谷昌恒さんはこんなことを⑰-「ひとむれ」第6集 谷昌恒 評論社 1991年(10) / 「古代日本の発掘発見物語」玉利勲 国土社 ① 1985年【再掲載 2012.1】 [読書記録 教育]
今回は、11月13日に続いて、わたしの教育ノートから、
「谷昌恒さんはこんなことを」の紹介 17回目です。
出版社の案内には、
「家庭からも地域からもはじき出された少年たち相手の教護院・北海道家庭学校の三代目
校長として四半世紀。『焼け石に水かもしれない。でもね,そこに火傷をしている子が
いるなら,やっぱり水をかけてやらなくては…』『心の扉は内側からしかひらかれない』
『人の痛みを知ろうよ…』温かいまなざしで少年たちと共に生きる日々を語る。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「子供から難儀を取り上げると子供は能なしになる。依頼心の強い意気地なしになる。」
・「人間は汗を流さないとだめになる」
・「『運悪く見つかって施設へ来た』と大概の子は思っている」
「正直者が損をするようなことが世の中には多すぎる」
もう一つ、再掲載となりますが、玉利勲さんの
「古代日本の発掘発見物語」①を載せます。
徳川光圀の古墳発掘についての記述ですが、
「出土品を自分のものとせず古墳にも手を加えず保存」した姿勢を立派だと感じます。
斎藤忠さんのお名前を見て、以前多くのことを御教示いただいたことを思い出します。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆谷昌恒さんはこんなことを⑰-「ひとむれ」第6集 谷昌恒 評論社 1991年(10)
<今教育に欠けているもの>
◇はじめに
家庭学校の子供 - 蔑まれ憎まれ疎まれてきた少年
|
「家庭学校の少年たちのことを考えたら、世の若者たちは贅沢を言えない。わがままは
言えない」
◇厳しい自然の中に居を定める
留岡幸助 同志社出身 教誨師に
→ 明治32(1899)年巣鴨に家庭学校 1914(大正3)創設
「一人を亡ぼすこと、これより大きな社会の損失はない。一人を生かすこと、これより大
きな国益はない」
→ 自然の大切さ 北海道を選んだ「難有」
◎今日の教育の誤りは子供から難儀を取り去ろうとすることにある
↑
子供から難儀を取り上げると子供は能なしになる。
依頼心の強い意気地なしになる。
◇汗を流し身体で覚える
□生活原則 = 流汗悟道
人間は額に汗し、自らの手足を労して初めて精神的に大きく成長する
↓
人間は汗を流さないとだめになる
□三能主義 よく働きよく食べよく眠る=健康
|
健康な生活をしよう
「少年の非行は激しい行動を伴っています。暴行、暴走、ディスコで夜を徹して踊り狂う。
皆激しい行動です。少年は内にあり余るエネルギーを持っているのです。しかし、現
代の社会は、私たちのエネルギーが誰からも軽視され誰からも喜ばれるような形で発散
させる場所としてとうの昔に失ってしまった。
◇損をしてもいいのではないか!
□権利はrightでありrightは正義でもある
「運悪く見つかって施設へ来た」と大概の子は思っている
- 関門は重ねてくる、試練は尽きない
∥
※ 正直者が損をするようなことが世の中には多すぎる
「損をしてもいいではないか。ぼくは正直でいこう」 ~ 悟り
☆「古代日本の発掘発見物語」玉利勲 国土社 ① 1985年【再掲載 2012.1】
◇我が国最初の発掘 水戸光圀と侍塚古墳
□二つの侍塚古墳
栃木県那須郡湯津上村「侍塚」
上侍古墳(上車塚古墳)下侍古墳(下車塚古墳)
水戸光圀による日本最初の発掘
古墳 = 死者を安置する部屋を石で築き(石室)その上に土を盛ってつくった
大がかりな古代の墓
3~7世紀 日本で数十万基
円墳・方墳・前方後円墳(名付け親は蒲生君平)宮車に似ていると見た
□不思議な石の柱
笠石 ひでりのとき石を戻すと雨が降ると信じられていた
1676.4
円順が梅平村庄屋・大鐘重貞に「身分の高い人の碑」
↓
重貞 石柱を調べると文字が…
6回訪ねておおよそを書き写す
→ 文中に那須の国造
→ 自分の「那須記に」
1883.6.7 光圀に重貞が「那須記」を差し出す → 借り受ける
1887 光圀・梅平村再訪 碑再建作業1691.3
佐々介三郎宗淳 工事総指揮 直接の指揮は重貞
花崗岩の自然石
→ 今、笠石神社御神体 1.2m高0.5m幅152文字
昭和27国宝に
□古墳の発掘
上侍塚と下侍塚
どちらかが国造の墓と考え国造名が分かるだろう(光圀)
↓
元禄5.2.13墓前祭
14~ 10日間
上侍塚 - 鏡 管玉 石の腕輪 兜片
下侍塚 - 鏡 刀 土器片
光圀は出土品を箱に入れ埋め戻す
「出土品は絵で見せればよい」
古墳の上には小さな松を植える
3.1埋納 4.11
光圀は重貞に金一封
国造名は分からず
□光圀の心配り
トロイ発掘は約180年後の1871年
光圀の立派さ
◎ 出土品を自分のものとせず古墳にも手を加えず保存
那須国造
那須国を支配した豪族
生前の業績を記した碑文 紀元700年前後の地方政治の仕組み
二つの古墳とも国造の墓ではなかった
国造の墓は?
斎藤忠「笠石神社の神体・国造碑を納めた碑堂の下?」
光圀の精神は今も
~ 毎年二回の奉仕活動
「谷昌恒さんはこんなことを」の紹介 17回目です。
出版社の案内には、
「家庭からも地域からもはじき出された少年たち相手の教護院・北海道家庭学校の三代目
校長として四半世紀。『焼け石に水かもしれない。でもね,そこに火傷をしている子が
いるなら,やっぱり水をかけてやらなくては…』『心の扉は内側からしかひらかれない』
『人の痛みを知ろうよ…』温かいまなざしで少年たちと共に生きる日々を語る。」
とあります。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「子供から難儀を取り上げると子供は能なしになる。依頼心の強い意気地なしになる。」
・「人間は汗を流さないとだめになる」
・「『運悪く見つかって施設へ来た』と大概の子は思っている」
「正直者が損をするようなことが世の中には多すぎる」
もう一つ、再掲載となりますが、玉利勲さんの
「古代日本の発掘発見物語」①を載せます。
徳川光圀の古墳発掘についての記述ですが、
「出土品を自分のものとせず古墳にも手を加えず保存」した姿勢を立派だと感じます。
斎藤忠さんのお名前を見て、以前多くのことを御教示いただいたことを思い出します。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
☆子供たちの学習に
文部科学省の
「子供の学び応援サイト(臨時休業期間における学習支援コンテンツポータルサイト)」
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆谷昌恒さんはこんなことを⑰-「ひとむれ」第6集 谷昌恒 評論社 1991年(10)
<今教育に欠けているもの>
◇はじめに
家庭学校の子供 - 蔑まれ憎まれ疎まれてきた少年
|
「家庭学校の少年たちのことを考えたら、世の若者たちは贅沢を言えない。わがままは
言えない」
◇厳しい自然の中に居を定める
留岡幸助 同志社出身 教誨師に
→ 明治32(1899)年巣鴨に家庭学校 1914(大正3)創設
「一人を亡ぼすこと、これより大きな社会の損失はない。一人を生かすこと、これより大
きな国益はない」
→ 自然の大切さ 北海道を選んだ「難有」
◎今日の教育の誤りは子供から難儀を取り去ろうとすることにある
↑
子供から難儀を取り上げると子供は能なしになる。
依頼心の強い意気地なしになる。
◇汗を流し身体で覚える
□生活原則 = 流汗悟道
人間は額に汗し、自らの手足を労して初めて精神的に大きく成長する
↓
人間は汗を流さないとだめになる
□三能主義 よく働きよく食べよく眠る=健康
|
健康な生活をしよう
「少年の非行は激しい行動を伴っています。暴行、暴走、ディスコで夜を徹して踊り狂う。
皆激しい行動です。少年は内にあり余るエネルギーを持っているのです。しかし、現
代の社会は、私たちのエネルギーが誰からも軽視され誰からも喜ばれるような形で発散
させる場所としてとうの昔に失ってしまった。
◇損をしてもいいのではないか!
□権利はrightでありrightは正義でもある
「運悪く見つかって施設へ来た」と大概の子は思っている
- 関門は重ねてくる、試練は尽きない
∥
※ 正直者が損をするようなことが世の中には多すぎる
「損をしてもいいではないか。ぼくは正直でいこう」 ~ 悟り
☆「古代日本の発掘発見物語」玉利勲 国土社 ① 1985年【再掲載 2012.1】
◇我が国最初の発掘 水戸光圀と侍塚古墳
□二つの侍塚古墳
栃木県那須郡湯津上村「侍塚」
上侍古墳(上車塚古墳)下侍古墳(下車塚古墳)
水戸光圀による日本最初の発掘
古墳 = 死者を安置する部屋を石で築き(石室)その上に土を盛ってつくった
大がかりな古代の墓
3~7世紀 日本で数十万基
円墳・方墳・前方後円墳(名付け親は蒲生君平)宮車に似ていると見た
□不思議な石の柱
笠石 ひでりのとき石を戻すと雨が降ると信じられていた
1676.4
円順が梅平村庄屋・大鐘重貞に「身分の高い人の碑」
↓
重貞 石柱を調べると文字が…
6回訪ねておおよそを書き写す
→ 文中に那須の国造
→ 自分の「那須記に」
1883.6.7 光圀に重貞が「那須記」を差し出す → 借り受ける
1887 光圀・梅平村再訪 碑再建作業1691.3
佐々介三郎宗淳 工事総指揮 直接の指揮は重貞
花崗岩の自然石
→ 今、笠石神社御神体 1.2m高0.5m幅152文字
昭和27国宝に
□古墳の発掘
上侍塚と下侍塚
どちらかが国造の墓と考え国造名が分かるだろう(光圀)
↓
元禄5.2.13墓前祭
14~ 10日間
上侍塚 - 鏡 管玉 石の腕輪 兜片
下侍塚 - 鏡 刀 土器片
光圀は出土品を箱に入れ埋め戻す
「出土品は絵で見せればよい」
古墳の上には小さな松を植える
3.1埋納 4.11
光圀は重貞に金一封
国造名は分からず
□光圀の心配り
トロイ発掘は約180年後の1871年
光圀の立派さ
◎ 出土品を自分のものとせず古墳にも手を加えず保存
那須国造
那須国を支配した豪族
生前の業績を記した碑文 紀元700年前後の地方政治の仕組み
二つの古墳とも国造の墓ではなかった
国造の墓は?
斎藤忠「笠石神社の神体・国造碑を納めた碑堂の下?」
光圀の精神は今も
~ 毎年二回の奉仕活動