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「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」浜松市博物館特別展 H27 ③ /「『悩む力』を失った若者たち-悩みを克服して新しく生きようとする『生きる力』として『悩む力』が必要なのだ-  新堀通也・武庫川女子大学教授(当時)-「月刊少年育成」2004年1月号より【再掲載 2012.6】 [読書記録 郷土]

今回は、7月25日に続いて、
H27.11.1(日)~12.6(日)に浜松市博物館で開催された、
徳川家康公顕彰四百年記念事業特別展
「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」の紹介3回目です。



特別展の紹介には


「若き家康が今川氏から独立し、三河国を平定したのち、今川領であった遠江
 国をいかに攻略し平定していったのか。そこには、遠江の国人たちの抵抗や
 恭順があり、家康や家臣たちが苦労して遠江国を平定し、天下取りの足掛か
 りとした歴史がありました。
 徳川家康公顕彰四百年記念の本年は、家康と、井伊直虎や飯尾連龍など遠江
 の国衆の資料を集めた特別展を開催いたします。」

 
とあります。




本日紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「本能寺の変後、家康は甲斐や信濃に出兵し旧武田領を領有した。領地は三
河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5国となった」


・「家康は武田家の旧家臣を抱えて、徳川軍や譜代の家臣団に組み込んだ。井
伊直政は武田家の旧家臣を召し抱えて最強の赤馬団を形成した」


・「小田原の北条氏攻めで先発を務めた家康は落城後旧北条氏領地の関東へ移
封となった。その際、三河譜代家臣・遠江国衆も移住した」


・「戦国期、戦国大名だった今川氏は、江戸時代には旗本(高家)となった」




もう一つ、再掲載になりますが、新堀通也さんの
「悩む力を失った若者たち」を載せます。
悩むこと、考えることを面倒に思う子どもたちの顔が頭に浮かびます。



<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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☆「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」浜松市博物館特別展 H27 ③

◇エピローグ 将軍家康と国衆のその後(徳川260年の天下泰平)
□天正3(1575)年 
  長篠設楽原の戦い
   信長・家康連合軍  
      武田勝頼 
        - 武田氏は天正10(1582)年に滅びる
家康は遠江の再平定と駿河の領有化
   
  本能寺の変後 
家康は甲斐や信濃に出兵 → 旧武田領の領有化
領地 = 三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5国
家康は武田家の旧家臣を抱えて、徳川軍や譜代の家臣団に組み込んだ
井伊直政
       - 武田家の旧家臣を召し抱えて最強の赤馬団を形成
小牧長久手の戦い、小田原城攻め、関ヶ原の合戦で功績
→ 譜代筆頭の大名 幕末まで要職


□天正18(1590)年 
小田原の北条氏攻め
先発 → 落城後
旧北条氏領地の関東へ移封
三河譜代家臣・遠江国衆も移住


□家康に就いた国衆たちのその後
  氏族    戦国期     江戸時代

井伊氏   国衆  →    大名(近江彦根)
近藤氏   土豪  →    旗本
菅沼氏  土豪 →  紀伊徳川家家臣
鈴木氏  土豪 →  水戸徳川家家臣
松下氏   土豪  →    大名(奥州三春)
都筑氏   土豪  →    本多家家臣
久野氏   国衆  →    紀伊徳川家家臣
江間氏   土豪  →    紀伊徳川家家臣
小笠原氏  国衆  →    紀伊徳川家家臣
大沢氏   国衆  →    旗本(高家)
本間氏   土豪  →    旗本
今川氏   戦国大名→    旗本(高家)








☆「『悩む力』を失った若者たち-悩みを克服して新しく生きようとする『生きる力』として『悩む力』が必要なのだ-  新堀通也・武庫川女子大学教授(当時)-「月刊少年育成」2004年1月号より【再掲載 2012.6】

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◇悩みと人間

 観察や実験によって明らかなように動物にもストレス、怒り、敵意、競争心
などの心理は存在するが、それらを悩みと称することはできない。


 それらは生物学的な本能、例えば個体と種の保存という本能に由来しており、
悩みという複雑微妙な心理とは本質的に異なる。


 悩みの基礎は自我意識であり、悩みは自我意識の発達とともに生まれる。だ
から生まれたばかりの赤ちゃんにも、動物的なストレスや怒りは見られるが、
自我を意識していないので悩みにはならない。


 やがて自我を意識するようになると、自分の容姿や素質などをきょうだいや
仲間と比較したり、比較させられたりして、自己に対する劣等感や敗北感、す
ぐれた相手に対する羨望やひがみを抱くようになる。そうした劣等感やひがみ
自体にさいなまれ、それから脱し切れない自我を意識するとき生まれるのが悩
みである。


 例えば劣等感に悩まされ、劣等感に悩む自分に悩むのであり、悩みとは劣等
感と同列にある心理ではなく一種のメタ心理だといってよい。


 そこでさらにこんな自分を生んだ親に対するうらみ、自分を一向に評価して
くれない周囲に対するひがみや敵意が育って悩むようになる。


 こうした悩みは程度の差はあれ、自己と他者との比較を制度化している社会、
例えば学校や会社に入って優劣を評価される場合、トップの者以外のすべての
人にとって不可避である。


 いやトップの者さえ、いつトップの座を奪われるかという不安に襲われるし、
周囲からの羨望や敵意にさらされる。学校で成績はトップの人も人望や人気は
低いかもしれない。


 こうして一見、世間からみれば羨しい限りの、悩みなどと無縁と考えられて
いるエリート、成功者にも家族関係、子どもの教育、健康上の心配など、人知
れぬ悩みがあり、心労は絶えない。


 このように悩みはすべての人間にとって不可避の宿命であり、人間とは唯一、
悩める動物だと定義することができる。人生とは悩みの連続であり、悩みをい
かに受けとめ処理、克服するか、悩みといかに付き合うかという「悩む力」は
「生きる力」の中核的な要素だといってよい。


 悩みはたしかに誰にも経験され、決して愉快なものではなく、悩みがあるこ
と自体、人間特有、人間永遠の悩みだといえるが、同時に悩みは人間固有の特
権であり、悩みを通してこそ人間的な成長、充実はもたらされると解すべきで
あろう。


 古来、人間の定義は数多いが、人間は社会的存在といわれ、歴史的存在とい
われる。前者は人間をヨコ軸から、後者は人間をタテ軸から、換言すれば前者
は空間、後者は時間からその特徴をとらえようとした定義である。さらにそれ
ぞれを大きく分けるなら、前者は自我を取り巻く他者(家族、知り合い、住民、
国民、人類など)、あるいは環境に、後者は過去、現在、未来に分類される。


 そして現在の自我はこの二つの軸の交差点に位置する。


 客観的に見ればどんな人間も(あらゆる動物、生物と同様)過去や環境から
決定的な影響を受けているが、人間だけはそれをいかに解釈するかという特権
的な能力を賦与されている。


 現在の自分が過去や環境の所産であることは間違いないが、不幸、不遇な過
去を後悔し問責する人もあれば、それから教訓を得、それをバネにして成長し
ようとする人もある。


 思い通りにならない他者や環境に打ち負かされて逃避したり破壊的行為に出
たりする人もいれば、建設的な人間関係を打ち立てい人は、他人の悩みに気付
かない。


 悩みや悩みを生み出す過去や環境などを嘆き悲しんで劣等感や絶望感、孤独
感や人間不信に陥るのではなく、悩みを克服して新しく生きようとする「生き
る力」として「悩む力」が必要なのだ。



◇未来と理想

 悩みのレパートリにはさらに自己の未来や理想にかかわる悩みがある。その
時その時、その場その場で思い通りにいかない現実的な悩みがあるとともに、
これからの自分はどうなるか、これからの自分はどう生きるべきかについての
悩みがある。過去や現実とはちがって、未来や理想は自己の判断、決断、選択
によって左右できる程度が大きい。


 その日暮らしの刹那主義、現実主義の人にはこの種の精神的あるいは道徳的
な悩みは乏しいが、自我を大事にする人、生きがい、自己実現を求める人、自
我意識に目覚めた人にとっては、この種の悩みは最も深刻である。


 現代のような経済不況のもとでは誰もが失業やリストラ、勤務先、さらには
国や世界の行く末に不安を覚えているし、現代のように社会変化の激しい時代
には誰もがその変化から取り残され、「落ちこぼれ」てしまうのではないかと
絶えず心配している。


 これらの悩みは何れも将来への不安に根ざした現実的な悩みだが、ここでい
う精神的、道徳的な悩みとは自分の目標や理想に解らして、自分はこれでいい
か、このままでいいか、といった悩みであり、多くの選択肢のうちどれを選べ
ばよいかといった自己反省、自己決断にかかわる悩みである。


 かつての身分社会、封建社会のもとでは個人は予め将来の道を運命的に決め
られていたし、自己決定、自己選択の範囲は限られていたから、そこには「あ
きらめ」という名のもと、この種の悩みは少なく、人びとは与えられた仕事の
中に生きがいを見い出す訓練を受けていた。


 しかし現代はそうではない。個人の尊重、選択の自由が高らかに謡われ、人
びとには生き方にせよ行き先にせよ、選択の幅が広く開かれている。親のいう
まま世間の流行のままに自らの将来や現在を委ねるわけにいかず、自ら絶えず
選択し決断しなくてはならない。


 また自らの抱く理想や目標に照らして現在の自分を見つめ反省しなくてはな
らない。こう見てくると、現代日本にこの種の悩みが広範深刻になって当然で
ある。しかもこうした悩みが自己反省、自己批判、自己責任、自己決定、理想
や希望などといった自我の確立を生む刺激、機縁となるのだ。



◇悩みを忘れた著者たち

 ところが奇妙にも、また不幸にも、現代日本の若者には「生きる力」の中で
も最も重要な「悩む力」はおろか、悩みそのものを忘れた若者が急増している。


 彼らにも多くの不満、不平、不安、逸鋭、失敗があり悩みがあることは事実
だが、その悩みを自ら悩み、自ら乗り趨えて立ち直ろうとする「悩む力」を養
うことに、現代の大人はすこぶる臆病、冷淡であり、人間にとって極めて大事
な悩みそのものを不幸と同一視し、子どもからできるだけ悩みを取り除いてや
ることが子どもの幸福に連なり、子どもの人格や人権を尊重するゆえんだと決
めてかかる傾向がある。


 悩みの原因になりそうなものは大人が前以て除去してやり、また悩みに陥っ
た子どもには大人がサポートの手を差しのべてケアしてやる。


 悩みの原因はすべて悩みを除去し、いやしてやれない大人にあるとする。


 その一方、子どもの欲求や希望はできるだけかなえ、子どもにはやりたいこ
とは何でもやれるよう自由な選択の幅を大きくする。家庭でも学校でも「子ど
もが主人公」という子ども中心主義が信奉され拡大解釈されるので、子どもは
自己中心主義に陥り、悩みを知らぬ子どもが大量に生まれる。


 こうした子どもが何らかの失敗、孤立、無視、不満などを経験するとき、自
らの悩みの原因を探って自己を見つめ、自ら悩みを克服する力を養われていな
かっただけに、悩みを理解してくれず、救いの手を差し伸べてくれない(と勝
手に考える)親や教師に八ツ当たりし、悩みの原因をすべて外に求めて癇癪を
爆発させる。


 他方、親や教師が善意で敷いたレールの上を何の疑いもなく走りつづける子
どももいるが、彼らは悩むことを知らないのでそれだけ「悩む力」を養われて
いない。


 彼らが複線のレールの中から一つを自ら選択し、自ら独立した人生を歩まな
くてはならない立場におかれたとき、深刻な悩みに直面せざるを得ない。


 現代日本の青少年は先に述べたヨコ軸(空間的、社会的存在としての視点)
とタテ軸(時間的、歴史的存在としての視点)から現在の自我を位置付ける訓
練や教育を受けていないので、ヨコ軸では自己と他者との関係を無視した自己
中心主義に陥り、タテ軸では過去を生かし、未来を見通して現在を反省しよう
としない刹那主義を奉じ、自分さえよければ、現在さえ楽しければ、それでよ
いという人生観を抱きやすい。


 他者や周囲の悩みや迷惑は意に介さず、未来への希望、責任、予想も忘れ、
少しでも自分の気に入らないこと、ムシャクシャすることがあればすぐにカッ
となって爆発したり、自分の殻の中に閉じ込もったりする。


 今さえ楽しければ、何をやっても勝手だと考える。現在、広く見られる若者
の間に見られる犯罪は、「悩む力」、いや悩みそのものを失なった彼らの象徴
だといってよい。


 例えばここ一年を取っただけでも、大きな不安と広い関心とを引き起こした
事件がいくつか起きている。代表的なのは長崎市で4歳の幼児を12歳の中学
生が誘い出して性的ないたずらをした後、駐車場ビルの4階から突きおとして
殺害、東京六本木では早大や東大など有名大学の学生が主催するサークル(通
称スーフリ)のイベントに全国から集まった多数の女子学生を集田強姦、大阪
府河内長野市では大学一年の男子が家族3人を殺傷、交際相手の高校一年の女
子も家族殺害計画をもっていたとして逮捕、といった事件がそれだ。


 詳しく説明する余裕はないが、何れも前後左右の見境いのない、「悩む力」を
失なった若者たちの代表だといってよい。
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