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「宮本常一 写真・日記集成」下巻 昭和40-56 毎日新聞社 2005年 /「津波と原発」佐野眞一 講談社 2011年 ③【再掲載 2012.7】 [読書記録 民俗]

今回は、2月10日の上巻に続いて、宮本常一さんの
「宮本常一 写真・日記集成」下巻を紹介します。



出版社の紹介には

「子どもたちの眼が輝いていた、忘れられた日本がここにある。
 民俗学者・宮本常一が遺した写真の全貌が、ここに明らかに。
 約3千点の写真と、1万3千余日の日記で綴る、戦後昭和の日本の記録。
 ・多数の未公開写真を含む約3000カットを掲載
 ・オリジナルフィルムから新たにプリントした精彩な画像
 ・別巻には、宮本常一自身が整理した写真帳(戦前・戦中の写真400点)の
  全体を原寸大で再現
 ・未公開の日記(昭和20年1月から昭和56年1月まで)を収録
 ・写真と日記を対照させた編年体で構成」
 
とあります。



今回紹介分から強く印象に残った言葉は…

・「昭和40(1965)年  57、 58歳  4/1より武蔵野美術大学教授となる」


・「昭和42(1967)年 『宮本常一著作集』刊行」
- 未来社の最近刊「宮本常一著作集52」の発行日は2021年12月25日。
  刊行が始まってから50年以上たつのにまだ完結していません。
  どれだけ多くの著作があったのかが分かります。


・「昭和46(1971)年 3月15日に芦田恵之助『綴方12ヶ月』解説」
- 綴り方教育、国語科教育の本の解説を務めたのは、
  宮本さんが元小学校教員であったことに関係があるのでしょうか。


・「昭和51(1976)年 4月9日 磐田南高校で『旅に学ぶ』講演」
- お隣の市の高校で、わたしが高校に入学したばかりの頃の講演。
  聞くことができた磐南生をうらやましく感じます。
  



もう一つ、再掲載になりますが、佐野眞一さんの
「津波と原発」③を載せます。  
わたしは本書で日本の原子力発電がどのように始まったかを知りました。



<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。






☆「宮本常一 写真・日記集成」下巻 昭和40-56 毎日新聞社 2005年

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◇昭和40(1965)年  57、 58歳
  4/1  武蔵野美術大学教授
 
  8/ ~ 『日本の詩情』

  木下順二  南博  木村伊兵衛


◇昭和41(1966)年  58、59歳
  1月 日本観光文化研究所 所長


◇昭和42(1967)年 
  3月 『あるくみるきく』創刊
 
  3/3-9/15 肺結核で入院
 
  今和次郎 江上波夫

  『宮本常一著作集』刊行


◇昭和43(1968)年
  4月『民具マンスリー』創刊

  水上勉対談 大宅壮一対談
 
  3/4(月) 舞阪公民館で話し 弁天島泊
 
  3/5(火) 雄踏町にて家庭教育の話し


◇昭和44(1969)年
  8/15 星野哲郎 川添登 川喜多二郎


◇昭和45(1970)年
  田耕(田尻耕三)の「おんでこ座」設立に協力


◇昭和46(1971)年
  3/15 芦田恵之助『綴方12ヶ月』解説
 
  5/8 梅棹忠夫、川喜多二郎
 
  神崎家


◇昭和48(1973)年
  4/29 大阪府高石市取石 取石小学校(宮本勤務 S10-14)

  1/18 松谷みよ子

  11/18 『八条実記』菊池寛賞

  11/22(木) 月の花祭


◇昭和50(1975)年
  日本民具学会 7/19~8/30 アフリカ
 
  1/8 加藤秀俊 
 
  11/7(金) NHK『お母さんの勉強室』


◇昭和51(1976)年
  4/9 磐田南高校 「旅に学ぶ」講演 生徒○○ 高木氏
10:50-12:20 講演
     13:00-14:00 質問


◇昭和52(1977)年 
  3月 大学退職

  4月~ 村崎修二 猿回し復活「周防猿回しの会」
 
  5月 武蔵野美術大学名誉教授

  12月 今和次郎賞
 
  三国一郎


◇昭和53(1978)年
  1月 猿の調教始まる

  6月 村崎氏とサル


◇昭和54(1979)年
  民博協力者

  山古志村


◇昭和55(1980)年
  郷土大学発足

  12/23~ 府中病院に入院


◇昭和56(1981)年
  1月30日(金)逝去






☆「津波と原発」佐野眞一 講談社 2011年 ③【再掲載 2012.7】

[菅原文太さんの文庫本解説より(講談社BOOK倶楽部サイトより)]
被災者の肉声を縦軸に、現地の歴史的背景を横軸に紡ぎ、各メディアから高い
評価を得た東日本大震災ルポルタージュの傑作を文庫化。あの未曾有の大災害
の、一週間後に津波に襲われた被災地各所を、一ヶ月半後には福島第一原発周
辺の立ち入り禁止区域内を緊急取材した筆者が見たものとは―。『あのとき、
何が起きたのか。何が問題になっているのか。佐野さんにしか表せない、骨太
な文章に心を打たれた」(解説・菅原文太)
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第2部 原発街道を往く
◇第2章 原子力の父・正力松太郎
□原子力開発の父と「影武者」

□正力松太郎
  警察庁 → 読売新聞社
昭和30(1955)年 衆議院議員 → 原子力委員会委員長に
正力の影武者 
    = 柴田秀利「我が国テレビの父」「原子力の父」
橋本清之助

 
□読売新聞の原子力キャンペーン

 
□核導入とCIA
アイゼンハワー
    「アトムズ・フォー・ピース」演説
読売新聞 
    原子力新聞に
日米原子力協定
    昭和30年6月21日

 
□原子力平和利用博覧会 
  第五福竜丸展示

 
□英国からの招待状 
  昭和31(1965)年3月1日 日本原子力産業会様 
  → イギリス式導入 - 東海村

 
□東海村の火入れ式

 
□天覧原子炉 - 正力の巨大な掌の中で
アメリカは柴田を利用し、柴田はアメリカの戦略を利用した

  ◎「わたしたちが今も正力の掌の上で安穏と暮らし、そこから抜け出す手
    がかりさえ持っていない」
新聞・テレビ → 原子力の電気

 
□「原子力的日光浴」の意味するもの  
平成11(1999)年9月30日
    東海村JCOでの臨界事故
「チェレンコフ光」「原子力的日光浴」

 

◇なぜ「フクシマ」に原発は建設されたか  
□フクシマと「浜通り」の人々
長者原 陸軍熊谷飛行隊の練習場 
     300haが接収 60機
昭和23年まで仙台財務局
        → 払い下げ
元の地権者の農民
1/3は国土家計画堤康二朗
塩田事業 → 荒れ地

   大竹作摩
     戦後2代目(昭和22.5)昭和27年 県知事
高等小学校出 只見川電源開発
  昭和35~昭和38 衆議院議員

   木村守江知事 
     木川一隆社員コンビ
貧しい地域に原発
電源三法(田中角栄) 
      → 交付金



◇木川一隆と木村守江の接点
□昭和24(1949)年
  電力業界再編のため電気事業再編成審議会
  ◎ 戦前電力会社は独占企業でなかったため、現在のような供給義務
     はなく、電力の恩恵を受ける地域間の不公平さが目立った

「九電力案」松永安左エ門会長

 
□原発を導入した町民たち 
  田中清太郎・元双葉町長
土建屋社長 ミニ田中角栄

 
□反対派町長・岩本忠夫が「転向」したわけ
岩本忠夫町長(1985-2005)

 
□東京電力の策謀
「原発の現場」朝日新聞いわき支局1980 「原発のある風景」1983
電力会社は 
    … 警察の再就職先
… 職場警察連絡会議
… メディア対策
「白河以北一山三文」
   ← 中央の為政者の負け惜しみではないか?
美しい山、美しい海に囲まれた東北は、喉から手が出るほどほし
     い地だった。しかし、制圧のためにおびただしい犠牲が…

東北差別につながったのではないか
 ◎「原発というのは要するに運転しているときが、つまり、動いているとき
   がいちばん安全なんです。逆に言えば、止めた後が大変なんです」

 
□原発労働はなぜ誇りを生まないか
「フクシマ論-原子力ムラはなぜ生まれたのか」 
後ろめたい労働

 「東電そのものが政治だと分かった」        
◎ 原発が権力の中枢にビルトイン
田中角栄
「新幹線、高速道路、原発はセットだ」

 ◎「東電の奥の奥にあるのは圧倒的なパターリズムなんです。お前ら知らな
   いだろう、みたいな。その裏返しで、オレは日本を背負っているんだと
   いう意識が強烈にある」

 
□浜通り出身の原子炉研究者
松本哲男・東京都市大学工学部教授(旧武蔵工大)
武蔵工大 = 東急の五島慶太がつくった学校
◎「経済浮揚のカンフル剤だと思っていた電源三法交付金が覚醒剤に変わる
   のはあっというまだった」

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