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「体内崩壊―加速する『41歳寿命説』」西丸震哉 法研 2000年 /「宮本常一著作集43 自然と日本人」 未来社 ③ 2003年【再掲載 2013.9】 [読書記録 一般]

今回は、西丸震哉さんの
「体内崩壊」を紹介します。



出版社の紹介には

「10年前に予測した以上のスピードで“短命化”は加速している。日本人の
体内環境はなぜ狂い始めたのか。」
 
とあります。


本日紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「平均寿命と平均余命」


・「人類は胃袋のおかげで支配者となった」


・「子孫を残せない生物に未来はない」


・「日本人のなくしたもの - 抵抗力と免疫力」



もう一つ、再掲載になりますが、
「宮本常一著作集43 自然と日本人」③を載せます。
貧しくても豊かだった昭和の時代を思いました。



<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
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☆「体内崩壊―加速する『41歳寿命説』」西丸震哉 法研 2000年

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◇西丸震哉
  1923年東京生 東京水産大学卒 農林水産省


◇再検証 41歳寿命説
  ワースト志向  
     快楽・便利・安楽
↑↓
     代償 水 空気 

  1959年
    日本は薄いガス室になった
 
  平均寿命と平均余命



◇宿命生物大絶滅
  微惑星の衝突



◇食いまくった果てに
  人類は胃袋のおかげで支配者となった
 
  体内に蓄積される農薬
 
  現代人の必須アイテム 
    食品添加物
 
  被害拡大の後禁止された有害物質
    AF2
 
  きれいで形のいい野菜を求める消費者



◇ダイオキシン惨禍をめぐって
  1gで1万人
   - 枯れ葉剤作戦



◇現代社会に肉体がついていかない
  子孫を残せない生物に未来はない



◇子どもたちが危ない
  食の乱れが子供を蝕む
 
  日本人のなくしたもの
    抵抗力と免疫力






☆「宮本常一著作集43 自然と日本人」 未来社 ③ 2003年【再掲載 2013.9】

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◇風景はかわる

 私が旅をするようになってもう40年ほどになるが、その間にも自然景観は
ずいぶんかわってきた。


 昭和14年(1939)頃には、まだ方々に原始林がのこっていた。中国山地の広
島と島根の境の五里山などは雑木のみごとな原始林であったし、大隅半島の東
岸は巨木の下を半日も歩きつづけ、外の風景は見ることができなかった。


 津軽や下北のアテの木の森もまたみごとであった。思いおこしてみると、日
本各地にそういうところがあったのであるが、近頃これらの林はすっかり姿を
消してしまっている。


 多くはパルプ材として伐られた。


 それだけでなく、村の中にある神社の森の木が急に小さくなった。


 大きな木はほとんど伐られてしまったのである。


 戦後いろいろの公共的な施設が村に作られるにあたって、地元負担の金の捻
出に困って伐ったというのが、もっとも多い理由だったようである。


 やがて日本中が丸裸になるのではないかと思っていたが、昭和35年頃から
少し事情がかわってきた。石油コンロやプロパンガスが発達して、木が燃料と
して使われなくなると、少しずつ山の木が大きくなりはじめたのである。


 山陽線の沿線など、岩山が多く大きな木の育ちにくいところでも木の成長が
目立ってきてホッとしたものであった。


 しかし木炭を焼かず、薪炭材を必要としなくなると、山間で生活をたててい
る者は現金収入の途を断たれて次第に山を下って、野に働き口を見つけていっ
たのである。


 それでは雑木をパルプ材として利用すればよいと思うが、近頃はパルプ材は
あまり売れなくなったといわれる。それによって木が大きくなればよいような
ものの、山地利用が十分考慮されていないのは、やはり一考を要することであ
ろう。



 日本という国は雨も多く、土のしめりもあって草木がよく茂る。


 だから少々乱伐してもいいくらいに考えて、惜し気もなく木を伐ることが多
かった。


 そのことは山の木を見るとよくわかる。


 奥山に残る原姑林を除いて、里近い山を見ると200年をこえる木の茂ってい
る山はほとんどない。せいぜい100年内外の木が多い。


 すると、今から100年まえには里山の木はほとんど伐られていたことがわか
る。


『日本林政史資料』の萩藩の部を見ると、幕末の頃、山口県の海岸地方には大
きな木はほとんどなかった。


 沖を船で通る他国の人が見るとどうにもみすぼらしいから木を伐らないよう
にと命令が出されているが、それは山口県だけのことではなかった。


 人口の少ない東北地方などでも、田に入れる草を生やすために山焼きをおこ
なったところが多く、夏になれば牛馬を放牧したが、とにかく今よりは、はる
かに木は少なかったという。


 しかし明治の中頃から焼畑跡などへ徐々に杉が植えられるようになった。政
府の指導によるものであった。


 焼畑のあとへは木もよく茂った。


 吉野・熊野の山中や土佐の山中は焼畑のあとへ杉を植え、今日のような美林
を作っていったのであるが、土佐では杉を植える前にミツマタを何年か作って
それで金をとり、そのあとに杉を植えた。


 ところが和紙の生産が減少して、ミツマタが売れなくなると、里山を茶畑に
し、仁淀川の流域をあるくと、美しい茶畑が集落の周囲を埋めている。


 人は心をきめて一つところに住みつこうとするときには、かならず時勢にあ
わせた生き方を見つけて、自分たちの環境を生かしていくものだと、この谷間
をあるいて感心したものであった。



 熊本から大分へ豊肥線をはじめて汽車でこえたのは昭和15年の浅春であっ
た。


 阿蘇外輪山の東側は一面の枯野で、浅い谷間に草ぶきの農家が寒々としてい
た。


 枯干切りの歌はこうした風土の中で生まれたのであるが、今おなじ道を通る
と杉の美林でおおわれ、農家もりっぱになっている。


 そして枯干切りの歌は、座敷や舞台で美しく着かざった人びとによってうた
われる歌になってしまったのである。



 それぞれの地域に住む者がその土地を真に愛し、その土地で生きのびてゆこ
うとするとき、その環境もまた美しくゆたかになっていくものではあるまいか。


 そういう人たちは遠い将来に対して夢を持っている。50年さき100年さきの
自分たちの子や孫の住む環境を考えている。


 食うや食わずの生活から立ち上っていくとき、まず気になるのは落ちついた
美しい環境であった。



 瀬戸内海の三原市の沖に佐木島という島がある。昭和20年頃までは島には
ほとんど木らしい木がなく、雨が降ると土砂の流亡がはなはだしかった。


 島には塩田があり、また畑が広く、山の木は伐られてしまって骸骨のような
島であった。


 そして月がよく照っても旱魅になるといわれていた。


 昭和の初め、この島の村長であった西原さんは、もともと島は大きな木でお
おわれていたということを古老から聞かされて、もう一度木の茂る島にしたい
と考え、自分の持山に30アールほどハゲシバリを植えた。


 松さえも育たぬ島にと、島民に笑われたが、ハゲシバリは成長し、その谷に
はささやかな泉が湧くようになった。


 それから次第に山にハゲシバリが植えられ、その下の畑には蜜柑が植えられ
た。そしていま島は青々としており、家のまわりの畑は蔬菜の栽培が盛んにな
っている。


 いかにも落ちついた美しい島である。


 私がこの島をはじめて訪れたのは昭和25年であった。


 当時はまだ痩せ枯れた島であった。


 しかし、今その当時を想像するごとのできないまでにかわっている。


 木は育つものである。


 育つから乱伐するのではなく、育つから大切にしなければならない。


 そしてそれが人びとに寄与し、その生活と心をゆたかにする。


 自然の荒廃はまた心の荒廃をも意味するもので、この40年の間の風景の変
化の中にもそれを読みとることができる。

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