「深谷昌志さんはこんなことを」⑨-『子供らしさと学校の終焉』黎明書房 2000年 (4) /「神様がくれたサツマイモ」海老名香葉子 2005年 出典未記録【再掲載 2011.5】 [読書記録 教育]
今回は、4月25日に続いて、わたしの「教育ノート」から
「深谷昌志さんはこんなことを」の紹介 9回目、
『子供らしさと学校の終焉』の要約の4回目です。
学習塾の様子もだいぶ変わってきました。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「塾の先生を評価」
・「学習塾の緊張感『手を抜くと子供が減り廃校の危機に』」
・「学校の楽しさとは大人の仕事に性質が近い」
もう一つ、再掲載となりますが、海老名香葉子さんの
「神さまがくれたサツマイモ」を載せます。
幾度も再掲載してきた話ですが、戦争のおそろしさと、
わが子を愛することの大切さを教えられます。
こどもの日に、
くったくのない子どもの笑顔が見られる世の中をと願います。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「深谷昌志さんはこんなことを」⑨-『子供らしさと学校の終焉』黎明書房 2000年 (4)
◇放課後の子供たち
□学習塾通塾率 文部省調査
昭和51年 昭和60年 平成5年
小4 12 15 24
小5 19 21 31
小6 26 30 42
中1 38 42 53
中2 39 45 59
中3 37 47 67
(単位 %)
□表から分かること
① 塾通いの全国化
② 塾通いの低学年化
③ 学習塾の公教育化
□塾の方が「宿題多く」「予習が必要」だが
「授業が楽しく」「授業が分かりやすい」
→ 塾の先生を評価
□傾向
① 塾に行くのは楽しい
② 学習塾の教え方は学校よりうまい
③ 塾の先生は学校の先生より尊敬できる
④ 放課後の時間を拘束される
|
◎学習塾の緊張感
「手を抜くと子供が減り,廃校の危機に」
□学習塾の問題点
① 生活のリズムが壊れる
② 群れ遊びの時を持てない
③ 友だちを持たない成長のスタイル
◇子供にとっての学校
□楽しさと充実
学校の楽しさとは大人の仕事に性質が近い
充実感
∥
◎ 「授業に興味が持てる」「集中できる」
□学校内での楽しい時間
学校が楽しい-6割 学校が楽しくない-2割
くつろげる場所
図書室66.4%
屋上 53.5%
校庭 46.3%
↓
◎座学は楽しくない
□学校行事の楽しさ
休み時間 89.0%
クラブ 80.6%
☆「神様がくれたサツマイモ」海老名香葉子 2005年 出典未記録【再掲載 2011.5】
昭和20年3月10日、米軍による大空襲に遭い、たった2時間
のうちに10万人が亡くなりました。
早いものであれから60年。
当時11歳だった私も70歳になり、これ以上齢を重ねては、戦火
の恐ろしさと平和の大切さを後世に伝えることができなくなる。
その思いに駆られ、3年前から慰霊碑と母子像を建立したいとい
う思いを抱いていました。
当初は都や区から土地を分けていただこうとお願いにあがりまし
たが、なかなかOKの返事をいただけません。
そこで上野の寛永寺様へ一隅を安く分けていただけないかと相談
に伺いました。
3日後に
「あなたの熱意に打たれました」
とお住職様からお電話をいただき、土地を項戴することができまし
た。
結果的に都からも上野公園の一角を分けていただくこととなり、
次はいよいよ建立です。
慰霊確と母子像の二つも建立するとなると大事業です。
何度も無理かと思う場面がありましたが、
「お母さん、こんな機会はもうないから無理してでもやったほうが
いい」
「私のお年玉の貯金を全部ばあばにあげる」
と、子や孫に背中を押されました。
その他にも数え切れないくらい多くの方々に励ましていただき、
戦後60周年である今年の3月9日、無事除幕式を迎えることがで
きました。
その時下の息子が、
「空襲で亡くなった10万人の方がお母さんに力を貸してくれたん
だね」
と言いましたが、私もまったくその通りだと思っています。
その力を貸してくれた10万人の中には、私の両親と3人の兄弟
がいます。
私は戦火を逃れるため、前年の昭和19年に静岡県沼津市のおば
の家に一人で縁故疎開しました。
出発当日、私は大好きなおばさんの家に行けるとわくわくして
いましたが、母は涙をぽろぽろこぼしながら、お守りを首からか
けてくれると、
「かよちゃんは明るくて元気で強い子だから大丈夫よ」
と何度も、何度も言うのです。
母があまりにも悲しい顔をしているので、だんだんと心細くな
ってきました。
「母ちゃん、友達ができなかったらどうしよう」
とつぶやくと、母は私の心細さを取り払ってくれるかのように、
「大丈夫よ。あなたは人に好かれるから大丈夫よ。明るくて元気
で強い子だ から大丈夫よ」
と何度も何度も繰り返しました。
それが最後の言葉となりました。
空襲後、生き残ったのは疎開していた私と、すぐ上の兄・喜三
郎だけでした。
兄は家族5人が亡くなったことを伝えるため沼津までやってき
ましたが、きっと焼け爛れた死体の山をまたいで、汽車にぶら下
がるようにして東京からきてくれたのでしょう。
その夜、私は兄にしがみ付きながら、いつまでも泣いていまし
た。
戦中戦後の動乱で誰もが生きていくのに精一杯の時代、2人も
おばに世話になるのは悪いと、兄はあてもなく東京へ戻り、私は
引き続き沼津のおばの家に残りました。
そのあとは東京・中野のおばのもとへ身を寄せました。
どうにか置いてもらおうと一所懸命お手伝いをしましたが、あ
る冬の日、瓶に水を張っていないとい理由で、おばにものすごく
叱られました。
それまでは「いい子でいなくちゃ、好かれる子でいなくちゃ」
と思っていましたが、その日はひどく悲しくなって家を飛び出し
ました。
向かったのは、昔家族で住んでいた本所の家の焼け跡でした。
焼け残った石段に腰を下ろし、ヒラヒラと雪が舞い散る中、目
を閉じると家族の皆と過ごした平和な日々が蘇ってきました。
「どうして私を一人にしたの? もうこのままでいいや…」
その時、一人の復員兵が通りかかりました。
私の前で立ち止まり、鞄の中から1本のさつまいもを取り出し
たかと思うと、半分に割って差し出しました。
「姉ちゃん、これ食べな。頑張らなくちゃダメだよ!」
物が食べられない時代、見ず知らずの人が食糧を分けてくれる
ことなど考えられないことです。
私は夢中になって頬ばりましたが、ふとお礼を言うのを忘れた
と気づき、振り返りましたが、もうそこには誰もいませんでした。
このエピソードは『あした元気になあれ-半分のさつまいも-』
として、今夏映画化されましたが、いまにして思うと、あれは神
様だったのかもしれません。
神は私に「生きよ」と告げたのだと思っています。
さつまいもを食べて元気になった私は、走っておばの家に戻り
ましたが、しばらくするとその家にもいられなくなりました。
つてで転々とする中で、つらいことはたくさんありました。
でも、すねたり、くじけたり、横道にそれるようなことはあり
ませんでした。
それは両親に愛された記憶があるからです。
悪さをしたら父ちゃんが悲しむ、こんなことで泣いたら、別れ
際に「かよちゃんは強い子よ」と言ってくれた母ちゃんが悲しむ。
それが生きる支えとなり、いつも笑顔で生きてきました。
平和な時代に生きるいまの人たちには、子どもをいっぱいいっ
ぱい愛してやってほしいと思います。
親に心底愛された子どもは、苦境に遭っても絶対に乗り越えて
いけます。
そしてもう二度と戦争によって私のような悲しい思いを、地球
上のすべての子どもたちにさせられません。
それが戦後60年の節目に願うことであり、私のすべての活動
の原動力になっています。(談)
(えびな・かよこ=エッセイスト)
「深谷昌志さんはこんなことを」の紹介 9回目、
『子供らしさと学校の終焉』の要約の4回目です。
学習塾の様子もだいぶ変わってきました。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「塾の先生を評価」
・「学習塾の緊張感『手を抜くと子供が減り廃校の危機に』」
・「学校の楽しさとは大人の仕事に性質が近い」
もう一つ、再掲載となりますが、海老名香葉子さんの
「神さまがくれたサツマイモ」を載せます。
幾度も再掲載してきた話ですが、戦争のおそろしさと、
わが子を愛することの大切さを教えられます。
こどもの日に、
くったくのない子どもの笑顔が見られる世の中をと願います。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「深谷昌志さんはこんなことを」⑨-『子供らしさと学校の終焉』黎明書房 2000年 (4)
◇放課後の子供たち
□学習塾通塾率 文部省調査
昭和51年 昭和60年 平成5年
小4 12 15 24
小5 19 21 31
小6 26 30 42
中1 38 42 53
中2 39 45 59
中3 37 47 67
(単位 %)
□表から分かること
① 塾通いの全国化
② 塾通いの低学年化
③ 学習塾の公教育化
□塾の方が「宿題多く」「予習が必要」だが
「授業が楽しく」「授業が分かりやすい」
→ 塾の先生を評価
□傾向
① 塾に行くのは楽しい
② 学習塾の教え方は学校よりうまい
③ 塾の先生は学校の先生より尊敬できる
④ 放課後の時間を拘束される
|
◎学習塾の緊張感
「手を抜くと子供が減り,廃校の危機に」
□学習塾の問題点
① 生活のリズムが壊れる
② 群れ遊びの時を持てない
③ 友だちを持たない成長のスタイル
◇子供にとっての学校
□楽しさと充実
学校の楽しさとは大人の仕事に性質が近い
充実感
∥
◎ 「授業に興味が持てる」「集中できる」
□学校内での楽しい時間
学校が楽しい-6割 学校が楽しくない-2割
くつろげる場所
図書室66.4%
屋上 53.5%
校庭 46.3%
↓
◎座学は楽しくない
□学校行事の楽しさ
休み時間 89.0%
クラブ 80.6%
☆「神様がくれたサツマイモ」海老名香葉子 2005年 出典未記録【再掲載 2011.5】
昭和20年3月10日、米軍による大空襲に遭い、たった2時間
のうちに10万人が亡くなりました。
早いものであれから60年。
当時11歳だった私も70歳になり、これ以上齢を重ねては、戦火
の恐ろしさと平和の大切さを後世に伝えることができなくなる。
その思いに駆られ、3年前から慰霊碑と母子像を建立したいとい
う思いを抱いていました。
当初は都や区から土地を分けていただこうとお願いにあがりまし
たが、なかなかOKの返事をいただけません。
そこで上野の寛永寺様へ一隅を安く分けていただけないかと相談
に伺いました。
3日後に
「あなたの熱意に打たれました」
とお住職様からお電話をいただき、土地を項戴することができまし
た。
結果的に都からも上野公園の一角を分けていただくこととなり、
次はいよいよ建立です。
慰霊確と母子像の二つも建立するとなると大事業です。
何度も無理かと思う場面がありましたが、
「お母さん、こんな機会はもうないから無理してでもやったほうが
いい」
「私のお年玉の貯金を全部ばあばにあげる」
と、子や孫に背中を押されました。
その他にも数え切れないくらい多くの方々に励ましていただき、
戦後60周年である今年の3月9日、無事除幕式を迎えることがで
きました。
その時下の息子が、
「空襲で亡くなった10万人の方がお母さんに力を貸してくれたん
だね」
と言いましたが、私もまったくその通りだと思っています。
その力を貸してくれた10万人の中には、私の両親と3人の兄弟
がいます。
私は戦火を逃れるため、前年の昭和19年に静岡県沼津市のおば
の家に一人で縁故疎開しました。
出発当日、私は大好きなおばさんの家に行けるとわくわくして
いましたが、母は涙をぽろぽろこぼしながら、お守りを首からか
けてくれると、
「かよちゃんは明るくて元気で強い子だから大丈夫よ」
と何度も、何度も言うのです。
母があまりにも悲しい顔をしているので、だんだんと心細くな
ってきました。
「母ちゃん、友達ができなかったらどうしよう」
とつぶやくと、母は私の心細さを取り払ってくれるかのように、
「大丈夫よ。あなたは人に好かれるから大丈夫よ。明るくて元気
で強い子だ から大丈夫よ」
と何度も何度も繰り返しました。
それが最後の言葉となりました。
空襲後、生き残ったのは疎開していた私と、すぐ上の兄・喜三
郎だけでした。
兄は家族5人が亡くなったことを伝えるため沼津までやってき
ましたが、きっと焼け爛れた死体の山をまたいで、汽車にぶら下
がるようにして東京からきてくれたのでしょう。
その夜、私は兄にしがみ付きながら、いつまでも泣いていまし
た。
戦中戦後の動乱で誰もが生きていくのに精一杯の時代、2人も
おばに世話になるのは悪いと、兄はあてもなく東京へ戻り、私は
引き続き沼津のおばの家に残りました。
そのあとは東京・中野のおばのもとへ身を寄せました。
どうにか置いてもらおうと一所懸命お手伝いをしましたが、あ
る冬の日、瓶に水を張っていないとい理由で、おばにものすごく
叱られました。
それまでは「いい子でいなくちゃ、好かれる子でいなくちゃ」
と思っていましたが、その日はひどく悲しくなって家を飛び出し
ました。
向かったのは、昔家族で住んでいた本所の家の焼け跡でした。
焼け残った石段に腰を下ろし、ヒラヒラと雪が舞い散る中、目
を閉じると家族の皆と過ごした平和な日々が蘇ってきました。
「どうして私を一人にしたの? もうこのままでいいや…」
その時、一人の復員兵が通りかかりました。
私の前で立ち止まり、鞄の中から1本のさつまいもを取り出し
たかと思うと、半分に割って差し出しました。
「姉ちゃん、これ食べな。頑張らなくちゃダメだよ!」
物が食べられない時代、見ず知らずの人が食糧を分けてくれる
ことなど考えられないことです。
私は夢中になって頬ばりましたが、ふとお礼を言うのを忘れた
と気づき、振り返りましたが、もうそこには誰もいませんでした。
このエピソードは『あした元気になあれ-半分のさつまいも-』
として、今夏映画化されましたが、いまにして思うと、あれは神
様だったのかもしれません。
神は私に「生きよ」と告げたのだと思っています。
さつまいもを食べて元気になった私は、走っておばの家に戻り
ましたが、しばらくするとその家にもいられなくなりました。
つてで転々とする中で、つらいことはたくさんありました。
でも、すねたり、くじけたり、横道にそれるようなことはあり
ませんでした。
それは両親に愛された記憶があるからです。
悪さをしたら父ちゃんが悲しむ、こんなことで泣いたら、別れ
際に「かよちゃんは強い子よ」と言ってくれた母ちゃんが悲しむ。
それが生きる支えとなり、いつも笑顔で生きてきました。
平和な時代に生きるいまの人たちには、子どもをいっぱいいっ
ぱい愛してやってほしいと思います。
親に心底愛された子どもは、苦境に遭っても絶対に乗り越えて
いけます。
そしてもう二度と戦争によって私のような悲しい思いを、地球
上のすべての子どもたちにさせられません。
それが戦後60年の節目に願うことであり、私のすべての活動
の原動力になっています。(談)
(えびな・かよこ=エッセイスト)