「いいかげんのすすめ」 ひろさちや PHP 2008年 ① /大西忠治さんはこんなことを ①-「授業づくり上達法」民衆社 1987年 ①【再掲載 2020.1】 [読書記録 宗教]
今回は、ひろさちやさんの
「いいかげんのすすめ」1回目の紹介です。
ひろさんの本を読むと、わたしはほっとします。
そのままでいいんだよ、大丈夫だよとと肩を軽くたたいてくれるようです。
出版社の案内には、
「仏教を中心に、宗教的なものの見方・考え方を紹介。戸惑い・不安を抱え、傷つくこと
も多い現実社会を生きるための叡智をやさしく説く。」
とあります。
今回は、
◇餓鬼 - 裕福なのに飢えている人々
◇般若 - 損得を計算しない「ほとけの智慧」
の2つの話。
わたしは、この順番に読んで、気持ちのよい涙を流しました。
特別支援学級の子供たちからわたしが教えられたことはたくさんあります。
時々、自分が恥ずかしくなることも…。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「仏典(『阿毘達磨倶舎論』)には三種の餓鬼が登場する。I無財餓鬼 2少財餓鬼 3
多財餓鬼」
・「じつは、多財餓鬼は、足るを知らないのだ。もうこれで十分です…と、満足すること
ができない。際限なく欲望をふくれあがらせた存在が餓鬼である。つまり、餓鬼とい
うのは、欲望にとめどがなくなった存在である。」
・「ところで、わたしたち日本人は、ほんとうに足るこころを持っているだろうか。ひょ
っとして、日本人は餓鬼になってしまっているのではないだろうか。そうでなければ
幸いである。」
・「普通の子の知恵は、『僕のケーキは小さい』『損をした』といった計算の知恵である。
しかしこの子は、お兄ちゃんや妹が半分しか食べられないとき、自分は一個を食べら
れない、そういう智慧を持っている。ほとけさまは、住職である自分にほとけさまの
智慧を教えるために、この子を授けてくださったのだ」
・「彼は、この子のことを『知恵遅れ』ではなく、『知識遅れ』と呼んでほしいと主張し
ている。」
もう一つ、再掲載となりますが、大西忠治さんの
「授業づくり上達法」①を載せます。
わたしが若い頃は、こうしたさまざまな方法を先輩から学んだものでした。
小さいことかもしれませんが、大事なことです。
学校の多忙化により、いろいろな職員とのんびり話す機会がなくなってきています。
非常に残念です。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「いいかげんのすすめ」 ひろさちや PHP 2008年 ①
◇餓鬼 - 裕福なのに飢えている人々
餓鬼といえば、痩せ細って骨と皮ばかりになった、あわれな生き物である。
ガツガツと飢えていて、路上に落ちた食べ物を拾って食べようとする。
けれども、それを目のところまで持ってくれば、それが突然、炎をあげて燃えだすのだ。
だから、なにも食べることができない。
それが餓鬼である。
わたしたちは、餓鬼といえば、そのような存在を思い浮かべる。
けれども、仏典(『阿毘達磨倶舎論』)には、三種の餓鬼が登場する。
I 無財餓鬼
2 少財餓鬼
3 多財餓鬼
いま述べた、なにも食べられない餓鬼は無財餓鬼である。
だが、少財餓鬼は、少しは食べることができる。とはいえ、彼の食べ物は、膿血や残飯
である。それらをあさって食べるのが少財餓鬼。
まあしかし、少財餓鬼と無財餓鬼は、それほど差がない。
それらと、まるでちがっているのが多財餓鬼である。
多財餓鬼は裕福である。
多くの財産を持ち、たらふく食って太っている。
無財餓鬼・少財餓鬼は地下の世界にしか往めないのに、多財餓鬼は人間世界や天界に往
んでいる。
犬さながらの生活をしているわけだ。
それなのに、どうして「餓鬼」なのであろうか…?
じつは、多財餓鬼は、足るを知らないのだ。
もうこれで十分です……と、満足することができない。
際限なく欲望をふくれあがらせた存在が餓鬼である。
つまり、餓鬼というのは、欲望にとめどがなくなった存在である。
ところで、わたしたち日本人は、ほんとうに足るこころを持っているだろうか。
ひょっとして、日本人は餓鬼になってしまっているのではないだろうか。
そうでなければ幸いである。
◇般若 - 損得を計算しない「ほとけの智慧」
仏教では、凡夫の知恵と「ほとけの智慧」を区別する。
そして「ほとけの智慧」を、「般若」と呼ぶことを知っている人も多いであろう。
わたしの知人の住職に、いわゆる「知恵遅れ」の子を持つ親がいる。
「知恵遅れ」といったことばは使わないほうがいいのだが、彼の言いたいことを伝える
ためにあえて使わせていただく。
「世間の人は、この子を知恵遅れと呼ぶが、この子の智慧は遅れていない。この子は、ほ
とけさまの智慧を持った子である。わたしはこの子から、仏教の、ほとけさまの智慧を
教わった」
彼はそう言うのだ。
彼が言うその子は3人兄弟の真ん中の子である。
その子は、お兄ちゃんや妹が外へ行っているあいだは、おやつを食べようとしない。
二人が帰ってくるまで待っているのだ。
あるとき、3人に2つしかケーキがなかった。
母親は真ん中の子に一つあげて、兄と妹には半分ずつを与えた。
だが、その子はケーキを食べようとしなかった。
はっと気がついた母親は、その子のケーキを半分にして、自分も半分を食べた。
するとその子は、喜んで食べはじめたという。
「普通の子の知恵は、『僕のケーキは小さい』『損をした』といった計算の知恵である。
しかしこの子は、お兄ちゃんや妹が半分しか食べられないとき、自分は一個を食べられ
ない、そういう智慧を持っている。ほとけさまは、住職である自分にほとけさまの智慧
を教えるために、この子を授けてくださったのだ」
彼はそう言う。
そして、この子のことを「知恵遅れ」ではなく、「知識遅れ」と呼んでほしいと主張し
ている。
☆大西忠治さんはこんなことを ①-「授業づくり上達法」民衆社 1987年 ①【再掲載 2020.1】
<出版社の案内>
だれも語らなかった基礎技術。大西忠治氏が30年をかけて追求してきた「見る」「動く」
「書く」「評価する」といった授業つくりの技術が、今鮮やかに甦る。教育技術のベスト
セラー、待望の復活!
◇メッセージ
□技術の重要さ
- 誠意と情熱は基礎
□一年に二つか三つ(研究授業をしよう=ハマコウ註)
子供との協力があってこそ効力発揮(技術の裏側に教育観)
◇四分六の構え (大西忠治)
□四分六の構えで板書する
= 身体を斜めにして板書
視界の六分で子供の顔を見る
□背中で子供を見られるようになればベテラン
どうしても黒板に身体を向けるとき
背中で問答…課題を指示してから
子供の発言を聞くときも,特定の一人に話すときも四分六の構えで
◇子供を見て授業しているか(大西忠治)
□流れる視線ととらえる視線
斉藤喜博
「授業を見るのなら教室の前の方から,子供の顔が分かる位置から見るべきだ。」
せめて教室の横のできるだけ前の方から
教師の視線を重視
□とらえる視線を身につける
「顔を向けてくれているが,一人だけ心を向けてくれない人がいます。だから,もう少し
待ちます。」
子の目,表情で分かる
= 子供の心の動きをつかみながら授業をしようという自覚が「とらえる視線」
↓
反応如何で授業内容,仕方,スピードを変えなければならない
<子供と一緒に作り上げる授業>
・ まず見る子を一人だけ決めておくこと
・ 発見してから帰る
◇目で聞き耳で見る
□複合的指導
一つの行為をしながら他の教育的注意
□教師は目でも聞く
一斉問答 みんなに何かを一斉に唱和させる
□教師は耳でも見る
板書しながら問いかける
- 子供の声の違いを聞き分ける
◇立つべき位置を意識しているか
□二種類の「四分六の構え」
黒板の右と左で
□重要な発問・説明
教卓の前に
□個人問答の時
発言する子供との間になるべく多くの子供を抱え込む位置に移動する ・ 子供も大きな声に
・ クラス全体に向けての質問に
□子供に接近して問答するとき
「いいかげんのすすめ」1回目の紹介です。
ひろさんの本を読むと、わたしはほっとします。
そのままでいいんだよ、大丈夫だよとと肩を軽くたたいてくれるようです。
出版社の案内には、
「仏教を中心に、宗教的なものの見方・考え方を紹介。戸惑い・不安を抱え、傷つくこと
も多い現実社会を生きるための叡智をやさしく説く。」
とあります。
今回は、
◇餓鬼 - 裕福なのに飢えている人々
◇般若 - 損得を計算しない「ほとけの智慧」
の2つの話。
わたしは、この順番に読んで、気持ちのよい涙を流しました。
特別支援学級の子供たちからわたしが教えられたことはたくさんあります。
時々、自分が恥ずかしくなることも…。
今回紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「仏典(『阿毘達磨倶舎論』)には三種の餓鬼が登場する。I無財餓鬼 2少財餓鬼 3
多財餓鬼」
・「じつは、多財餓鬼は、足るを知らないのだ。もうこれで十分です…と、満足すること
ができない。際限なく欲望をふくれあがらせた存在が餓鬼である。つまり、餓鬼とい
うのは、欲望にとめどがなくなった存在である。」
・「ところで、わたしたち日本人は、ほんとうに足るこころを持っているだろうか。ひょ
っとして、日本人は餓鬼になってしまっているのではないだろうか。そうでなければ
幸いである。」
・「普通の子の知恵は、『僕のケーキは小さい』『損をした』といった計算の知恵である。
しかしこの子は、お兄ちゃんや妹が半分しか食べられないとき、自分は一個を食べら
れない、そういう智慧を持っている。ほとけさまは、住職である自分にほとけさまの
智慧を教えるために、この子を授けてくださったのだ」
・「彼は、この子のことを『知恵遅れ』ではなく、『知識遅れ』と呼んでほしいと主張し
ている。」
もう一つ、再掲載となりますが、大西忠治さんの
「授業づくり上達法」①を載せます。
わたしが若い頃は、こうしたさまざまな方法を先輩から学んだものでした。
小さいことかもしれませんが、大事なことです。
学校の多忙化により、いろいろな職員とのんびり話す機会がなくなってきています。
非常に残念です。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「いいかげんのすすめ」 ひろさちや PHP 2008年 ①
◇餓鬼 - 裕福なのに飢えている人々
餓鬼といえば、痩せ細って骨と皮ばかりになった、あわれな生き物である。
ガツガツと飢えていて、路上に落ちた食べ物を拾って食べようとする。
けれども、それを目のところまで持ってくれば、それが突然、炎をあげて燃えだすのだ。
だから、なにも食べることができない。
それが餓鬼である。
わたしたちは、餓鬼といえば、そのような存在を思い浮かべる。
けれども、仏典(『阿毘達磨倶舎論』)には、三種の餓鬼が登場する。
I 無財餓鬼
2 少財餓鬼
3 多財餓鬼
いま述べた、なにも食べられない餓鬼は無財餓鬼である。
だが、少財餓鬼は、少しは食べることができる。とはいえ、彼の食べ物は、膿血や残飯
である。それらをあさって食べるのが少財餓鬼。
まあしかし、少財餓鬼と無財餓鬼は、それほど差がない。
それらと、まるでちがっているのが多財餓鬼である。
多財餓鬼は裕福である。
多くの財産を持ち、たらふく食って太っている。
無財餓鬼・少財餓鬼は地下の世界にしか往めないのに、多財餓鬼は人間世界や天界に往
んでいる。
犬さながらの生活をしているわけだ。
それなのに、どうして「餓鬼」なのであろうか…?
じつは、多財餓鬼は、足るを知らないのだ。
もうこれで十分です……と、満足することができない。
際限なく欲望をふくれあがらせた存在が餓鬼である。
つまり、餓鬼というのは、欲望にとめどがなくなった存在である。
ところで、わたしたち日本人は、ほんとうに足るこころを持っているだろうか。
ひょっとして、日本人は餓鬼になってしまっているのではないだろうか。
そうでなければ幸いである。
◇般若 - 損得を計算しない「ほとけの智慧」
仏教では、凡夫の知恵と「ほとけの智慧」を区別する。
そして「ほとけの智慧」を、「般若」と呼ぶことを知っている人も多いであろう。
わたしの知人の住職に、いわゆる「知恵遅れ」の子を持つ親がいる。
「知恵遅れ」といったことばは使わないほうがいいのだが、彼の言いたいことを伝える
ためにあえて使わせていただく。
「世間の人は、この子を知恵遅れと呼ぶが、この子の智慧は遅れていない。この子は、ほ
とけさまの智慧を持った子である。わたしはこの子から、仏教の、ほとけさまの智慧を
教わった」
彼はそう言うのだ。
彼が言うその子は3人兄弟の真ん中の子である。
その子は、お兄ちゃんや妹が外へ行っているあいだは、おやつを食べようとしない。
二人が帰ってくるまで待っているのだ。
あるとき、3人に2つしかケーキがなかった。
母親は真ん中の子に一つあげて、兄と妹には半分ずつを与えた。
だが、その子はケーキを食べようとしなかった。
はっと気がついた母親は、その子のケーキを半分にして、自分も半分を食べた。
するとその子は、喜んで食べはじめたという。
「普通の子の知恵は、『僕のケーキは小さい』『損をした』といった計算の知恵である。
しかしこの子は、お兄ちゃんや妹が半分しか食べられないとき、自分は一個を食べられ
ない、そういう智慧を持っている。ほとけさまは、住職である自分にほとけさまの智慧
を教えるために、この子を授けてくださったのだ」
彼はそう言う。
そして、この子のことを「知恵遅れ」ではなく、「知識遅れ」と呼んでほしいと主張し
ている。
☆大西忠治さんはこんなことを ①-「授業づくり上達法」民衆社 1987年 ①【再掲載 2020.1】
<出版社の案内>
だれも語らなかった基礎技術。大西忠治氏が30年をかけて追求してきた「見る」「動く」
「書く」「評価する」といった授業つくりの技術が、今鮮やかに甦る。教育技術のベスト
セラー、待望の復活!
◇メッセージ
□技術の重要さ
- 誠意と情熱は基礎
□一年に二つか三つ(研究授業をしよう=ハマコウ註)
子供との協力があってこそ効力発揮(技術の裏側に教育観)
◇四分六の構え (大西忠治)
□四分六の構えで板書する
= 身体を斜めにして板書
視界の六分で子供の顔を見る
□背中で子供を見られるようになればベテラン
どうしても黒板に身体を向けるとき
背中で問答…課題を指示してから
子供の発言を聞くときも,特定の一人に話すときも四分六の構えで
◇子供を見て授業しているか(大西忠治)
□流れる視線ととらえる視線
斉藤喜博
「授業を見るのなら教室の前の方から,子供の顔が分かる位置から見るべきだ。」
せめて教室の横のできるだけ前の方から
教師の視線を重視
□とらえる視線を身につける
「顔を向けてくれているが,一人だけ心を向けてくれない人がいます。だから,もう少し
待ちます。」
子の目,表情で分かる
= 子供の心の動きをつかみながら授業をしようという自覚が「とらえる視線」
↓
反応如何で授業内容,仕方,スピードを変えなければならない
<子供と一緒に作り上げる授業>
・ まず見る子を一人だけ決めておくこと
・ 発見してから帰る
◇目で聞き耳で見る
□複合的指導
一つの行為をしながら他の教育的注意
□教師は目でも聞く
一斉問答 みんなに何かを一斉に唱和させる
□教師は耳でも見る
板書しながら問いかける
- 子供の声の違いを聞き分ける
◇立つべき位置を意識しているか
□二種類の「四分六の構え」
黒板の右と左で
□重要な発問・説明
教卓の前に
□個人問答の時
発言する子供との間になるべく多くの子供を抱え込む位置に移動する ・ 子供も大きな声に
・ クラス全体に向けての質問に
□子供に接近して問答するとき