徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」浜松市博物館特別展 H27 ④ /「ほめるな」伊藤進 講談社現代新書 2005年 ①【再掲載 2014.2】 [読書記録 郷土]
今回は、7月28日に続いて、
H27.11.1(日)~12.6(日)に浜松市博物館で開催された、
徳川家康公顕彰四百年記念事業特別展
「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」の紹介4回目です。
特別展の紹介には
「若き家康が今川氏から独立し、三河国を平定したのち、今川領であった遠江
国をいかに攻略し平定していったのか。そこには、遠江の国人たちの抵抗や
恭順があり、家康や家臣たちが苦労して遠江国を平定し、天下取りの足掛か
りとした歴史がありました。
徳川家康公顕彰四百年記念の本年は、家康と、井伊直虎や飯尾連龍など遠江
の国衆の資料を集めた特別展を開催いたします。」
とあります。
本日紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「飯尾氏『いのお』と読む」
・「江間兄弟が武田、徳川どちらにつくかで内紛
江間氏は家康の一家臣となって近世を迎えることになる。
紀伊和歌山で紀伊徳川家に仕える」
もう一つ、再掲載になりますが、伊藤進さんの
「ほめるな」①を載せます。
ほめる教育が、ほめられなければ動かない子どもを生んでいるのではないか、
と思うこともしばしばあります。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」浜松市博物館特別展 H27 ④
◇家康の遠江侵攻浜松在城時の国衆の動向 森田香司(静岡県地域史研究会事務局) 1
□飯尾氏・松下氏・大澤氏
1 飯尾氏
① 出自 「いのお」と読む 鎌倉幕府三善義信の子孫 足利氏奉公人
主に讃岐国・阿波国
- 吉良氏との関係が深くなった一族が三河で家臣に
◎ 吉良氏の一族だった今川氏に協力することになり、文明年間に
遠江初代飯尾長連
② 歴代
長連 -賢連-乗連-連龍
為清
初代長連
- 今川氏に味方し文明8(1476)塩買坂の戦いで今川義忠と共に討死に
見付城を落としたが横地氏・勝田氏(?)らの反撃で討ち死に
2代賢連(?~1522?)
- 長連の戦功により浜松荘の奉行を吉良氏から命じられた
浜松荘
鎌倉時代に成立した荘園
吉良氏南北朝期にその地頭職
浜松市の南端部を東西に長い楕円形の荘園
「吉良殿御領」
- 代官が大河内貞綱
3代乗連(不詳)
遅くとも文永2(1522)年には跡を継いだ
- 引馬城主となり今川支配下
浜松を中心とする寄親(?)となり、江間氏や松下氏を寄子
にして合戦の軍役
今川氏の軍役
天文18(1549)年には岡崎城三河国の政務
桶狭間の合戦にも従軍
それ以降に亡くなった
1565年 連龍(子)が謀殺された
連歌師の宗長や宗牧とも交流
4代連龍(?~1565)
氏真の三河支配の失敗
→ 徳川家康と早くから気脈
永禄4(1562)年2月 尾三同盟
三州錯乱 → 今川三河支配瓦解
遠江国衆も今川氏に反旗
永禄6(1564)年12月16日
引間郷飯田で合戦
今川方 新野佐馬助・朝比奈康朝が討ち死に
頭陀寺城に籠城
~ 永禄7(1565)年3月まで戦うが決着つかず和睦
4月8日 家康・連龍会談-同盟
氏真は再度引馬城を攻めたが落城できず飯尾氏と和解
永禄8(1566)年12月
氏真が連龍を駿府に招く 20日
飯尾屋敷で謀殺される
駿府に行くように仲介したのは松井「強八」宗恒か
(妻が連龍の姉)
連龍を失った引馬城
氏真に反旗 ← 氏真が再度攻める
飯尾家臣の江間加賀守時成、江間安芸守泰顕は家康
に助け求め
→ 家康が安堵
◎浜松領
南端 寺嶋郷(現寺島町)~西端 舞阪郷(舞阪町)
飛び地 阿多古郷(室町期に吉良氏が獲得した所領)
総年貢 1200貫文超
氏真との戦いは長期戦に → 4月に再和睦
今川氏 江間兄弟に千貫文安堵(今川方に帰参)
永禄11(1569)年
江間兄弟が武田、徳川どちらにつくかで内紛
|
家康は三河から一気に遠江国安間村(現東区安間町)
|
江間兄弟が喧嘩
泰顕が時成を殺害
泰顕も時成家臣の小野田彦右衛門に斬り殺された
→ 徳川方に開城
(連龍後室の戦いはなかった もしくは永正年間)
|
駿府に人質に取られていた母は駿府で殺され、時成
の子・弥三一成は助け出されたが眼病
~ 一成は安堵
江間氏は家康の一家臣となって近世を迎えることになる
→ 紀伊和歌山で紀伊徳川家に仕える
☆「ほめるな」伊藤進 講談社現代新書 2005年 ①【再掲載 2014.2】
[出版社の案内]
「ほめれば人は伸びる」というのは間違いだ。
いま、教育現場では「ほめる教育」が常識になっている。子どもの意欲と自信
をはぐくむというこの理論のウソを指摘し、インタラクティブな真の教育の姿
を提示する
◇蔓延する「褒める教育」
褒めることはいいことか
浅知恵 … 一面的,長期的な視野を欠く
事例
① とにかく褒める授業
② 褒める指導で金メダル
小出監督 2000年シドニー 保護者然
③ 試験でも褒める教授
④「○○子はいい子じゃない」
⑤「部下は褒めて育てよう」
◇教育の根本目的は自立の支援
「褒める教育」の骨子
骨子
① 意欲を持たせる効果
うれしい気持ちが意欲に繋がる
② 方向付ける効果
フィードバック機能
適切な方向付け
③ 自信を与える効果
認められる
→ 自信
④ 人間関係をよくする
技術論から本質論へ
長期的視野の重要性
抜けているもの
① 長期的視野
② 教育の根本目的に対する認識
教育の根本目的は自立の支援
◇「褒める教育」は動物に芸を仕込む方法
動物ショー
道具的条件付け
E.L.ソーンダイク(米)
猫の実験 - 強化刺激
ペダルを踏むとエサ
シェーピング
道具的条件付けを積み重ね,動物に芸を仕込む方法
「褒める教育」は条件付けのテクニック
状況 → 行動 → 強化
◎ 自立には明らかにマイナス
◎ 人の目ばかり気にする人間をつくる
「褒める教育」は,道具的条件付けの方法によって子どもや若者を
コントロールする育て方である
「よい-悪い」の評価の物指し
~ 褒められなければ価値はない?
◎ 評価の眼に包囲されて生きる今の子どもたち
他者の目と自分自身の判断のバランスこそ大切
↓
※ 子どもを評価漬けにする恐れ
H27.11.1(日)~12.6(日)に浜松市博物館で開催された、
徳川家康公顕彰四百年記念事業特別展
「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」の紹介4回目です。
特別展の紹介には
「若き家康が今川氏から独立し、三河国を平定したのち、今川領であった遠江
国をいかに攻略し平定していったのか。そこには、遠江の国人たちの抵抗や
恭順があり、家康や家臣たちが苦労して遠江国を平定し、天下取りの足掛か
りとした歴史がありました。
徳川家康公顕彰四百年記念の本年は、家康と、井伊直虎や飯尾連龍など遠江
の国衆の資料を集めた特別展を開催いたします。」
とあります。
本日紹介分より強く印象に残った言葉は…
・「飯尾氏『いのお』と読む」
・「江間兄弟が武田、徳川どちらにつくかで内紛
江間氏は家康の一家臣となって近世を迎えることになる。
紀伊和歌山で紀伊徳川家に仕える」
もう一つ、再掲載になりますが、伊藤進さんの
「ほめるな」①を載せます。
ほめる教育が、ほめられなければ動かない子どもを生んでいるのではないか、
と思うこともしばしばあります。
<浜松のオリーブ園>
浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト
〈ふじのくに魅力ある個店〉
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>
ものづくりのまちとも言われる浜松。
山田卓司さんのすばらしい作品を
ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。
☆「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」浜松市博物館特別展 H27 ④
◇家康の遠江侵攻浜松在城時の国衆の動向 森田香司(静岡県地域史研究会事務局) 1
□飯尾氏・松下氏・大澤氏
1 飯尾氏
① 出自 「いのお」と読む 鎌倉幕府三善義信の子孫 足利氏奉公人
主に讃岐国・阿波国
- 吉良氏との関係が深くなった一族が三河で家臣に
◎ 吉良氏の一族だった今川氏に協力することになり、文明年間に
遠江初代飯尾長連
② 歴代
長連 -賢連-乗連-連龍
為清
初代長連
- 今川氏に味方し文明8(1476)塩買坂の戦いで今川義忠と共に討死に
見付城を落としたが横地氏・勝田氏(?)らの反撃で討ち死に
2代賢連(?~1522?)
- 長連の戦功により浜松荘の奉行を吉良氏から命じられた
浜松荘
鎌倉時代に成立した荘園
吉良氏南北朝期にその地頭職
浜松市の南端部を東西に長い楕円形の荘園
「吉良殿御領」
- 代官が大河内貞綱
3代乗連(不詳)
遅くとも文永2(1522)年には跡を継いだ
- 引馬城主となり今川支配下
浜松を中心とする寄親(?)となり、江間氏や松下氏を寄子
にして合戦の軍役
今川氏の軍役
天文18(1549)年には岡崎城三河国の政務
桶狭間の合戦にも従軍
それ以降に亡くなった
1565年 連龍(子)が謀殺された
連歌師の宗長や宗牧とも交流
4代連龍(?~1565)
氏真の三河支配の失敗
→ 徳川家康と早くから気脈
永禄4(1562)年2月 尾三同盟
三州錯乱 → 今川三河支配瓦解
遠江国衆も今川氏に反旗
永禄6(1564)年12月16日
引間郷飯田で合戦
今川方 新野佐馬助・朝比奈康朝が討ち死に
頭陀寺城に籠城
~ 永禄7(1565)年3月まで戦うが決着つかず和睦
4月8日 家康・連龍会談-同盟
氏真は再度引馬城を攻めたが落城できず飯尾氏と和解
永禄8(1566)年12月
氏真が連龍を駿府に招く 20日
飯尾屋敷で謀殺される
駿府に行くように仲介したのは松井「強八」宗恒か
(妻が連龍の姉)
連龍を失った引馬城
氏真に反旗 ← 氏真が再度攻める
飯尾家臣の江間加賀守時成、江間安芸守泰顕は家康
に助け求め
→ 家康が安堵
◎浜松領
南端 寺嶋郷(現寺島町)~西端 舞阪郷(舞阪町)
飛び地 阿多古郷(室町期に吉良氏が獲得した所領)
総年貢 1200貫文超
氏真との戦いは長期戦に → 4月に再和睦
今川氏 江間兄弟に千貫文安堵(今川方に帰参)
永禄11(1569)年
江間兄弟が武田、徳川どちらにつくかで内紛
|
家康は三河から一気に遠江国安間村(現東区安間町)
|
江間兄弟が喧嘩
泰顕が時成を殺害
泰顕も時成家臣の小野田彦右衛門に斬り殺された
→ 徳川方に開城
(連龍後室の戦いはなかった もしくは永正年間)
|
駿府に人質に取られていた母は駿府で殺され、時成
の子・弥三一成は助け出されたが眼病
~ 一成は安堵
江間氏は家康の一家臣となって近世を迎えることになる
→ 紀伊和歌山で紀伊徳川家に仕える
☆「ほめるな」伊藤進 講談社現代新書 2005年 ①【再掲載 2014.2】
[出版社の案内]
「ほめれば人は伸びる」というのは間違いだ。
いま、教育現場では「ほめる教育」が常識になっている。子どもの意欲と自信
をはぐくむというこの理論のウソを指摘し、インタラクティブな真の教育の姿
を提示する
◇蔓延する「褒める教育」
褒めることはいいことか
浅知恵 … 一面的,長期的な視野を欠く
事例
① とにかく褒める授業
② 褒める指導で金メダル
小出監督 2000年シドニー 保護者然
③ 試験でも褒める教授
④「○○子はいい子じゃない」
⑤「部下は褒めて育てよう」
◇教育の根本目的は自立の支援
「褒める教育」の骨子
骨子
① 意欲を持たせる効果
うれしい気持ちが意欲に繋がる
② 方向付ける効果
フィードバック機能
適切な方向付け
③ 自信を与える効果
認められる
→ 自信
④ 人間関係をよくする
技術論から本質論へ
長期的視野の重要性
抜けているもの
① 長期的視野
② 教育の根本目的に対する認識
教育の根本目的は自立の支援
◇「褒める教育」は動物に芸を仕込む方法
動物ショー
道具的条件付け
E.L.ソーンダイク(米)
猫の実験 - 強化刺激
ペダルを踏むとエサ
シェーピング
道具的条件付けを積み重ね,動物に芸を仕込む方法
「褒める教育」は条件付けのテクニック
状況 → 行動 → 強化
◎ 自立には明らかにマイナス
◎ 人の目ばかり気にする人間をつくる
「褒める教育」は,道具的条件付けの方法によって子どもや若者を
コントロールする育て方である
「よい-悪い」の評価の物指し
~ 褒められなければ価値はない?
◎ 評価の眼に包囲されて生きる今の子どもたち
他者の目と自分自身の判断のバランスこそ大切
↓
※ 子どもを評価漬けにする恐れ