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「新津地区愛称標識の由来」 1989年 ④ /「大村はま・教室で学ぶ」大村はま 小学館 1990年【再掲載 2015.10】 [読書記録 郷土]

今回は、1月11日に続いて新津地区愛称標識設置委員会による
「新津地区愛称標識の由来」の紹介 4回目です。



たいへん地域的なな本(冊子)の紹介ですが、わたしには、編集された方の「伝え続けた
い」という思いが強く感じられました。

貴重なものを残してくださったことに感謝します。



「愛称標識」は、浜松市(旧)内それぞれの町の歴史的ないわれのある坂、道、橋、場所な
どを将来に伝えるため自治会連合会が設置しており、市全体では1300本超あると言われ
ます。擬木(コンクリート製)のもの木製のもの2種があります。
 
 浜松市の設置事業は昭和57年度から始まり、平成10年まで行われました。それぞれの
地区で愛称標識設置委員会を組織して取り組み、(旧)市内35、各地区ごとに各標識につ
いての説明をまとめた冊子が作成されました。

 小学校中学年の社会科、地域学習にふさわしい資料であり、郷土への関心を目覚めさせ
郷土愛を育てるものでした。

 自宅近くに設置されていた、木製の標識のほとんどは朽ちて撤去され、そのままになっ
ています。再整備されることを期待しています。




もう一つ、再掲載となりますが、 大村はまさんの
「大村はま・教室で学ぶ」を載せます。
大村はまさんからは多くのことを学びます。




<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。





☆「新津地区愛称標識の由来」 1989年 ④


◇愛称標識の由来(3)


20 大川通り[おおかわどおり〕        (倉松町)

 かつて,倉松の集落の南には堤があり,西から東へと川が流れていた。流れは大川から
小川そして大池に入り、大池から米津港方面に流れていたという。

 字名「大川」も、ここから伝えられたと思われる。

 なお、大川通りは、新田に通じる唯一の道路であり「大川端」の地名も残っている。

<現在は、新たに道ができ、唯一のものではなくなっています。>
DSC_1247.JPGDSC_1248.JPG
   [倉松町中組の秋葉灯籠]




21 こんじゃまあ一〔こんじゃまあ-〕  (倉松町)

 秋葉灯籠から前浜に通じる道にかけての辺り一帯を称して、「こんじゃまあ一」と呼ん
でいる。

 その由来は定かではないが、秋葉灯籠は秋葉大権現を祀ったものであることから、「権
社(ごんしゃ)」といわれたのではないか。

 したがって,権社前と呼ぶのが段々になまって「こんじゃまえ」→「こんじゃまあ-」
になったのでは、と想像される。
(東組 なかむらストア近く)

<個人商店「なかむらストア」はすでに閉店して20年くらいたちます。>




22 米津本通り[よねづほんどおり〕     (米津町)
  
 浜松市の最南端、太平洋に望む米津町は江戸送り地蔵・御台場跡等の歴史が彩る人情細
やかな農漁村であったが、戦後の急速な発展に伴い漁業は幕を閉じ専業農家も減少してい
る。
  
 この道路は、昭和33年から行われた西南部土地改良区による事業の結果生まれた道路
で、中田島町から倉松町まで通じる主要な東西道路である。

 バス路線でもあり,町民の生活道路として広く利用されている。
  
<利用者減少により、バス路線はついに廃止されてしまいました。自家用車保有率は高い
 のですが、年配者にとってはかなり不便になってしまいました。>




23 寺宮前通り[てらみやまえどおり]    (米津町)
  
 米津町公民館から米津本通りと別れ,神明神社前,安泉寺前を通り倉松町に至っている。
  
 公民館および安泉寺の門柱には、昔、馬込川河口からの逆流水を防いだ八艘入りの水門
柱が使われており、米津町の水防の歴史を物番っている。
  
 公民館は旧新津小学校の校舎を移転したもので、時代とともに老朽化し、手狭となった
ため、昭和64年10月完成を目指し、神明神社境内に新公民館を建設するための募金が町
民によってすすめられている。
  
 また、安泉寺境内には,安永年間(1772~1781年)理不尽な藩役人のため江戸送りと
なった六義人をまつり江戸送り地蔵が悲しい物語を秘めて立っている。
(安泉寺前 東西に走る)

<お地蔵さんを見ると地蔵を土の中に埋めてまつった村人の思いが伝わってきます。>




24 御台場通り〔おだいばどおり〕      (米津町)
  
 可美村東若林から米津海岸に至る道路で、途中、県道竜洋舞阪線(通称掛舞線)および
国道1号線と交差している。
  
 江戸末期、幕府の命令により浜松藩が海岸警備のため米津海岸に築造した米津台場の跡
が今もその姿を残している。
  
 また、この道路は高射砲道路とも呼ばれ、太平洋戦争中、海岸に高射砲陣地が設けられ、
軍隊が往来した。

<お台場と聞き想像するものより小さいと私には感じられます。>




25 請願道路〔せいがんどうろ〕        (米津町)
  
 県立浜松南高校西側で、掛舞線から米津の浜に通じ、米津町を南北に横切る通りである。

 現在は浜松中央部に資材を運ぶ大型トラックが頻繁に往来する産業通りとして利用され
ている。
  
 昔、米津町から浜松中央部へは、御台場通り例外には道路がなく、農産物の出荷や買物
の際に大変な遠回りとなり、不便をしていた。
  
 昭和26年ごろ住民が米津発展のためどうしても道路が必要であるとして、請願書を提
出してできた通りで、いつのまにか請願道路とよばれるようになった。

<「請願してできたから」そのままの名前に、というところがいいと私は思います。>




26 松林通り〔まっばやしどおり〕       (米津町)
  
 昔の防波堤の北側に沿った東西の道路である。

 堤は松林になっており、両側から伸びた枝が道を狭くしてリヤカーがやっと通れるほど
で、そんな道が約100mぐらい続いていた。

 また、堤の南側はさつまいもをいける(保存する)のに格好の所であった。
  
 この道の北側一帯を松林と呼ぶので、「松林通り」と名付けた。
  
 今は堤はなくなって、平坦になり、国道1号の側道として利用されている。

(卸本町 国一喫茶店近く)

<防波堤、防風林であり、わたしが小さなころは3列くらいありました。しかし、国道バ
 イパスが整備されたり圃場整備により道になったりして、現在は1列残るのみです。>




27 六軒通り(米津町)
  
 明治の初めごろまで、この付近には家が六軒しかなかったために「六軒」と名付けられ
たといわれ、今もこの地名で呼ばれている。 

 昭和40年ごろまでは大変ゆっくりした戸数の増加だったが,最近は住宅の建築が盛ん
になり、現在は63戸を数えるにいたっている。
  
 この通りはその人達の生活道路である。      (国一南)

<浜松まつりの凧揚げ会場の近くです。6軒が10倍以上の軒数に‥。高度成長期を感じ
 させます。>




28 将軍塚〔しょうぐんづか〕         (田尻町)
  
 田尻町の松本修次さんの屋敷の一角に高き1m、幅2mほどの大きな石が陣取っている。

 この石は現在ある位置より5mほど南側にあった古墳状の塚の上にあったもので、人々
はその塚を将軍塚とも金山様(かなやまきま)とも呼んで村の浄域としていたが、明治27
年この塚はとりこわされた。
  
 この塚には木曽義仲(朝日将軍)の家臣の落人伝鋭が秘められている。

 寿永3年(1184年)義仲が近江粟津で討死したのち、その家臣の一人が敵の目をのが
れ、はるばる遠江国田尻に土着したといわれている。

 塚から発見された刀や鎧は家臣がひそかに隠したものだというのである。
  
 現在は考古学の面から、この塚は古墳時代の「田尻第一古墳」で、それを義仲の家臣が
利用したものと考えられている。 (田尻 神社北)

<-海岸近くの古墳は珍しいと感じます。市の遺跡地図にも載せられています。>




29 才業地蔵〔きいぎょうじぞう]      (田尻町)
  
 享保年間(1716~1736年)のころ、ここ田尻新田村に神谷という造り酒屋があった。
 
 ある日、四国讃岐国三好群本山村(きぬきのくにみのこおりもとやまむら)から、はる
ばる行脚の旅を続けてきた酒井才業と林する六部が当地で行き倒れているのを見た商屋の
主人平三は、自分の家で手耳い看護をしたが、病は重くなるばかりで、死期の近いことを
悟った才業は自分の故郷へ飛脚を頼んだ。

 しかし、あて先がわからず手紙は戻ってきた。

 才兼の死後この手紙は供養碑とともに長く神谷家に保存されていたという。

 この手紙の末尾には次の辞世の歌がかかれていた。
  
 - 才業の 形見となるや 筆の跡 我は他国の 土となるらん
  
 最初神谷家の屋敷に祭られていた供養碑を、後世の人が東隣に連なる堤に移し替えたが、
その後どうしたことか天保年間(1830~1844年)に、この神谷家は何か不吉なことでも
あるかのように葬式ばかり続き、遂に死に絶えてしまった。
 
 明治17~18年頃まで神谷家の廃屋の中に白壁の酒蔵がひときわ輝いて人目を引いてい
たという。

 いつごろからかはわからないが、昔から近隣の人達から行われた供養祭を田尻新田の家
々で引き繕いでいる。
                            (田尻新田バス停近く)

<悲しい伝説です。>




30 宝勝寺のまきの木[ほうしょうじのまきのき〕 (田尻町)
  
 嘉永3年(1850年)のこと、この夏は大雨が続き、田尻の人々は大変困っていた。
  
 ある夜、あまりの大雨のために天竜川の堤が切れて水が田尻の村に押し寄せてきた。 
 
 闇のなかに人々が流されているうち、水の中で一本の大木が夜目にもくっきりと光って
見えた。それは村の人々が信心をしていた宝勝寺の境内の大きなまきの木だった。

 ひとびとはこのまきの木につかまって水の引くのを待ち命びろいをした。

 それからのち、村びとたちはその木を霊木としてあがめたという。
  
 まきの木は昔を物語るように宝勝寺に高くそびえたっている。

<浜松市には天竜川の洪水についての言い伝えが多いのです。地域の偉人、金原明善さん
 の治水以後、大規模な工事もあり、洪水は少なくなりました。しかし、昨今の雨の降り
 方からすると油断できません。注意が必要ですね。>









☆「大村はま・教室で学ぶ」大村はま 小学館 1990年【再掲載 2015.10】

<出版社の案内>
教室は、子どもたちの、そこで目を開き、そこで成長する場であるとともに、教師の学び、
目ざめ、成長していく場である…。



◇「ストレートに教えてください」

 M(生徒)
 「先生、ストレートに教えてください」



◇あとがきの評価をめぐって

 学習記録のあとがき
  学習成果、作品、レポート、資料 → 学期末毎に一冊の本に

 内容整理
 → 順序を考える 
 → 目次作り
 → ページ打ち 
 → 表紙
 → とびら
 → 奥付
 → あとがき


Kのあとがき
  早合点による誤解



◇「ああうるさかったあ」

 「作文は嫌い」と言わせない工夫
①「書くことがない」状況にしない
 
   ② 書く前の指導 
       軽く見えて重いもの
       
              ↓
   
          書き込み式文集 


 教師の説明に「ああうるさかったなあ 早く書きたかったのに…」
= 予定していなかった話をするな



◇「ちょっと古かったのではありませんか」

 従来の読書指導に安住できず


 心を打たれた「ことばの事実」
   西尾実「ことばの真実」



◇「殴りたいと思ったことは?」

 相手を一人前の人間として遇する 
   「ことば」への信頼を



◇「あの 感想文なしで」

中学生の読書感想文嫌い  
   読書の価値は感想文に左右されない



◇「好きじゃないと思いますか」

「猿の先生」を差し出した子ども 
     「この本読みませんか」


  子どもたちの成長に頭を下げる



◇「…わけにはいかないんですか」

 自らを失うことの怖さ
   ずうっと読み続けた子ども「甘えの構造」


 手を出さないのも出し方の一つ



◇「一人グループはないんですか」

 大きな机を独り占めしたK



◇「書き取りなんかしなくても…」

 教室の一隅での「放談」
   子どもは一隅、隅っこが好き


 100%でなくても
   辞書ひきの達人



◇「できる子どもだけど…」

できる子できない子 
   子どもへのお土産 … しおり一枚、絵はがき一枚


 できる子いないんですか
「できるできない」の届かないところ



◇「一万 一ページ」  

 読書マラソン 朗読



◇熱中させる資料を

「旅の絵本」安野光雄



◇書き出しの指導  

 「教師が書き出しの文章を」 → 続きを子どもたちに

= 実際に書いてみることが効果的

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