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ふえる一方の不登校をどうとらるか 「決断を次回送りにのばす悪癖の背景に」- 分かっていて動きのとれない、という心理- 伊藤友宣(神戸心療親子研究室・主宰) ④ /「子どもをいかにしつければよいのか」 八ッ塚実 『子どもが問題行動を起こす前に読む本』PHPより 1994年 ②【再掲載 2012.7】 [読書記録 教育]

今回は、5月 7日に続いて伊藤友宣さんの
「ふえる一方の不登校をどうとらえるか」4回目を紹介します。



出典、年度は不明ですが、
平成14、15年頃の月刊「少年育成」誌ではないかと思われます。


冷静な分析が大変参考になります。

今回紹介分で強く印象に残った言葉は…

・「この時期の処置法は、第一に登校刺激を与えないことだとかが強調されがちなのです。」


・「公的な教育現場では、不登校児のために特別なふれあい教室とか適応指導センターと
  かと称する施設の運営に力を入れているようですが、正規の授業からはずれて、とに
かく来さえすればそこでは何をしなくちゃならないとかの拘束がないというのでは、
その体験を生きた転機とする当人のよほどの気力が生じない限り、いたずらに敗退感
が強まるばかりでしょう。」



・「いやがる当人にやいやいと、やたら、『休んではいけない。学校へ行け』とけしかけ
ることを、『登校刺激を与える』と称するのらしいのですが、『登校刺激を与えるな』
とは、つまり、学校とか勉強とかを口にしてはいけないということだととらえられて、
  休みたいなら休みたいだけ休ませよ、という意味に理解されてまかり通っているよう
ですね。」


「八ツ塚さんの『はじめの三日が勝負』とは、なんという違いであろうことか、とあき れます。一面の気持ちが子どもの心のすべてとは違うのですからね。」



・「学校を自分から切り離してくれというのではなくて、学校についての二律背反的な悶
々とした現状の思いを正しくとらえてほしいと熱望するのです。登校刺激の刺激とい
うのは、いやな刺激もある反面、プラスの刺激もあるのです。」







もう一つ、再掲載となりますが、この本にも書かれている八ッ塚実さんの
『子どもが問題行動を起こす前に読む本』②を載せます。
当初で取り上げられていることは、今や驚くことではなくなっているように思います。
わたしは、八ッ塚さんの姿勢が望まれると考えますが…。


大変長くなってしまいますが、皆で考えたい内容だと感じます。





<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト







ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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  ものづくりのまちとも言われる浜松。
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☆ふえる一方の不登校をどうとらるか  「決断を次回送りにのばす悪癖の背景に」- 分かっていて動きのとれない、という心理- 伊藤友宣(神戸心療親子研究室・主宰) ④


◇成り行き任せで本質を問わない

 不登校についていわば親がとるべき対処の仕方に関して、多くの学校で言われたりいろ
いろな解説で解かれたりするのは、おおむね、子ども自体に(あるいは、そんな子に育っ
た成長過程に)問題や原因があるのであり、不登枚が起こった時点では、事態をとにかく
受入れて、やがては、それぞれに妥当なその先の進路を考えてやりましょう、という向き
のとらえ方が圧倒的なようです。



 不登校児の分類などがなされていて、それは甘やかされタイプ、潔癖性タイプ、感情の
ない無気力タイプ、不満と不安定の非行型タイプなどだとか。


 そして、不登校児がたどる時期や症状の段階が頚型的にこういう経過を示すものだとし
ていて、つまり、不登校のはじまりは不機嫌で朝になると人格が変ったように重く、休日
は極端に陽気だとか。


 この時期の処置法は、第一に登校刺激を与えないことだとかが強調されがちなのです。
 

 なったらなったで仕方がない。


 事を荒立ててより厄介な危機的状況に追い込むよりは、黙って経過を見守るのがよい、
と。


 で、その後のたどりがちな経過として、初期は、反抗や暴力の段階、中期はとじこもり
の時期で、長い経過の末に、せめて、指導センターに通うとか、フリースクールとか、通
信制や、高校生なら大検を受けて大学進学。


 あるいは学歴の問われないフリーターへと進む、と解説します。  



 公的な教育現場では、不登校児のために特別なふれあい教室とか適応指導センターとか
と称する施設の運営に力を入れているようですが、正規の授業からはずれて、とにかく来
さえすればそこでは何をしなくちゃならないとかの拘束がないというのでは、その体験を
生きた転機とする当人のよほどの気力が生じない限り、いたずらに敗退感が強まるばかり
でしょう。



 前回に述べた八ツ塚実さんの口癖だった

「登校拒否ははじめの三日が勝負」

という認識の仕方とは、あまりにも違うのが、この20年来の一般的な登校拒否あるいは
不登校のとらえ方だった、と言わざるを得ないのです。





◇「はじめの三日が勝負」とは逆に

 あれこれと干渉的な力添えをしても、むしろ逆効果だと分かった結果、担任教員が責任
を感じて力むことが、登校拒否への正しい対処の仕方とも言えないという文部省(現・文
科省)からの通達も出て、今では対症療法的な散々の徒労を、教員が強制されなくなりま
した。


 その挙句、年々不登校はふえる一方で、その延長としての引き込もりが今や社会問題化
しているのです。



 八ツ塚さんの言っておられたのは、登校拒否だと認めざるを得ぬような長い休みになっ
てしまう前に、教員が当人の心のこわばりをほぐしてゆるやかに自発的な健康さへと、本
人を立ち直らせてやらねばならないということでした。


 教師に責任があるかどうかどころか、特に義務教育レベルでの登校拒否の現実は、教育
の本質の問題がつきつけられているのだというのでした。


 問題打開の向きへの気持の流れを共有してやれなきゃならないのだ、とするのであった
と思います。



 それを、逆に「登校刺激を与えるな」などという曖昧な用語で手をつかねてしまうのは、
あまりにもなおざりに過ぎるのではありまんせんか。


 だいたいこの「登校刺激」などという言葉が、もっともらしい専門用語に見えていい加
減すぎるのです。


 いやがる当人にやいやいと、やたら、「休んではいけない。学校へ行け」とけしかける
ことを、「登校刺激を与える」と称するのらしいのですが、「登校刺激を与えるな」とは、
つまり、学校とか勉強とかを口にしてはいけないということだととらえられて、休みたい
なら休みたいだけ休ませよ、という意味に理解されてまかり通っているようですね。



 八ツ塚さんの「はじめの三日が勝負」とは、なんという違いであろうことか、とあきれ
ます。



 一面の気持ちが子どもの心のすべてとは違うのですからね。


 学校に行くことをひるむ気持ちの反面に、平気で愉しく行けることこそ子ども自身の本
来の願いであるといったものでしょう。


 学校は、子にとっては七面倒に考える前に、とにかく年相応の仲間と群れておれる安心
に魅かれて子どもの足が向くところですよ。


 行きたいのに自分はこうして休んでしまう、ああどういうことなのだ、と悶々としてい
る子に、あっけらかんと、「休みたいだけ休みなさいね」と物分かりのよさげな態度で、
あわれみをかけてくれる親や教師に、いらだちやより一層の反発と拒否を感じて口をとざ
すのは、あまりにも当然と言うべきではありませんか。



 学校を自分から切り離してくれというのではなくて、学校についての二律背反的な悶々
とした現状の思いを正しくとらえてほしいと熱望するのです。


 登校刺激の刺激というのは、いやな刺激もある反面、プラスの刺激もあるのです。


 複雑な悶々とした軋轢を明快に解析して支えてくれる刺激が、それこそが必要なのです。


 当り前の誰ものように学校へは行きたいのがやまやまなのに、どうしても行けなくして
いるなにかが重層的に自分の前に立ちはだかっているのだ。


 それがなにか、ということもそれを退治する方法も、よく分からない、と頭をかかえ込
んでやる気をなくす、というのが子どもの現実なわけでしょう。















☆「子どもをいかにしつければよいのか」 八ッ塚実 『子どもが問題行動を起こす前に読む本』PHPより 1994年 ②【再掲載 2012.7】

<出版社の案内>

子どもが問題行動を起こしたら、すでに打つ手はないという観点で、それ以前の平々凡々
の日々の大切さ、幼児のうちに、小学生の時に、中学で、接する親や教師の態度や言葉の、
子どもに対する影響について説く。
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◇マナーを教えない若い親たち

 『朝日新聞』の投書欄を読んでいたら、こんな文章がのっていた。


□「しつけ捨てた若い両親哀れ」              福井市 笠羽 整二(66)

 駅の食堂で、急に後ろが騒がしくなった。振り向くと、通路で幼女が跳ね、奇声をあげ
ている。

 たまりかねて、思わず


「少し静かにして下さい」


と、強い調子で注意してしまった。


 返ってきたのは、若い父親の


「お前の方がうるさい」。


それにおっかぶせて


「二つよ。二つの子にどうしろというんです。」


という甲高い母親の声だった。


 私は、立ち上がって、母親の目を見て言った。


「ダメなことはダメとはっきり教えなさいよ。お子さんは分かりますよ。しつけは五つ六
 つまでが肝心と言うじゃありませんか。手遅れにならんようになさい。」


 けわしい目の母親の唇がかすかに震えたが、声にはならなかった。



 戦前の親は、公衆の中での行儀にはうるさかった。この古くからのしつけの糸がいつ切
れてしまったのだろうか。


 その結果が、先の若い親の出現である。


 人からの注意には露骨に不倫快感を表すが、人への迷惑には無関心だ。


 これでは、欠陥人間といってよかろう。


 しつけを捨てた日本人の心の傷は深い。
                     (平成5年9月22日付『朝日新聞』より)





 こんな体験は、私にもある。それに対してこの方は、きちんと人間として対応されてい
る。


 勇気のある方だと思う。
 

 この投書を追うように、賛否両論の意見がいくつか紹介された。私と同じように、賛意
を表する人。

 全くの反論の人。

「乳児・幼児を運れた若い親には、外出するなというのか」というような文章もあった。



「私たちが、どんなに肩身の狭い思いをしていることか」と、いいたげな文章で反論され
ると、投書者は一転して立場の悪い、イヤミ人間にされてしまう。技を仕掛けるよりも、
巧みに返し技で切り返すすべに、現代の人は長けていらっしやる。



 この手の子どもは、食堂に限らず、列車内にも、公会堂にも、公園にも、山ほど氾濫し
ている。



 夏休みのシーズンに新幹線に乗るのは、私はいやだ。


 通路を走り、自動開閉のドアで遊ぶ。


 やたらに冷水を飲みに行き、大声を発する。


「新幹線俳句」の夏の季語にしてもいいほど、この時期の車内は落ち着かない。


 この子たちの親はどこにいるんだろうと、つい見まわしてしまう。



 共通していえるのは、両親とも全く注意しないで寝ている。

 子どもってそんなものよ、という態度で、知らぬ顔をきめ込んでいる。

 鷹揚な、寛容な、理解のありそうなそぶりに、私はうんざりしてしまう。




 現場の教員時代にも、これと全く同じことを体験した。

 教員の集合が開かれる。

 共働きの若い教員夫婦にしてみれば、二人が参加するのだから、当然子ども連れだ
と考えているのだろう。

 連れてくるなとはいわないが、会場での態度には、考えさせられる。


 走りまわることは、新幹線の車内と同じこと。


 会場が体育館だったりすると、広いので特に子どもは喜ぶのだろう。


 たちまち何人かのグループが形成されて、運動会がはじまる。


 ひどい子になると、集合が進行されているステージに上がる子すらいる。


 もちろん親である教師は何も注意しない。



 ある時、思わず「困ったもんだな」と、つぶやいたことがあるが、隣にすわっていた年
嵩の教員が、こともなげにいった。


「子どもは、あんなもんですよ」


 開いた目がふさがらなかった。


「そんなもんじや、いけませんよ」という言葉を、私はのみ込んだ。


 教員なんだから、日常的に児童・生徒に注意し、指導しているはずなのだ。


 おそらく自分の教室で同じ現象が起こったら、眉をつりあげて叱りとはすだろうに。


何百人という参加者で開く集合の雰囲気がこわされても、知らぬ顔でいる。





◇「その時」「その場」生活指導の原点

 冒頭の投書にかえろう。

 この投書に登場する若い親と子からは、いくつかの教訓が読み取れる。


 親子で外食することの目的は、ただ単に食事をすることだけが目的ではない。


 それ以外に、外食のマナーを体験の中から身につけさせることも目的だ。


 同じように、新幹線に乗ることは、ただそれを利用して移動するだけではない。


 他の乗客とともに過ごす、車内でのマナーを身につける唯一の場でもある。


「その時、その場で」


 これが生活指導の原点なのだ。


 ところが、その親はこういうだろう。


「わかっている。そんなことくらい。だが二歳の子だ。あまりにも小さすぎて指導
 にならないし、こんな小さな子は、動きまわるのが当たり前じやないか」

と。



 投書者もいっているように、二歳には二歳の指導がある。


生まれたその日からはじまる指導。


「その時、その場で」につけ加えて「その子なりに!」。


 年齢もあるだろう。

 個性もあるだろう。

 それを見極めた指導は、絶対に必要だ。


 二歳を口実に逃げるとすれば、では何歳になったらはじめるつもりなのだろう。


 生活習慣の指導は、何歳からはじめるというようなものではないのだ。


 おそらく、この若い親は、何歳になっても指導しないはずだ。


 世の中の人が、「今の学校はどうしているんだ!・指導がなっていない!」という時、
それは、たまたま見かけた目にあまる生徒をネタにいうのが常だ。


 こんな夜遅く……。

 あんな髪形をして……。

 タバコなんか吸って……。

 一体あの服装はどうなっているんだ……。

 ぜんぜん言うことを聞かないじやないか……。

 あの反抗的な態度は何だ……。


 「目にあまる」ということから、問題行動のレッテルがはられる。


 中学・高校生の年代になると、エネルギーも大きくなる。行動半径も大きくなる。


 外からの注目度も大きくなる。


 なかなか大人の于に負えなくなる。


 だから「目にあまる」わけだが、これと全く同じことを幼児がやったら、楽々と見逃し
てもらえるのだ。


 投書に登場した二歳の女の子は、親の目から見れば、やんちゃで可愛くてしかたがない
のだ。

 しかし、それと全く同じことを中学生になってやると、たちまち女番長と呼ばれるにき
まっている。


「あたり構わぬあの態度は何よ!」


といわれるのだ。


 見逃さないでほしい。

 見通してほしい。


 幼児の行為と思春期を迎えた子の行為の底に流れる共通性を。


 一直線につながっているということを。




 いつだったか、私かまだ現職の中学校教員の頃、バスの停留所に立っていた時のことだ。


 顔見知りの保育園の園長さんがやってきて、同じバスを待つことになった。


「中学校の教育はどうなっているんですかねえ。保育園の頃は、あんなに可愛い子だった
 のに、中学へ行くと悪くなる。どういう指導をすると、あんなに悪くなるんでしょうね!」

 
 皮肉たっぷりな言葉を浴びせられて、私は言葉に困ったことがある。



 たしかに、中学生になって、行動や物腰が目立って変化する子が出る。


 目にあまる行為に走る子が出る。


 星の数ほどある原因の1つが、強烈に作用して起こる変化。


 全くわけもなく、教師の指導力だけで一気に変化が起こることなどないのだ。


 伏線があり、きっかけがある。


 中学校に全く責任がないというつもりはないが、その前段階の小学校にも、保育園にも、
乳児期にも、そしてその間、一貫してかかわり続けてきた家庭にも、伏線ときっかけをつ
くった責任はある。


 投書に登場した子のようなある種の無軌道を、可愛いと見るか、何かの原型と見るか。


 この二者択一で、教育の視点は大きく変わる。

 

 保育園の園長さんに、私はあえて反論しなかったけれど、「幼いがゆえの見逃し」がな
いとはいえないのだ。


 エスカレートする人間の行為について、もう少し敏感になってほしい。


 乳幼児と、中学・高校生は切れて存在しているのではない。


 一直線につながっているのだ。


 乳児期が幼児期をつくる。


 幼児期が小学生時代をつくる。


 小学生時代が中学生時代をつくる。


 中学生時代が高校生時代をつくる。

 
 高校生時代がその後の大人時代の原型となる。


 だから、幼児教育が大切だといわれるのだ。





◇安易な幼児教育が生み出すもの

 私は、非行少年というレッテルをしっかりはられた少年少女には、特に関心がある。


 子どもウォッチングの対象に当然なる。


 よく観察しないと、私たちの仕事は何もはじまらない。


 そうした子たちは、とりわけ大人びた態度をとり、うそぶく。


 しかし、そうした言葉のはしばしに、おどろくべき幼児性が認められる。


 なりは大きくなっているけれど、その実態は完全な幼児のそれなのだ。



 持続力。

 価値観。

 人生観。

 公共性。



 どれをとっても、正しく育っているとはいい難い。

 こわいほどの幼児性。

 私には彼らの行為が、とうてい年齢相応のものには思えない。


 ひどい言い方をすると思われるかもしれないが、幼児のそれなのだ。


 可愛い、可愛いと猫可愛がりで育てていたペットが、猛獣と呼ばれる域に育ってびっく
りしているような、そんな構図に見えてくる。


「幼い日の無教育」


「見逃し、見落とし」


 私には、彼らが安易な幼児教育の犠牲者に見えてしかたがない。


 私は、この投書に登場する若い両親に、話してあげたい。


 今二歳のお子さんが、今のままの行為を中学三年生になってやったらどうなるか。


 体も大きいし、力もついている。

 大人の力では簡単に制止できない。

 ものの見事に非難の目が集中することだろう。

 可愛いのは今だけだということを、忘れないではしい。



 いよいよ小学校の高学年ともなり、目前に中学校が見えはしめる頃、親の目は成績に注
がれる。


 おそるべき非礼と無軌道の原型を内包しているというのに、それには気づかない。


「二歳よ、二歳の子に何か……」

といったその口で、

「勉強しなさい、勉強しなさい」

を連発するのだ。



「親が子どもを育てるとは、一体何をなすべきか」

 それを根底から考えなおさなくてはならない。

 二歳の子の教育の大切さは、小学生や中学生の教育の大切さと、少しも変わらない。



「食事に出かけるんだけれど、大人みたいにできる?」


「できるよね。二歳だもんね」



 こんな会話が伏線としてあれば、同じ行為をしても全く中身がちがってくる。


「約束したのにね!」のひと言で、次の指導の緒になるのだ。


 いけないのは、「何もしない」ことなのだ。

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