「新時代の教育をどう構想するのか」藤田英典 岩波ブックレット№533 2001年 ⑤ /「小野田寛郎の終わらない戦い」戸井十月 新潮社 2005年 【再掲載 2014.1】 [読書記録 教育]
今回は、2月2日に続いて、藤田英典さんの
「新時代の教育をどう構想するのか」の紹介 5回目です。
出版社の案内には、
「首相の私的諮問機関として各界の識者を集め、集中的な討議をへて発表された教育改革
国民会議の報告は、教育基本法の見直し・奉仕活動の必要性など、大きな関心を呼び、
今後の政策に反映必至の重大な提案を含んでいた。委員として参加・発言した教育学者
が提案内容を検証・批判しながら『いま本当に必要な教育改革とは』を訴える。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「いじめや校内暴力や青少年の犯罪などは先進諸国が共通に抱えている問題であり、
社会病理として見るべき。それを学校病理だと言ってすべてを学校のせいにするの
は間違い。」
- このところ紹介している小浜逸郎さんと類似した主張だと感じます。
・「『教育は国家百年の計』それにふさわしい資源を投入すべき。たとえ財政事情が悪く
ても、何を措いても教育に必要なお金と手間をかけるべき。」
- 米百俵を投入しないで、米百俵の精神ばかり訴えるだけでは現場はますます疲弊す
るばかりになるのではないかと心配します。教職志望者も減少するばかり…。
・「精神の自由、試行錯誤の自由は保障されなければならないが自律性(行動の自由)
について適切な規制を加えることは、学校や大人社会の責務。
一貫性とバランス感覚が重要」
- 学校が「だらしない収容所」と表現されるようになりました。支援あって指導なし
とも。
もう一つ、再掲載となりますが、戸井十月さんの
「小野田寛郎の終わらない戦い」を載せます。
小野田さんの言葉に「筋」「責任感」を想像しました。
コロナ禍の現在、要約を読み直して
-「日本は『便利だけど命の補償はない』」
の言葉にわたしは納得してしいました。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。

<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「新時代の教育をどう構想するのか」藤田英典 岩波ブックレット№533 2001年 ⑤

Ⅲ 2章 教育の武装解除か再武装化か
◇第一回全体会・各委員の抱負 - 筆者が強調したこと
□各委員の発言
① 「ゆとり教育」に対する批判的意見の強まり
② 道徳性や国民性の育成に対する関心が非常に強い
□筆者が強調した4点
① 「ゆとり教育」を見直し,基礎学力と自立心の形成を重視すべし
世界各国は「教育の再武装化」
日本は「教育の武装解除」
② いじめや校内暴力や青少年の犯罪などは先進諸国が共通に抱えている問題であり、
社会病理として見るべき。
それを学校病理だと言ってすべてを学校のせいにするのは間違い。
③ 今日の知的ヘゲモニーを巡る国際的な競争の激化は諸外国の高等教育改革の主要
な関心事になっている。我が国の大学改革もこうした側面を重視すべし。
④ 「教育は国家百年の計」それにふさわしい資源を投入すべき。
たとえ財政事情が悪くても、何を措いても教育に必要なお金と手間をかけるべき。
◇教育改革の視点をどこに置くか
□3つの視点
① 個人の自由・自律性というものをどう考えるか
精神の自由、試行錯誤の自由は保障されなければならないが、自律性(行動の自
由)について適切な規制を加えることは、学校や大人社会の責務。
一貫性とバランス感覚が重要
↑
◎ 国民会議委員の多くは認識が曖昧、改革案も一貫性とバランスを欠く
② 教育システムの要件と機能をどう考えるか
システムの機能は多面的で、しかも、しばしばシステム設計の意図や目的とずれ
ることは社会学の常識
↑
◎ 国民会議委員の多くは無頓着で,改革案も無責任なものに
システム基本的要件として機会の平等と開放性が重要だが、国民会議の提案は、
機会の制度的差別化(社会的な差別や不平等の制度的拡大)を正当化し促進しよ
うとしている
③ 子供の成長と教育の機能をどう考えるか
トータルな基盤の充実こそ大切
↑
◎ 国民会議は要素主義的に解体し、教育基盤の脆弱化を促進するうな提案をしてい
る。
☆「小野田寛郎の終わらない戦い」戸井十月 新潮社 2005年 【再掲載 2014.1】

◇反逆児
大正11年3月19日 和歌山県内海町生
父・種次郎
宮司 - 和歌山師範 - 新聞記者 - 県会議員
母・タマエ
小学校教師 古風で気丈
小野田寛郎
旧制海南中学校 - 剣道部 - 野球部へ
昭和14年3月
中学卒 - 進学放棄 - 田島洋行に就職
→ 中国へ刹那主義
自尊心が許さない - 臆病者・卑怯者
◇中野学校という異界
昭和17年12月入隊 中国へ
参謀総長直属 → スパイ・ゲリラ育成
昭和19年 1月 日本へ
→ 8月 東部第33部隊 浜松・二俣 陸軍中野学校二俣分校
◎「無駄死にしないで生き残れ」
◎二俣
- 遊撃戦のリーダー育成
① 語学
② 運転
③ 写真
④ 無線
8月31日 230人の見習士官
自由奔放 ・自主的な学校
◎「死ぬくらいなら捕虜になれ」
= 「現実主義 + 合理主義 」 → 民族を守る
天皇機関説
「金平糖はケシの実がないと金平糖にならない。中心に天皇がいないと国家になら
ない。…」
◎ リアリズムとロマンチシズム
◎ 誠 = 中野美学
特攻 2891機以上 戦死者 3724人以上 命中率 18.6%
11月30日 対校命令
12月7日 二俣に集合 → フィリピン派遣
同期生43人と共にフィリピンへ = ゲリラの覚悟
◇ルバング島という戦場
島田庄一伍長(9年年長)と小塚金七一等兵(同歳)
太平洋戦争
4年間で 310万人の死者(日本人) = 加害国
1800万人の死者(日本人以外)
初めて見た投降ビラが間違いだらけだった
→ ◎ デマと信じた
= 日本占領は織り込み済みだったから
赤津-脱走
◇投降か死か
昭和47(1972)年10月19日
小塚氏の死により一人きりに
~昭和48(1973)年4月18日 打ち切り
昭和49(1974)年2月9日
鈴木紀夫氏がルバング島へ
◎ 問題はハートだ!
2月20日 出会い
2月28日 上官・谷口義美氏がマニラへ
◎ 停戦命令のお粗末さが事態を長引かせた
3月9日 谷口氏が伝える 29年3か月(終戦から28年7か月)
◇日本という戦場
昭和49(1974)年3月12日午後4時29分羽田空港着
「ルバング島にいた時の方が自由だった」
ようやく2人の墓参りへ
埼玉 八王子
◎次兄・格郎がいるブラジルへ 南米のおおらかさと逞しさ
昭和50(1975)年4月 ブラジル永住 53歳
◇ブラジルという戦場
514ha 1ha 3万6千円
手記の印税(3000万円) + 借金
◎国家からの補償はナシ
現在小野田牧場は1128ha 1800頭(出版当時=ハマコウ註)
妻・町枝の支え
現在,支配人佐藤晋平(57)家族 +4人のブラジル人スタッフ
|
資本投下のわりに従業員が少ない
◎「今の日本はおかしい。人間関係もおかしいし国家のあり方はもっとはっきりしな
い」
|
◎ 後ろを絶対に振り返らない
昭和55(1980)年11月
川崎市の金属バット殺人事件
↓
平成元(1989)年
財団法人小野田自然塾
福島県東白川郡塙町に8ha キャンプ場
◎ 「子どもたちがかわいそうだ」
◇鉾を収めるとき
日本の冬にブラジルへ
小野田自然塾
◎「世の中の馬鹿を見たければ親を見よ(基本的には親の責任)」
日本
~ ◎「便利だけど命の補償はない」
「新時代の教育をどう構想するのか」の紹介 5回目です。
出版社の案内には、
「首相の私的諮問機関として各界の識者を集め、集中的な討議をへて発表された教育改革
国民会議の報告は、教育基本法の見直し・奉仕活動の必要性など、大きな関心を呼び、
今後の政策に反映必至の重大な提案を含んでいた。委員として参加・発言した教育学者
が提案内容を検証・批判しながら『いま本当に必要な教育改革とは』を訴える。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「いじめや校内暴力や青少年の犯罪などは先進諸国が共通に抱えている問題であり、
社会病理として見るべき。それを学校病理だと言ってすべてを学校のせいにするの
は間違い。」
- このところ紹介している小浜逸郎さんと類似した主張だと感じます。
・「『教育は国家百年の計』それにふさわしい資源を投入すべき。たとえ財政事情が悪く
ても、何を措いても教育に必要なお金と手間をかけるべき。」
- 米百俵を投入しないで、米百俵の精神ばかり訴えるだけでは現場はますます疲弊す
るばかりになるのではないかと心配します。教職志望者も減少するばかり…。
・「精神の自由、試行錯誤の自由は保障されなければならないが自律性(行動の自由)
について適切な規制を加えることは、学校や大人社会の責務。
一貫性とバランス感覚が重要」
- 学校が「だらしない収容所」と表現されるようになりました。支援あって指導なし
とも。
もう一つ、再掲載となりますが、戸井十月さんの
「小野田寛郎の終わらない戦い」を載せます。
小野田さんの言葉に「筋」「責任感」を想像しました。
コロナ禍の現在、要約を読み直して
-「日本は『便利だけど命の補償はない』」
の言葉にわたしは納得してしいました。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。

<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「新時代の教育をどう構想するのか」藤田英典 岩波ブックレット№533 2001年 ⑤

Ⅲ 2章 教育の武装解除か再武装化か
◇第一回全体会・各委員の抱負 - 筆者が強調したこと
□各委員の発言
① 「ゆとり教育」に対する批判的意見の強まり
② 道徳性や国民性の育成に対する関心が非常に強い
□筆者が強調した4点
① 「ゆとり教育」を見直し,基礎学力と自立心の形成を重視すべし
世界各国は「教育の再武装化」
日本は「教育の武装解除」
② いじめや校内暴力や青少年の犯罪などは先進諸国が共通に抱えている問題であり、
社会病理として見るべき。
それを学校病理だと言ってすべてを学校のせいにするのは間違い。
③ 今日の知的ヘゲモニーを巡る国際的な競争の激化は諸外国の高等教育改革の主要
な関心事になっている。我が国の大学改革もこうした側面を重視すべし。
④ 「教育は国家百年の計」それにふさわしい資源を投入すべき。
たとえ財政事情が悪くても、何を措いても教育に必要なお金と手間をかけるべき。
◇教育改革の視点をどこに置くか
□3つの視点
① 個人の自由・自律性というものをどう考えるか
精神の自由、試行錯誤の自由は保障されなければならないが、自律性(行動の自
由)について適切な規制を加えることは、学校や大人社会の責務。
一貫性とバランス感覚が重要
↑
◎ 国民会議委員の多くは認識が曖昧、改革案も一貫性とバランスを欠く
② 教育システムの要件と機能をどう考えるか
システムの機能は多面的で、しかも、しばしばシステム設計の意図や目的とずれ
ることは社会学の常識
↑
◎ 国民会議委員の多くは無頓着で,改革案も無責任なものに
システム基本的要件として機会の平等と開放性が重要だが、国民会議の提案は、
機会の制度的差別化(社会的な差別や不平等の制度的拡大)を正当化し促進しよ
うとしている
③ 子供の成長と教育の機能をどう考えるか
トータルな基盤の充実こそ大切
↑
◎ 国民会議は要素主義的に解体し、教育基盤の脆弱化を促進するうな提案をしてい
る。
☆「小野田寛郎の終わらない戦い」戸井十月 新潮社 2005年 【再掲載 2014.1】

◇反逆児
大正11年3月19日 和歌山県内海町生
父・種次郎
宮司 - 和歌山師範 - 新聞記者 - 県会議員
母・タマエ
小学校教師 古風で気丈
小野田寛郎
旧制海南中学校 - 剣道部 - 野球部へ
昭和14年3月
中学卒 - 進学放棄 - 田島洋行に就職
→ 中国へ刹那主義
自尊心が許さない - 臆病者・卑怯者
◇中野学校という異界
昭和17年12月入隊 中国へ
参謀総長直属 → スパイ・ゲリラ育成
昭和19年 1月 日本へ
→ 8月 東部第33部隊 浜松・二俣 陸軍中野学校二俣分校
◎「無駄死にしないで生き残れ」
◎二俣
- 遊撃戦のリーダー育成
① 語学
② 運転
③ 写真
④ 無線
8月31日 230人の見習士官
自由奔放 ・自主的な学校
◎「死ぬくらいなら捕虜になれ」
= 「現実主義 + 合理主義 」 → 民族を守る
天皇機関説
「金平糖はケシの実がないと金平糖にならない。中心に天皇がいないと国家になら
ない。…」
◎ リアリズムとロマンチシズム
◎ 誠 = 中野美学
特攻 2891機以上 戦死者 3724人以上 命中率 18.6%
11月30日 対校命令
12月7日 二俣に集合 → フィリピン派遣
同期生43人と共にフィリピンへ = ゲリラの覚悟
◇ルバング島という戦場
島田庄一伍長(9年年長)と小塚金七一等兵(同歳)
太平洋戦争
4年間で 310万人の死者(日本人) = 加害国
1800万人の死者(日本人以外)
初めて見た投降ビラが間違いだらけだった
→ ◎ デマと信じた
= 日本占領は織り込み済みだったから
赤津-脱走
◇投降か死か
昭和47(1972)年10月19日
小塚氏の死により一人きりに
~昭和48(1973)年4月18日 打ち切り
昭和49(1974)年2月9日
鈴木紀夫氏がルバング島へ
◎ 問題はハートだ!
2月20日 出会い
2月28日 上官・谷口義美氏がマニラへ
◎ 停戦命令のお粗末さが事態を長引かせた
3月9日 谷口氏が伝える 29年3か月(終戦から28年7か月)
◇日本という戦場
昭和49(1974)年3月12日午後4時29分羽田空港着
「ルバング島にいた時の方が自由だった」
ようやく2人の墓参りへ
埼玉 八王子
◎次兄・格郎がいるブラジルへ 南米のおおらかさと逞しさ
昭和50(1975)年4月 ブラジル永住 53歳
◇ブラジルという戦場
514ha 1ha 3万6千円
手記の印税(3000万円) + 借金
◎国家からの補償はナシ
現在小野田牧場は1128ha 1800頭(出版当時=ハマコウ註)
妻・町枝の支え
現在,支配人佐藤晋平(57)家族 +4人のブラジル人スタッフ
|
資本投下のわりに従業員が少ない
◎「今の日本はおかしい。人間関係もおかしいし国家のあり方はもっとはっきりしな
い」
|
◎ 後ろを絶対に振り返らない
昭和55(1980)年11月
川崎市の金属バット殺人事件
↓
平成元(1989)年
財団法人小野田自然塾
福島県東白川郡塙町に8ha キャンプ場
◎ 「子どもたちがかわいそうだ」
◇鉾を収めるとき
日本の冬にブラジルへ
小野田自然塾
◎「世の中の馬鹿を見たければ親を見よ(基本的には親の責任)」
日本
~ ◎「便利だけど命の補償はない」