「子どもが元気になる無料塾」無料ひこざ出版会議 さわらび舎 2019年 前半 / 「浜松古跡図絵」神谷昌志 明文出版社 ①【再掲載 2011.11】 [読書記録 教育]
今回は、無料ひこざ出版会議による、
「子どもが元気になる無料塾」1回目前半の紹介です。
面白そうな題名に惹かれてしまいました。
出版社の案内には、
「貧困による学力格差が子どもたちの生きる力を奪っている。地域住民が立ち上げた無料塾『ひ
こざ』は、未来を担う子どもたちが『自分分自身を大切にし、ものごとを自分で考え、決めて生き
ていける力』を身につける手助けをしている。やがて子どもだけでなく、学習支援をしている大 人も学生も変わっていく。そんな無料塾『ひこざ』のヒミツを紹介する。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「子供の居場所 2015.2開設 学生・地域住民~無償ボランティア」
・「対象者と内容 小4~中3
・学習支援を受けていない
・自力で通塾できる」
・「地域で気がかりな子供のこと - 子供の貧困」
もう一つ再掲載になりますが、神谷昌志さんの
「浜松古跡図絵」を紹介します。
わたしの住む町は、地域唯一の元堀江藩領。
浜松藩の犯罪者が逃げ込んだとも伝えられています。
明治初期、幻の堀江県があったことをご存じでしょうか。
☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「子どもが元気になる無料塾」無料ひこざ出版会議 さわらび舎 2019年 前半
◇はじめに
無料塾「ひこざ」
子供の居場所 2015.2開設 学生・地域住民~無償ボランティア
主に学習支援
埼玉大学の学生が週2回(火・金)担任制 1対1の学習指導
学内サークル「ひこざらす」
2019.7 31人(小7 中24)
多様性 子供もスタッフも
地域型 ― 寄付や助成金を頼りに無償ボランティア
◇ひこざとはどんなところ
「開塾日の様子」
早い時間(午後3時半から6時)の「ひこざ」
遅い時間(午後6時から8時)の「ひこざ」
受験指導はしないことが原則
学習終了後(午後8時から)の「ひこざ」
・今日の学習記録
・カフェ「むすび」から軽食 一人一個のおにぎりと副食
・ひこざらすのミーティング
「学習支援事業」
対象者と内容 小4~中3
・学習支援を受けていない
・自力で通塾できる
申し込み順
空きがあれば受け入れる
16時から20時 4コマ(1コマ50分)
一人ひとり異なる学習支援
目的 - 塾生の課題を解決することにある
入塾・学習開始まで
入塾申込書 塾生のプロフィール 保護者名 生徒との続柄 住所
連絡先 入塾の動機 = 最小限の予備情報
地域交流事業としての各種イベント
スケッチ会
◇ひこざができるまで
「開塾のきっかけ」
当初、シルバー世代4人と50代の現職ひとりの計5人
強い思いと社会的背景
角田眞喜子代表理事の強い意志
運営する場所と資金
カフェとの併設で場所の提供(古い郵便局舎)
運営のための人とのつながり
埼玉大学「さいだい交流ひろば」
発起人会議で骨格づくり
地域で気がかりな子供のこと
子供の貧困
塾生募集の要綱づくり
☆「浜松古跡図絵」神谷昌志 明文出版社 ①【再掲載 2011.11】
◇はじめに
1803年
掛川 兵藤庄右衛門 「遠江古跡図絵」
大谷村 内山真龍 「遠江風土記伝」
森・下在 近藤玄瑞 「遠淡海志」
森 中村乗高 「事実証談」
◇蜆塚と伊場
蜆塚 - 縄文時代 発掘はS30~34
伊場 - 弥生・古墳・奈良平安通して 発掘はS24~
木製甲、木簡、墨書土器、鉄さい、砥石
◇宗良親王
□二度の来遠
①1336.10月
②1338 大和へ → 敗戦 白羽湊に漂着
1339 鴨江城陥落 三岳城・大平城も → 信濃に逃れる
□神として井伊谷宮に 宗良親王の宝きょう印塔
「南山巡狩録」
◇松下之綱城屋敷
□今川属下 三河の出
1569 徳川下に 大名へ栄進
長男・重綱 陸奥国 二本松城5万石城主に
「木下籐吉郎鎌研池」史跡碑 西伝寺に墓
◇引間城主飯尾豊前守三代
□元城町の氏神
東照宮の丘陵 今川勢力の重要な支城
□城主
久野佐渡守→三善為連→大河内貞綱→飯尾氏
飯尾三代 賢連、乗連、連龍
「今川関係文書」向宿町『寿量院文書』
□成子町
東漸寺(乗連 開基)-五輪塔
◇家康の浜松築城
□ 永禄末年~元亀元年
□家康在城
15年間広大な城域
南北500m×東西450m=225000㎡
□二の丸が市役所・元城小(現在は廃校=ハマコウ註)付近
三の丸は浜信ビル付近
◇三方原で戦死した将士の墓標
□家康在城
17年間 28~45歳
□生涯の負け戦
「三方原の合戦」
□武田
二俣城陥落させ大菩薩(有玉西)の辺りから三方原にのぼる
3万
□家康
信長援軍含め1万 = 徳川方総崩れ
→ 様々な史話 町名・地名など
◇在城時家康と側室
□家族を巡って様々な哀歓
・信康を二俣城において自刃
・正室・築山御前を殺害
・秀吉の妹朝日姫と政略結婚(正室)
□浜松
側室に二人の子
天正2(1574)年 お万の方に於義丸(のち結城秀康)
宇布見・中村家に預けられた
天正7(1579)年 西郷局に長丸(2代・秀忠)
◇絵図に描かれた宿場町浜松
□浜松宿
安藤広重「東海道五十三次」
「東海道名所図絵」1797 「東街便覧図略」1764~1771
尾張藩家臣高力益固が描いた
□本陣が6軒 旅籠は100軒
□東は馬込橋、西は成子坂西の上新町(菅原町)
23町15間(2.5㎞) 1622戸 5964人(1843)
◇東海道一里塚と領境榜示杭
□東海道125里(約500㎞)の道中のほぼ真ん中
中野町 = 江戸時代道中記「中の町、江戸と京との間」
□江戸時代の東海道
道幅 4間(7.2m)~2間(3.6m)
□浜松市内の一里塚
① 安間
② 向宿
③ 篠原
④ 東若林
□この間に大名、旗本の領地の境を示す領境石(牓示杭)
牓示杭
① 安間橋際 「従是西浜松領」
② 可美村増楽地先 「従是東浜松領」
西は堀江陣屋の大沢領
高さ1.5mの石柱
「子どもが元気になる無料塾」1回目前半の紹介です。
面白そうな題名に惹かれてしまいました。
出版社の案内には、
「貧困による学力格差が子どもたちの生きる力を奪っている。地域住民が立ち上げた無料塾『ひ
こざ』は、未来を担う子どもたちが『自分分自身を大切にし、ものごとを自分で考え、決めて生き
ていける力』を身につける手助けをしている。やがて子どもだけでなく、学習支援をしている大 人も学生も変わっていく。そんな無料塾『ひこざ』のヒミツを紹介する。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「子供の居場所 2015.2開設 学生・地域住民~無償ボランティア」
・「対象者と内容 小4~中3
・学習支援を受けていない
・自力で通塾できる」
・「地域で気がかりな子供のこと - 子供の貧困」
もう一つ再掲載になりますが、神谷昌志さんの
「浜松古跡図絵」を紹介します。
わたしの住む町は、地域唯一の元堀江藩領。
浜松藩の犯罪者が逃げ込んだとも伝えられています。
明治初期、幻の堀江県があったことをご存じでしょうか。
☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「子どもが元気になる無料塾」無料ひこざ出版会議 さわらび舎 2019年 前半
◇はじめに
無料塾「ひこざ」
子供の居場所 2015.2開設 学生・地域住民~無償ボランティア
主に学習支援
埼玉大学の学生が週2回(火・金)担任制 1対1の学習指導
学内サークル「ひこざらす」
2019.7 31人(小7 中24)
多様性 子供もスタッフも
地域型 ― 寄付や助成金を頼りに無償ボランティア
◇ひこざとはどんなところ
「開塾日の様子」
早い時間(午後3時半から6時)の「ひこざ」
遅い時間(午後6時から8時)の「ひこざ」
受験指導はしないことが原則
学習終了後(午後8時から)の「ひこざ」
・今日の学習記録
・カフェ「むすび」から軽食 一人一個のおにぎりと副食
・ひこざらすのミーティング
「学習支援事業」
対象者と内容 小4~中3
・学習支援を受けていない
・自力で通塾できる
申し込み順
空きがあれば受け入れる
16時から20時 4コマ(1コマ50分)
一人ひとり異なる学習支援
目的 - 塾生の課題を解決することにある
入塾・学習開始まで
入塾申込書 塾生のプロフィール 保護者名 生徒との続柄 住所
連絡先 入塾の動機 = 最小限の予備情報
地域交流事業としての各種イベント
スケッチ会
◇ひこざができるまで
「開塾のきっかけ」
当初、シルバー世代4人と50代の現職ひとりの計5人
強い思いと社会的背景
角田眞喜子代表理事の強い意志
運営する場所と資金
カフェとの併設で場所の提供(古い郵便局舎)
運営のための人とのつながり
埼玉大学「さいだい交流ひろば」
発起人会議で骨格づくり
地域で気がかりな子供のこと
子供の貧困
塾生募集の要綱づくり
☆「浜松古跡図絵」神谷昌志 明文出版社 ①【再掲載 2011.11】
◇はじめに
1803年
掛川 兵藤庄右衛門 「遠江古跡図絵」
大谷村 内山真龍 「遠江風土記伝」
森・下在 近藤玄瑞 「遠淡海志」
森 中村乗高 「事実証談」
◇蜆塚と伊場
蜆塚 - 縄文時代 発掘はS30~34
伊場 - 弥生・古墳・奈良平安通して 発掘はS24~
木製甲、木簡、墨書土器、鉄さい、砥石
◇宗良親王
□二度の来遠
①1336.10月
②1338 大和へ → 敗戦 白羽湊に漂着
1339 鴨江城陥落 三岳城・大平城も → 信濃に逃れる
□神として井伊谷宮に 宗良親王の宝きょう印塔
「南山巡狩録」
◇松下之綱城屋敷
□今川属下 三河の出
1569 徳川下に 大名へ栄進
長男・重綱 陸奥国 二本松城5万石城主に
「木下籐吉郎鎌研池」史跡碑 西伝寺に墓
◇引間城主飯尾豊前守三代
□元城町の氏神
東照宮の丘陵 今川勢力の重要な支城
□城主
久野佐渡守→三善為連→大河内貞綱→飯尾氏
飯尾三代 賢連、乗連、連龍
「今川関係文書」向宿町『寿量院文書』
□成子町
東漸寺(乗連 開基)-五輪塔
◇家康の浜松築城
□ 永禄末年~元亀元年
□家康在城
15年間広大な城域
南北500m×東西450m=225000㎡
□二の丸が市役所・元城小(現在は廃校=ハマコウ註)付近
三の丸は浜信ビル付近
◇三方原で戦死した将士の墓標
□家康在城
17年間 28~45歳
□生涯の負け戦
「三方原の合戦」
□武田
二俣城陥落させ大菩薩(有玉西)の辺りから三方原にのぼる
3万
□家康
信長援軍含め1万 = 徳川方総崩れ
→ 様々な史話 町名・地名など
◇在城時家康と側室
□家族を巡って様々な哀歓
・信康を二俣城において自刃
・正室・築山御前を殺害
・秀吉の妹朝日姫と政略結婚(正室)
□浜松
側室に二人の子
天正2(1574)年 お万の方に於義丸(のち結城秀康)
宇布見・中村家に預けられた
天正7(1579)年 西郷局に長丸(2代・秀忠)
◇絵図に描かれた宿場町浜松
□浜松宿
安藤広重「東海道五十三次」
「東海道名所図絵」1797 「東街便覧図略」1764~1771
尾張藩家臣高力益固が描いた
□本陣が6軒 旅籠は100軒
□東は馬込橋、西は成子坂西の上新町(菅原町)
23町15間(2.5㎞) 1622戸 5964人(1843)
◇東海道一里塚と領境榜示杭
□東海道125里(約500㎞)の道中のほぼ真ん中
中野町 = 江戸時代道中記「中の町、江戸と京との間」
□江戸時代の東海道
道幅 4間(7.2m)~2間(3.6m)
□浜松市内の一里塚
① 安間
② 向宿
③ 篠原
④ 東若林
□この間に大名、旗本の領地の境を示す領境石(牓示杭)
牓示杭
① 安間橋際 「従是西浜松領」
② 可美村増楽地先 「従是東浜松領」
西は堀江陣屋の大沢領
高さ1.5mの石柱