「中世の東海道をゆく」榎原雅治 中央公論新社 2008年 / 読書ノート「遠藤周作さんはこんなことを」⑫-『安岡章太郎15の対話』安岡章太郎 新潮社 1997年より「井上洋治・遠藤周作との対話」【再掲載 2014.7】 [読書記録 歴史]
今回は、榎原雅治さんの
「中世の東海道をゆく」を紹介します。
出版社の紹介には
「弘安3年(1280)11月、ひとりの貴族が馬に乗り、わずかな随伴者
とともに東海道を京から鎌倉へと向かっていた-。中世の旅路は潮
の干潮など自然条件に大きく左右され、また、木曾三川の流路や遠
州平野に広がる湖沼など東海道沿道の景色も現在とかなり異なって
いた。本書は鎌倉時代の紀行文を題材に、再伸の発掘調査の成果な
どを取り入れ、中世の旅人の眼に映った景色やそこに住む人々の営
みを再現するものである。」
とあります。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「明応の大地震は明応7(1498)年8月25日辰の時(午前7~9時)に発
生した。御前崎で発生し本州中部が揺れた。大波で海辺2,30町の
民家がことごとく流された。M8.2~8.4。」
・「明応の地震で、竜川右岸の地は裂け3~5尺の波が来て、山は割れ、
崩れた。ほどなく大波が天をついて襲ってきた。幾万人か知らず流
された。」
・「浜名湖は淡水湖だったか?鎌倉時代にすでに汽水湖となっていた。
浜名湖淡水説の誕生、汽水化説は江戸時代中期より」
・「天竜川は天中川か天竜川か?『続日本紀』には、麁玉河、広瀬河、
天ちうといふ河、天中川」
もう一つ、再掲載になりますが、
「遠藤周作さんはこんなことを」⑫を載せます。
短いメモです。
☆「中世の東海道をゆく」榎原雅治 中央公論新社 2008年
◇湖畔にて-橋本
□浜名の風景
浜名へ
明応の大地震
明応7(1498)年8月25日辰の時(午前7~9時)
御前崎で発生 → 本州中部
大波で海辺2,30町の民家がことごとく流された
M8.2~8.4
天竜川右岸
地は裂け3~5尺の波,山は割れ崩れた
ほどなく大波が天をついて襲ってきた
幾万人か知らず流される
「円通松堂禅師語録」
大きな引き潮現象
- 伊勢大被害
浜名湖の変容
明応地震以後
「橋本宿」の名は消える
→ 近世「新居関」宿も
しかし,風光明媚の地、橋本宿は壊滅
今切 2説
① 地震直後の津波により出現
② 地震で浜名湖全体の沈降 → 海水流入
翌6月10日台風による高潮により今切出現
浜名湖変化
① 遠州灘と浜名湖はつながっていなかった
② 浜名川
以前は遠州灘に向かい西に流れていた
③ 地震により1m沈降
満潮時には海水が逆上する汽水湖に |
◎ 3㎞以上隔たったところに
古代・中世資料の描く浜名湖
地震以前
… 橋が架けられていた「浜名の橋」
長さ170m 広さ4m 高さ4.8m
9世紀前半にはすでに架けられていた
明治初期まで橋本村有り
現在も新居町浜名の内に
※ 入江があったかなかったか
橋本の形
P92 図3-2
浜名湖は沈降したか
浜名湖は淡水湖だったか
- 鎌倉時代にすでに汽水湖
浜名湖淡水説の誕生
汽水化説は江戸時代中期より
沈降説の誕生と進化
地震学者 都司嘉宣氏 1980年
◇平野の風景 遠州平野
遠州の内海
野津には津あり
「曳馬」は明治になって命名された新地名
中世の引間の位置はまだ特定されていない
内陸水面,今之浦
都市・見付 裸祭り
天竜川
天中川か天竜川か
『続日本紀』
麁玉河 715年
→ 広瀬河 853年
→ 天ちうといふ河 11世紀後半
天中川 1223年
◎ 鎌倉時代 「テンデューガワ」か?
☆読書ノート「遠藤周作さんはこんなことを」⑫-『安岡章太郎15の対話』安岡章太郎 新潮社 1997年より「井上洋治・遠藤周作との対話」【再掲載 2014.7】
・口語訳聖書のなじみがたさ
・明治になってからも隠れキリシタンが捕まった
浦上村全村の人間を捕まえて日本各地へ
→ 津和野・金沢・高知
・日本のキリスト教徒 100万人
(60万人がプロテスタント 40万人がカトリック)
・隠れキリシタンと留学生
プロテスタント
- マリアを拝まない
カトリック
- マリアを拝む エファソの公会議
・隠れキリシタンは元々転び者
転ばなかったら死んでいる
・水と禊ぎ
水に対するイメージと宗教とは密接な関係
・プロセスの時代
「中世の東海道をゆく」を紹介します。
出版社の紹介には
「弘安3年(1280)11月、ひとりの貴族が馬に乗り、わずかな随伴者
とともに東海道を京から鎌倉へと向かっていた-。中世の旅路は潮
の干潮など自然条件に大きく左右され、また、木曾三川の流路や遠
州平野に広がる湖沼など東海道沿道の景色も現在とかなり異なって
いた。本書は鎌倉時代の紀行文を題材に、再伸の発掘調査の成果な
どを取り入れ、中世の旅人の眼に映った景色やそこに住む人々の営
みを再現するものである。」
とあります。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「明応の大地震は明応7(1498)年8月25日辰の時(午前7~9時)に発
生した。御前崎で発生し本州中部が揺れた。大波で海辺2,30町の
民家がことごとく流された。M8.2~8.4。」
・「明応の地震で、竜川右岸の地は裂け3~5尺の波が来て、山は割れ、
崩れた。ほどなく大波が天をついて襲ってきた。幾万人か知らず流
された。」
・「浜名湖は淡水湖だったか?鎌倉時代にすでに汽水湖となっていた。
浜名湖淡水説の誕生、汽水化説は江戸時代中期より」
・「天竜川は天中川か天竜川か?『続日本紀』には、麁玉河、広瀬河、
天ちうといふ河、天中川」
もう一つ、再掲載になりますが、
「遠藤周作さんはこんなことを」⑫を載せます。
短いメモです。
☆「中世の東海道をゆく」榎原雅治 中央公論新社 2008年
◇湖畔にて-橋本
□浜名の風景
浜名へ
明応の大地震
明応7(1498)年8月25日辰の時(午前7~9時)
御前崎で発生 → 本州中部
大波で海辺2,30町の民家がことごとく流された
M8.2~8.4
天竜川右岸
地は裂け3~5尺の波,山は割れ崩れた
ほどなく大波が天をついて襲ってきた
幾万人か知らず流される
「円通松堂禅師語録」
大きな引き潮現象
- 伊勢大被害
浜名湖の変容
明応地震以後
「橋本宿」の名は消える
→ 近世「新居関」宿も
しかし,風光明媚の地、橋本宿は壊滅
今切 2説
① 地震直後の津波により出現
② 地震で浜名湖全体の沈降 → 海水流入
翌6月10日台風による高潮により今切出現
浜名湖変化
① 遠州灘と浜名湖はつながっていなかった
② 浜名川
以前は遠州灘に向かい西に流れていた
③ 地震により1m沈降
満潮時には海水が逆上する汽水湖に |
◎ 3㎞以上隔たったところに
古代・中世資料の描く浜名湖
地震以前
… 橋が架けられていた「浜名の橋」
長さ170m 広さ4m 高さ4.8m
9世紀前半にはすでに架けられていた
明治初期まで橋本村有り
現在も新居町浜名の内に
※ 入江があったかなかったか
橋本の形
P92 図3-2
浜名湖は沈降したか
浜名湖は淡水湖だったか
- 鎌倉時代にすでに汽水湖
浜名湖淡水説の誕生
汽水化説は江戸時代中期より
沈降説の誕生と進化
地震学者 都司嘉宣氏 1980年
◇平野の風景 遠州平野
遠州の内海
野津には津あり
「曳馬」は明治になって命名された新地名
中世の引間の位置はまだ特定されていない
内陸水面,今之浦
都市・見付 裸祭り
天竜川
天中川か天竜川か
『続日本紀』
麁玉河 715年
→ 広瀬河 853年
→ 天ちうといふ河 11世紀後半
天中川 1223年
◎ 鎌倉時代 「テンデューガワ」か?
☆読書ノート「遠藤周作さんはこんなことを」⑫-『安岡章太郎15の対話』安岡章太郎 新潮社 1997年より「井上洋治・遠藤周作との対話」【再掲載 2014.7】
・口語訳聖書のなじみがたさ
・明治になってからも隠れキリシタンが捕まった
浦上村全村の人間を捕まえて日本各地へ
→ 津和野・金沢・高知
・日本のキリスト教徒 100万人
(60万人がプロテスタント 40万人がカトリック)
・隠れキリシタンと留学生
プロテスタント
- マリアを拝まない
カトリック
- マリアを拝む エファソの公会議
・隠れキリシタンは元々転び者
転ばなかったら死んでいる
・水と禊ぎ
水に対するイメージと宗教とは密接な関係
・プロセスの時代