SSブログ

大村はまさんはこんなことを ⑮-『灯し続けることば』大村はま 小学館 2004年 (2) /「昭和史をどう生きたか」半藤一利 東京書籍 2014年 ②【再掲載 2015.8】 [読書記録 教育]

今回は、10月1日に続いて、大村はまさんの
「大村はまさんはこんなことを」の紹介15回目です。
「灯し続けることば」の要約の2回目です。


出版社の案内には、


「『国語教育の神様』とまで言われた国語教師・大村はま、98歳になる今日までの著作・
 執筆から選びだした珠玉のことば52本と、その周辺。自らを律しつつ、人を育てるこ
 とに人生を賭けてきた大村はまの神髄がここに凝縮された。『熱心と愛情、それだけや
 れることは、教育の世界にはないんです』『したことの悪さより、しかられた傷のほう
 が大きいということはないでしょうか』『熱心結構、いい人あたり前です』『スタート
 ラインが一緒でも、ゴールには同時に入りません』『しかられ上手であることが必要で
 す』etc.子どもにかかわるすべての大人、仕事に携わるすべての職業人に、折に触れて
 ページを開いて読んでほしい。」


とあります。



大変に厳しい言葉、自らに厳しい大村さんらしい言葉です。
若い教員がこれを読み(聞き)どう思うのだろうかと気になります。
「仏さまの指」の話には、自分を反省させられます。
気が付いてほしいとの期待が心の中にあるのではないかと。




もう一つ、再掲載となりますが、半藤一利さんの
「昭和史をどう生きたか」②を載せます。
自分たちのことしか考えない力をもった組織。自分たちの考えしか受け付けない組織。
自分たちを守るためには嘘を厭わない組織。
恐ろしさと情けなさを感じます。





<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
2.jpg





<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。





☆大村はまさんはこんなことを ⑮-『灯し続けることば』大村はま 小学館 2004年 (2)

1.jpg

◇教師として老いないために、研究授業をしていました

 私は現役の中学教師の頃、毎月一回の研究授業をして、いろいろな方に見ていただいて
いました。


 そしてそのときは、誰も使ったことがない、教科書にはもちろん載っていない、新しい
教材を用意し、自分でも一度もやったことのない方法を開拓してやりました。


 ですから、一か月の間、苦しみます。どうやったらいいかわからないときは、やせる思
いで駆け回りました。


 何十年も教師をやっていますから、今までにやった方法でいいなら、すぐにでもやれま
す。


 でもそれでは老いてしまうのです。


 精神が老いてしまうのです。


 ですから、その研究授業は、誰のためでもない、自分が教師として老いないため、未来
に対して建設を続けるためのものでした。


 いくらベテランであっても、研究する態度を失った教師は、どんなに優しい声や手練手
管を使ってみても子どもの気持ちをつかめません。


 もう、子どもとは違った世界の人になってしまっているのです。





◇伸びようという気持ちを持たない人は、子どもとは無縁の人です

 一人前の教師としての職業技術を十分に練っていなければと思い、そのために、私たち
教師は研修や研究会に参加します。


 それは職業人として至らないところを鍛え合い、さらに高いところをめざす機会であり
ます。


 ただでさえ忙しい中、研究会に参加するのは大変なことですし、やったからといってす
ぐに効果は上がりません。


 しかしもう一つ、研究する・研修することには、大切な意味があります。


 子どもは、高いものにあこがれ、自分をそこまで成長させよう、前進させようとひたむ
きに願っています。


 身の程を忘れてと言いたいほど、伸びよう、伸びたいと思っています。


 そのせつないほど伸びたい気持ちと、研究や研修を通してこそ、私たちは共感していけるのです。


 学ぶことの苦しみ、そして少しの喜びを、子どもと同じように感じられるのです。


 そういう魂を持っていれば、世代を超えていつまでも子どもと共にある、と言えるので
はないでしょうか。


 年齢的には若くても、伸びようという気持ちを持たない人は、子どもとは無縁の人です。






◇「仏様が、ちょっと指で車に触れられました」

 私が若い頃、奥田正造先生から聞いたお話です。

「ある時、仏様が道ばたに立っていらっしやると、一人の男が荷物をいっぱい積んだ荷車
 を引いて通りかかった。ぬかるみがあって、車はそれにはまってしまい、男が懸命に引
 っ張っても抜け出せない。男は汗びっしょりになって苦しんでいる。仏様はしばらく男
 の様子を見ていらしたが、やがてちょっと指でその単に触れられた。すると車はすっと
 ぬかるみから出て、男はからからと車を引いて去っていった」

というお話です。


 奥田先生は、

「こういうのが本当の教師なんだ。男は仏様の力にあずかったことを永遠に知らない。自
 分が努力して、抜け出したのだという自信と喜びを持って、車を引いていったのだ」

とおっしゃいました。


 このお話は、日が経つにつれ、私にとって深い感動となりました。


 もし仏様のおかげだと男が知ったら、ひざまずいて感謝したでしょう。


 それも喜びだとは思いますが、男が一人で生き抜いていく力にはならなかったでしょう。


 一人で生きていく自信、真の強さにはつながらなかったのではないかと思うのです。


 私が子どもを教え、そのおかげで力がついたとわかれば、子どもは感謝するでしょう。


 でも、「おかげ」と思っているうちは、本当にその子の力になっているのではないので
す。


 生徒が、自分の力でがんばってできたという自信から、生きる力をつけるように仕向け
ていくことが、教師の仕事なのだと思います。







☆「昭和史をどう生きたか」半藤一利 東京書籍 2014年 ②【再掲載 2015.8】

<出版社の案内>
昭和史研究の第一人者で、圧倒的な支持を得る半藤一利が、吉村昭、澤地久枝をはじめ、
昭和を生き抜き、作品のテーマとしてきた日本を代表する作家・研究者と徹底的に議論し
た「昭和史の真実」。特攻作戦に最後まで反対し、隊から一人も特攻者を出さなかった指
揮官に戦後会いに行く話など、これまでまったく語られることのなかった衝撃の事実の数
々。
2.jpg


◇ふたつの戦場 ミッドウェーと満州 澤地久枝 (後半)

□「捨て駒」としての人々
  
 S20.8.8夜 ソ連が…
   「満州にいても日本の国籍からは外れなかった」

        |

 満州ではかなりいい思いをした日本人も多かった   
日本人というだけで上の層

日本人には米と砂糖が配給された

         |

 ◎ それで「五族協和」とか「王道楽土」などとはとても言えない
   
  = 現実には日本の国防安全のための緩衝帯としての植民地
 
            ∥

     ◎ ソ連に対する国防の生命線       

       |

 ◎ 満州を語るとその人の立場がだいたい分かってしまう

      | 

◎ 国家であったならポツダム宣言受諾後でも満州国は残っていいはず
   
   → しかし敗戦と同時に消えてしまった

    やはり満州国は植民地、傀儡国家、 幻の国

            |
     
   ※ 先に関東軍はどんどん主力を南下させた
     
   ※ 居留民や開拓民には一切知らせなかった
     
   ※ 残された軍隊も移動のための捨て駒として時間稼ぎに使われた      





□和平工作と満州

 開拓団 
  - 女子ども年寄り病人ばかり - 男は軍隊へ
   
  ◎ 国民の軍隊ではなく天皇の軍隊 


 ※関東軍総司令の山田乙三対象の夫人が無事に帰った
 
   → 陸軍の重爆撃機に乗って

   - 要人の夫人、財宝     

   ◎ 帝国陸軍は創設の時からロシアを仮想敵国としていた




  
□昭和20年春 いろいろな人が和平案

 東京大・南原繁法学部長、高木八尺、岡義武ら法学部教授が和平案を作り、木戸草一に
伝えている

「ソビエトを仲介とする和平はとんでもないから絶対にやってはいけない。アメリカに直
 接和平を申し込め。そして終戦の動きは先ず海軍が始め、裁断は天皇が行う。
 詔勅を発布し内外に明示する。そして戦後における国民道徳を破壊するため、終戦後の
 適当なときに天皇は道義的責任を取って退位する。」

 
 ストックホルム駐在武官・小野寺信 
   スウェーデン国王による和平工作 → しかし無視される


日本の近代史の基本的考えを作ったのは皇統派
対ソ連戦を考えて満州国

↑↓

◎ 統制派 傀儡国家




□満州国がなければ太平洋戦争はなかったのかもしれない

 満州国の国家予算は誰が?


 天皇の命令無く満州事件
本庄繁、石原莞爾、板垣征司郎、林銑十郎は死刑に値するはずが出世


nice!(159)  コメント(4) 
共通テーマ:学校