SSブログ

(1)「宮本常一さん 教育について」 31 「NHK人間講座 宮本常一」佐野眞一 NHK出版 2000年 (2)「半僧坊由来-引佐郡引佐町奥山」<引佐郡引佐町奥山(現在は浜松市)の伝説(3)>【再掲載】 [読書記録 教育]

「宮本さんの調査法は学者などにありがちな『略奪型』ではありませんでした。相手から
 話を引き出すだけでなく,相手のためになる話もする。調査された方が勉強になるとい
 う理想的なものでした。どこへ行っても,もっと話を聞かせてくれ,泊まっていけと言
 われるので旅館なんかにはほとんど泊まったことがないとおっしゃっていました。常に
 固有名詞を使って話されることにも感心しました。」






今回は12月20日に続いて、「宮本常一さん 教育について」31回目
佐野眞一さんの「NHK人間講座 宮本常一」の紹介です。



このところ宮本常一さんの記事が続きますが、大変魅力的な方です。



佐野さんの宮本常一さんへの強い思いが伝わってくるテレビ番組であり、
それをまとめたこの本でした。




出版社の案内には、


「戦前から高度成長期にかけて、日本中の村という村、島という島を歩き、そこに生きる
 人びとの生活を記録した宮本常一は、人をとろかすような笑顔と該博な知識をもって地
 域振興策を説き、人びとに誇りと勇気を与えつづけた。宮本が残した厖大な資料をもと
 に、第一級のノンフィクション作家である著者が日本各地を取材、そのまなざしの行方
 を追い、いまこそ求められている宮本的『経世済民』思想と行動の全容を綴る。読者に
 深い感銘を与えた大宅賞受賞作『旅する巨人』の続編作品。 -このテキストは、絶版
 本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。」


とあります。





今回紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「樹を見ろ。いかに大きな樹であっても枝葉がそれを支えている。その枝葉を忘れて,
  幹を論じてはいけない。」


・「大事なことは主流にならぬ事だ。傍流で良く状況を見ていくことだ。舞台で主役を務
  めていると,多くのものを見落としてしまう。その見落とされたものの中にこそ大切
なものがある。それを見つけてゆくことだ。」




もう一つ、再掲載となりますが、「半僧坊由来-引佐郡引佐町奥山」を紹介します。
NHK大河ドラマ「女城主直虎」の奥山氏のふるさとの伝説です。






<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。

浜松ジオラマファクトリー






(1)「宮本常一さん 教育について」 31 「NHK人間講座 宮本常一」佐野眞一 NHK出版 2000年

1.jpg
 
◇小学校の教員として

 昭和2年 天王寺師範卒 
      大阪府泉南郡修斉尋常小学校赴任(現岸和田市立修斉小学校)


 昭和4年 泉南郡田尻尋常小学校赴任 (現田尻町立田尻小学校)


 子どもたちに

「小さいときに美しい思い出をたくさんつくっておくことだ。それが生きる力になる。学
 校を出てどこかに勤めるようになると,もうこんなに歩いたり遊んだりできなくなる。
 忙しく働いて一息入れるとき,ふっと,青い空や夕日のあった山が心に浮かんでくる。
 それが元気を取り戻せるもとになる。」
 





◇渋沢敬三の教え

 渋沢も52年間に480回もの旅

「大事なことは主流にならぬ事だ。傍流で良く状況を見ていくことだ。舞台で主役を務め
 ていると,多くのものを見落としてしまう。その見落とされたものの中にこそ大切なも
 のがある。それを見つけてゆくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになること
 だ。人が優れた仕事をしているとケチをつけるものも多いが,それは慎まなければなら
 ない。また人の邪魔をしてはいけない。自分がその場で必要を認められないときは黙っ
 てしかも人の気にならないようにそこにいることだ。」





◇名倉調査で

「樹を見ろ。いかに大きな樹であっても枝葉がそれを支えている。その枝葉を忘れて,幹
 を論じてはいけない。その枝葉の中に大切なものがある。学問や研究は,あくまで,民
 衆や庶民の生活を土台に築きあげるものだ。」





◇名大調査者の言葉

「宮本さんの調査法は学者などにありがちな『略奪型』ではありませんでした。相手から
 話を引き出すだけでなく,相手のためになる話もする。調査された方が勉強になるとい
 う理想的なものでした。どこへ行っても,もっと話を聞かせてくれ,泊まっていけと言
 われるので旅館なんかにはほとんど泊まったことがないとおっしゃっていました。常に
 固有名詞を使って話されることにも感心しました。」














(2)「半僧坊由来-引佐郡引佐町奥山」<引佐郡引佐町奥山(現在は浜松市)の伝説(3)>【再掲載】


 浜松地方での、明治のころの旅行の楽しみといえば、周智郡春野町犬居の秋葉山脂でと、
引佐郡奥山の、半僧坊参詣位のものであった。



 半僧坊とは、臨済宗方広寺派本山、深奥山方広寺の境内に把られている一堂である。





 600年の昔のことである。


 奥山城には、奥山六部次郎藤原朝藤が、部下数千を率いて、この地方を統治していた。

 延元元年(1336年)京都では、南北に分れて兵乱が起った。この時、後醍醐天皇の
第二皇子、宗良親王が遁れてこの城に入った。


 つづいて興国4年には、後醍醐天皇の第十一皇子、無文禅師が遁れてきた。


 無文禅師はこのごろすでに、人間相剋の世に無情を惑じて、剃髪して憎となっていた。


 奥山次郎朝藤は、


「ようこそ」


と、わが身を頼られる嬉しさに、奥山城の奥に、一寺を建立して、禅師を迎えて開基とし
た。


 これが方広寺である。


 禅師がかくして方広寺を開くときくと、この裏山に数百年来住んでいる山神は、不愉快
でならなかった。


「おれの住居に寺を建てるとは、怪しからぬことだ」


と悠っていた。そして噂にきけば、無文禅師は非常な名僧智識であるというが、


「人間ども、なに程のことやある」


と、彼はある日、山を下りて、方広寺を訪れてきた。


「われはこの山に、年久しく往む山神である。和尚と問答を試みんぞ」


といいだした。


「よし、やろう」


 禅師はこころよく迎えて、問答を始めた。


 多年山神として山に往み、仙術を会得している山男と、新進の学問に、頭脳を磨き上げ
た名僧との問答は、言々火をはぎ、句々焔を燃したが、ついに禅師の勝利となってしまっ
た。


「私は到底、禅師にはかないません」


 山男は兜を脱いだ。そして禅師の名僧なのに、心から敬服して、


「この上は是非とも、御僧の弟子として下さらんか」


と願いだした。


「いやいや、あなたは仙術を会得した方、私如き凡人の弟子とならなくても」


「いえ、貴僧のお教えこそ、深く頃きたいもの、是非ともに」


 山神のたっての願いに、禅師は弟子となることを許してやった。


「では、憎となるなら、頭を丸めて」


「是非にも」


 禅師は剃刀を持って、山神の頭をそり始めた。


 しかし年久しく山に住んで、頭髪には嘗て一度も櫛を入れた事がないこととて、剃るそ
の痛さはたえられなし。


「痛い痛い」


「もう少しだ。がまんしなされ」


「痛い痛い、もうこれでいい」


 流石の山神もがまんがてきなくて、頭を抱えて逃げだしてしまった。


「駄目だよ。それでは半僧だよ」


 禅師は笑った。


「いい、いい、半僧でよろしい。おれは半憎でこの土地を守護しよう」


 山神はそういって、方仏寺の傍に一堂を建てて、そこに静かに往んで、方広寺の守護神
となったのである。それでこれ以来、これを半僧坊というのであると。




 この半僧坊は非常に霊験ある神であるという。

 いつのことであったか、浜松市○○地区の、ある寺の住職が、方広寺で無言の行を修め
てしる時、ふとして禁を破った。とその時どこともなく、


「今ただちに、物見せん」


という声がした。住職ははっとして、身の震うのを覚えた。


 住職は禁を破ったこととて、今は本山にもいられず、下山して自分の寺に帰った。

 ところがその時すでに、寺は焼けて灰となっていた。


「おお、何日火事が」


「昨夜の8時に」


「えっ8時?」


 それは彼が、本山で禁を破って、不思議な声をきいたのと、同じ時刻であった。
 

- ということである。



nice!(170)  コメント(2) 
共通テーマ:学校