもりで気軽に
◇いつも呼びかけてくださる方がある。それは大きな安心です
「南無阿弥陀仏」は阿弥陀さまの方からわたしたちに向かって「まか
せなさい」と呼びかけてくださる言葉
|
人は自分を知り呼びかけてくれる存在に接すると落ち着きを得られる
◇信心は仏さまからいただくものです
阿弥陀仏は清らかなこころをもたないわたしたちに真実のこころを振
り向けてくださっている
|
幼子、赤ん坊 … 自分のすべてを母親に任せている
無上の安心感と喜び
◇万物すべてはつながっています。それを「縁起」といいます
「縁起」すべてのものは相依り、つながり合っている
|
自分とは何の関係もないようであっても、そこにはなにがしかのつ
ながりがある
|
親鸞 「すべてが阿弥陀さまに救われる存在のいのちなのだ」
すべてのいのちが阿弥陀さまに照らされ救われるいのちとし
てのつながりがある
= この世に無駄ないのち無意味ないのちはない
皆阿弥陀さまに照らされる仲間
先の土曜日、京都に行った折 東本願寺を訪れました
本堂の大きさに驚きました
本堂でしばらく座っていると 落ち着きました
中村久子女史が真宗を信仰していたことは
東本願寺の中村久子展で初めて知りました
「信仰をもつものは強い」
と感じました
「なぜ人を殺してはならないか」と問う人などいなかった
なぜなら、誰しも知っていた感じ取っていたから
その通りだと思います
往生は人間世界からの「ご栄転」
は おもしろいなと 感じます
セイロン(スリランカ)の元外務大臣・ジャヤワルデ氏の言葉は
忘れてはならないことだと思います
人生とは? 死とは?
立ち止まって考えるのに 分かりやすい本です
昨日 学年の畑のタマネギの苗植えをしました
せまい畝の間を子どもたちは上手に動けず
非常に時間が掛かりましたが
たくさんの満足そうな顔が見られました
来春の収穫が楽しみです
明日は親類の結婚式が伊勢で行われます
今日 伊勢に向けて出掛けます
伊勢神宮にも詣るとのこと
楽しみです
☆「朝には紅顔ありて」③大谷光真 角川書店 2003年
〈朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり〉
◇人は「独り去り独り来る」ものなのです
お釈迦様とゴータミーの話
「一度も死んだものを出したことのない家」などない
|
生まれたものはいつか死んでいかなければならない
死別の悲しみのない家はない
◇なぜ人を殺してはいけないのでしょう
自分自身のみに引き比べて考え他人のいのちを大切にしよう
かつて「死」という厳粛な事実を目の当たりにした
- 死の悲しさ寂しさ喪失感の欠如(いのちの重さ、いのちの尊さ)
|
死が身近にあったとき
「なぜ人を殺してはならないか」と問う人などいなかった
=(誰しも知っていた感じ取っていた)から
|
仏教 「いのち」は恵まれたもので自分であれ他人であれ私的なものはない
(品物のように売り買え、捨て拾いできるものではない)
ひとりの人間の存在 背後に長いいのちの連鎖
35億年の積み重ね
「人が殺される」=あらゆるつながりがすべて断ち切られてしまうこと
◇「後生の一大事」について考えましょう
ラテン語「メモント・モリ」=死を想え、死を忘るなかれ
| ペスト流行時の言葉
親しい人の「死」は他では学ぶことのできないものを学ぶ場である
浄土真宗 「後生の一大事」 死に思いを巡らせる
死と生は表裏一体
◇亡き人を近くに感じるためには
「わたしたちは亡くなった方と共に生きていくことができる」
亡くなった人 ~ 阿弥陀さまの国の仏さま
仏さま = 「力」「はたらき」
|
仏さまとわたしたちは常に一緒
死 = 仏さまの世界に生まれていった 「めでたいこと」
◇いのちを考えるのに、早すぎる年齢も遅すぎる年齢もありません
1日生きるということは1日死に近づいていること
|
親鸞聖人 「誰にとっても等しく」に重き
1日は皆24時間
◇往生は「めでたきこと」
インド・サンスクリット語 往生 = ウト・パッド(ut-pad)
= birth
往生 = 浄土に往って生まれること
人間世界からの「ご栄転」
亡くなった人は煩悩に染まらない「悟り」の世界に生まれた
∥
浄土真宗の「さとり」や「完成」は単に往ってしまうことではありませ
ん。往生された方は往ったきりではなく、またこっちに還
ってこられます。何をしに還ってくるかというと、阿弥陀
仏のおこころを伝え導くためです。
|
お浄土からのはたらきに応えていく人生が開かれてきた
◇怨みは怨み返さないことによって鎮まるのです
第二次世界大戦 敗戦国日本に各国から賠償請求がきた
↓
セイロン(スリランカ)損害賠償の放棄
外務大臣・ジャヤワルデ氏
「もろもろの怨みは怨み返すことによっては決して鎮まらない。
もろもろの怨みは怨み返さないことによって静まる。これは、
永遠の真理である」
↑
戦後日本の発展はこうした仏教徒のこころによって支えられてきた
〈信心の定まるとき往生もまた定まるなり〉
◇「ナムアミダブツ」構えずにあいさつのような気持ちで始めよう
「南無阿弥陀仏」 南無 = あなたを信じます あなたに従います
あなたに委ねます
阿弥陀仏 = 限りないはかることのできない仏
ひかりといのちが限りない
∥
時間的にも空間的にも制限なくいつもどこでもいつまでもわたした
ちを照らしてくださる仏さま
∥
「仏さまにすべてを任せます」
ナム = ナマステ(インド・ネパールのあいさつ)
↓
あいさつのつもりで気軽に
◇いつも呼びかけてくださる方がある。それは大きな安心です
「南無阿弥陀仏」は阿弥陀さまの方からわたしたちに向かって「まか
せなさい」と呼びかけてくださる言葉
|
人は自分を知り呼びかけてくれる存在に接すると落ち着きを得られる
◇信心は仏さまからいただくものです
阿弥陀仏は清らかなこころをもたないわたしたちに真実のこころを振
り向けてくださっている
|
幼子、赤ん坊 … 自分のすべてを母親に任せている
無上の安心感と喜び
◇万物すべてはつながっています。それを「縁起」といいます
「縁起」すべてのものは相依り、つながり合っている
|
自分とは何の関係もないようであっても、そこにはなにがしかのつ
ながりがある
|
親鸞 「すべてが阿弥陀さまに救われる存在のいのちなのだ」
すべてのいのちが阿弥陀さまに照らされ救われるいのちとし
てのつながりがある
= この世に無駄ないのち無意味ないのちはない
皆阿弥陀さまに照らされる仲間
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